壊れやすい卵のための21世紀マンガレビュー(第3回) 野村宗弘『うきわ』

壊れやすい卵のための21世紀マンガレビュー(第3回) 野村宗弘『うきわ』

1 はじめに

 人はなぜ不倫をするのでしょうか? そのものズバリの書名を冠するインタビュー集を開くと、この疑問に対して上野千鶴子が興味深い回答をしていました。「逆に聞きたいですよ。人はなぜ不倫をしないんでしょうか、と(笑)。何度も言うように結婚したら最後、自分の性的身体の自由を手放さなければいけないなんて恐ろしいことを、私はする気にはなれません」(*1)。

 いかにも上野千鶴子らしい強気な物言いに思えます。しかし、この引用で目を引くのは、最後の一文、とくにその後半部に表われている屈託にほかなりません。この引用の少し前に、彼女はより率直な言葉でその内面を明らかにしています。

私はフェミニズムが男との平等を求める思想である以上に、自由を求める思想だと思っています。平等より、私は自由がほしかった。性的な身体の自由はとりわけ重要なものだと思っています。それを結婚によって手放すなんて、考えただけで恐ろしいくらいです。(*2)

 ここに普段の強い口調は見当たりません。発言には結婚によって性的身体の自由を失うことを恐れる、壊れやすい卵のようにナイーヴな精神が露呈しています。上野ほどの学識者が、女性の性的身体の自由は結婚後も保障される、とは言えずにいるのです。上野にとって、ひいては彼女の属する団塊世代の女性にとって「ロマンティックラブ・イデオロギー」がいかに強固な壁であるかを思い知らされます。

 「ロマンティックラブ・イデオロギー」とは近代の家父長制を支える家族規範の一つです。この規範は「「一生に一度の恋に落ちた男女が結婚し、子どもを産み育て添い遂げる」、つまり愛と性と生殖が結婚を媒介とすることによって一体化されたもの」(*3)だと説明されます。ひらたくいえば、恋愛をすること、性交をすること、子を産み育てること、この本来は個別に存在した三項目を、すべて結婚と結びつけて三位一体化し、ひとつのカップルで完遂させるための方便が「ロマンティックラブ・イデオロギー」です。19世紀の欧州で生まれ、戦後の日本社会にも浸透しました。

 日本の少女マンガはとくに主題の軸足を家族から恋愛へと移して以降、残念ながら、大筋ではこの家族規範の強化に加担してきたと言わざるをえません。少女マンガに倣った少年・青年マンガのラブコメディも事情は同じです。

 しかし、近年この規範にラディカルに異議申し立てを行なうマンガ作品が出現し、リベラル派の支持を集めています。例えば「契約結婚」を描いた海野つなみの『逃げるは恥だが役に立つ』はテレビドラマ化を機に社会的人気を博しました。渡辺ペコは「浮気」や「不倫」をモチーフにセンセーショナルな筋立ての『にこたま』や『1122』を著し、この規範の是非を世に問うています。

 壁に対峙する私たちにとって彼女たちのフェミニズムはそれぞれ頼もしい武器となります。しかしながら、本レビューで取り上げるのは別の作品です。彼女たちの強さには壊れやすい卵を傷つけかねないリスクも潜在しているからです。

 イデオロギーは私たちの外部に存在するものではありません。厄介なことに、私たちの内部に巣食う代物です。攻撃すれば、少なからず私たちの内面が傷つくことになります。壁に深く侵され、壊れやすい状態にある卵に処方すべきは、海野つなみや渡辺ペコのような劇薬ではありません。魂に優しく寄り添いそっと力を与えてくれる柔らかなフェミニズムです。

2 作者・作品紹介

 今回ご紹介するのは、野村宗弘『うきわ』(全3巻)です。『やわらかスピリッツ』に201211号から20152月号にかけて連載されました。

 作者は1975年生まれ、広島県出身。高校卒業後に鉄工所に就職し溶接工として勤務した経歴の持ち主です。この経験がデビュー作『とろける鉄工所』(『イブニング』200720号、20081号から20139号)として結実しました。『うきわ』はこの長期連載の終盤に並行して開始された作品です。

 本作は、広島県にある社宅マンションの203号室に住む主婦・マイコと、隣の205号室に住む二葉さんとの切ない恋の物語です(この社宅に204号室は存在しません)。

 マイコは夫の携帯メールを偶然目にし、彼が社内の女性事務員と継続的な不倫関係にあることを知ります。しかし、マイコは夫を問い質すことができません。努めて平静を装い、日々の生活を続けています。そんな折、マイコは夫の上司である隣室の二葉さんと挨拶をする間柄になり、かすかな好意を寄せるようになります。

 早朝にゴミ出しをする行き帰りや、二葉さんが帰宅後に喫煙をするベランダで、二人は並んで静かに言葉を交わします。夫の不倫に耐えかねてマイコが二葉さんに相談すると、二葉さんは、自分も妻の不倫に心を痛めていることをマイコに告白します。二人は少しずつ互いの心に触れ合うようになっていきます。「相談に乗ってもらいよるだけじゃもん」、そう自分に言い聞かせながらも、マイコは二葉さんを自分を救ってくれる「うきわ」だと感じはじめます。

 二人を隔てるベランダの仕切りには「緊急時にはこの壁を突きやぶって隣りへお逃げ下さい」と記されています。それを越えんとする欲望と、越えまいとする理性とが、マイコのなかで激しくせめぎ合います。

3 『とろける鉄工場』

 本作は「日常系」コメディの亜種に見えなくもありません。それでいて、内実は大人の恋愛物語です。そのユニークな構造はカスタードの下にビターなカラメルを隠したプリンに喩えられるかもしれません(「プリン」と「不倫」が似ているのは、もちろんただの偶然です)。この作劇法の下地は、本作とは形式の異なる『とろける鉄工所』の長期連載のなかで準備されました。

 『とろ鉄』は広島県の田舎にある鉄工所で働く溶接工たちの日常を描いたコメディです。一話が四頁で構成される掌編のオムニバスで、一話毎に完結していますが、通読すると物語の進展が浮かび上がる工夫が施されています。登場人物たちの些細な日常を累積するなかで、作者は不可逆的なドラマを紡ぐ術を身に着けたのでしょう。

 『うきわ』のコメディの多くはマイコの奥手な性格に起因します。彼女は暇さえあれば悩み、二葉さんとの接近を妄想します。あるときは頭からベランダの壁を突き破り、またあるときは203号室と205号室の間に二人が暮らす204号室を空想します[図1]。

図1 野村宗弘『うきわ』1巻、小学館、2013年12月、92-93頁。

妄想自体がユーモラスなうえ作者の描き方が文字通りコミカルなので、読者は自然と笑みを浮かべながらマイコへの好感を高めていきます。

 妄想が妄想に留まり続けるかぎり日常は平穏に過ぎていきます。しかし、彼女の意志ひとつで妄想は実質的には実現可能です。本作のスリルはここにあります。ありきたりの日常のなかに回帰不能点が潜んでいます。この危さによって息の詰まるような緊張が生まれています。

 シンプルな絵柄にも触れておきます。作者の人物のデフォルメには榎本俊二の影響が感じられますが、穏やかな作風に合わせて調節されており、幾分おとなしめです。しかし、『とろ鉄』の連載中に作者は独自の武器を磨き上げました。若い女性を可愛らしく、しかも艶っぽく描く技術です。『うきわ』のマイコはその偉大なる達成といえます。

 二巻の装画を見てみましょう。膝を抱えてベランダにしゃがみ込み、こちら(隣室のベランダ)を物憂げに見つめる彼女は、どこか儚げで、凍えそうな寒さを忍んでいるようにも見えます。小さい鼻と口、下がり目の眉、長い黒髪は彼女の控え目な性格を想像させます。目は大きく黒目がちで、瞳は心なしか潤んでいるように見えます。そして、僅かに開いた唇、傾いだ細い首筋、やや上気した頬の上部とそこに掛かって落ちる黒髪が、えもいわれぬ色気を放っています。[図2]

図2 野村宗弘『うきわ』2巻、小学館、2014年7月、表紙カバー表。

4 『花様年華』

 本作には、同様に既婚男女の切ない恋愛を描いた先行作が存在します。2000年に公開されたウォン・カーウァイ監督の映画『花様年華』です。監督が審美眼に適うキャストとスタッフのみを集めて作り上げた奇跡のようなフィルムです。

 舞台は1962年の香港。新聞記者のチャウ(トニー・レオン)と商社で社長秘書として働くチャン夫人(マギー・チャン)、同じ日に同じアパートに引っ越し、隣人同士になった二人は、互いの伴侶が不倫関係にあることに気づき、会話を重ね、秘密の時間を共有していきます。

 にもかかわらず、禁欲的な二人は官能的な欲望を先送りにしていきます。二人はチャウの部屋で一晩を過ごし、さらにチャウが小説を書くために借りたホテルの「2046」号室で逢引を重ねながらも、肉体関係には及びません。二人はチャウの脚本に従い、互いを慰めるために、伴侶との対話に備えるために、恋愛小説を執筆するために、そしてなにより密会の口実を作るために、くりかえしロールプレイを行います。チャン夫人は、ときに夫の不倫を問い質す妻役を、ときに男に別れを告げられる女役を演じます。

 雨のなか唐突に別れを告げるチャウ。茫然とするチャン夫人。チャウが「心の準備はいい?」と質問した次のカットでは、雨が上がり、二人は道路を隔てて手前と奥に配置されています。その後タクシーの後部座席に並んだシーンで、チャン夫人は初めて自らチャウの手を握ります。しかし、二人の思いつめた表情だけを残して非情にもカットは切り替わり、ラジオから流れる歌謡曲「花様的年華」に壁を隔てて耳を傾ける在宅中の二人の姿が映し出されます。決定的な出来事が起こったかもしれない空白は観客の想像力へと委ねられます。

 チャウは記者の仕事の誘いを受けてシンガポールへと渡ります。チャン夫人に同行を求めたものの、彼女は現れませんでした。翌年、チャン夫人はシンガポールで暮らすチャウの部屋を訪れますが、彼に会うことはなく痕跡だけを残して立ち去ります。1966年、チャン夫人は一度は離れたかつての部屋へと戻り、小さな息子と二人暮らしを始めます。その隣室をチャウが手土産を片手に訪れますが、事情を知らない二人が顔を合わせることはありません。映画はカンボジアのアンコールワットを訪れたチャウが「誰にも言えない秘密は木に穴を掘ってそこへ囁き、土で埋めろ」という言い伝えに倣い、遺跡の穴に口づけるようにして過去を封印する場面で幕を下ろします。

 野村宗弘は互いに配慮し合う男女の艶っぽい話を描いてほしい、という趣旨の担当編集者の要望に応えて『うきわ』を執筆したこと、その際に『花様年華』を下敷きにしたことを告白しています。(*4)

5 『花様年華』と『うきわ』の比較

 作者は設定や展開の一部を『花様年華』から借用し、狙い通りに性的接触を忌避する男女の間に官能性が匂い立つマンガを描き上げました。とはいえ『うきわ』には当然ながら作者ならではの個性が発揮されています。ここでは両者を比較し、その独自性を明らかにします。

 まず注目するのはカットです。どちらの作品も散文的な恋愛劇の合間に挿入される詩的なカットが抒情性を高めています。『花様年華』では降りしきる夜雨のなか、街灯、立ち上る靄、その向こうのひび割れた石壁などがクローズアップされ、官能的な気配を盛り上げます。『うきわ』でも各話原稿のあいだあいだに象徴的なイラストや、大胆にコマを割りクローズアップを多用した抽象度の高い頁が挟まれます。こうした書き下ろし頁は相当な枚数に及びます。『花様年華』に通じるモチーフも散見されますが、大半はオリジナルです。その一部は、たんなるムード作りに留まらずメタファとしても機能しています。

 つづいて編集に注目します。描かれるのが周辺的なエピソードばかりで、恋愛がいっこうに進展しない点は両者に共通しています。ただし場面と場面の繋ぎ方の違いが対照的な個性を与えています。『花様年華』では、断片的なシークエンスが、ときに脈絡なく繋ぎ合わされ、錯綜しています。このトリッキーな編集は大変魅力的ですが、何が起きているのか分かりにくいのも確かです。対して『うきわ』では、シークエンス同士の繋ぎ方は親切で、脈絡が維持されています。「今」と「過去」とを往復する語りですが、読みにくさは皆無です。開示すべき情報をしばらく伏せて進行し、読者の興味を惹起する巧妙な構成には舌を巻きます。

 演出にも注目しましょう。抑制の利いたスタイルは両者に共通します。なかには抑制が高じて排除に達した演出さえあります。『花様年華』を観て気づくのは、チャウとチャン夫人の配偶者は声だけしか登場せず、画面に一切顔が映らないことです。『うきわ』では排除がさらに徹底されています。驚くべきことに顔が与えられているのはマイコと双葉さんの二人だけです。ここまで徹底できるのがマンガ表現の強みです。台詞が切り詰められていることもあり、それぞれの思いや先の展開は、多くが二人の表情に託されています。

 最後は内容です。双方とも配偶者の不倫に傷ついた男女の恋愛劇ですが、『花様年華』では互いの配偶者同士が不倫関係にあり、二人に連帯感が生まれているのに対し、『うきわ』では配偶者に別の相手がそれぞれ用意され、個別性が強調されています。また、前者は主軸が男性側にあるのに対し、後者は女性側にあります。以下では、この内容面をさらに掘り下げます。

6 女性の自立の物語

 ここまで既婚者同士の切ない恋愛物語として本作を論じてきました。確かに二人のストイックさによって立ち上ったエロスは、描写の湿度と相俟って嗅覚を刺戟します。しかし、本作からは別種の物語を読みとることも可能です。

 作品名の「うきわ」は、いうまでもなく「うわき」のアナグラムです。この言葉遊びに呼応するかのように、ドーナツ、結婚指輪、電子レンジのスイッチの円周部、荷造りテープなどのリング状のモチーフが随所に登場します。シンプルな絵がそれらを読者に明瞭に印象づけます。

 本作は配偶者の「うわき」によって胸に欠落を抱えた男女が互いに「うきわ」を投げ合って、救い、救われる物語だと、ひとまずは言えます。けれども、本作の最大の美点はこの共依存の物語の先にマイコがうきわを手放す結末を描いた点です。したがって、本作はなによりもまず女性の自立の物語にほかなりません。

 マイコの自立を後押ししたのは二葉さんでした。「うきわって、/自分でふくらませれんにゃあ、/いつかは、/溺れると思うん」。「じゃけ/中山君の奥さんが自分でふくらませる手助けを、わしもできたら嬉しいの――思うとるんよ」。この言葉を支えに、マイコは夫婦で暮らしていた川べりの社宅を出て、ひとりで生きていく決断をします。

 最終話、マイコは新居を借りようと訪れた不動産屋で、とある賃貸マンションの204号室を勧められます。これは偶然にもマイコが二葉さんとの暮らしを夢見た社宅の架空の部屋番号であり、二葉さんと最後に逢引をしたカラオケ店の部屋番号でもありました。しかし、彼女は別の空き室を訊ねます。「405ならあるよ。/一人で行ける?」と問われたマイコは、吹っ切れたような笑顔で「はいっ」と返します。薬指にあった結婚指輪は消えており、髪型もショートカットに変わっています。

 降っていた雨は、店を出ると止んでいました。新居の内見に向かいながら、彼女は小さく「じゃあね」と呟きます。水たまりの前に立ち止まった彼女は、その水鏡のなかに胸に穴の開いた自身の影を幻視しますが、長靴で水たまりを踏みつけて画面奥へと去っていきます。道路脇には彼女が手放したうきわが、ひっそりと残されています。[図3]

図3 野村宗弘『うきわ』3巻、小学館、2015年5月、190頁。

 二葉さんが束の間マイコを救う「うきわ」となったように、この『うきわ』という作品が自立を求める女性たちの救いとなり後押しとなることを筆者は願ってやみません。

7 おわりに

 人はなぜ不倫をするのでしょうか? 筆者には分かりません。ひとつだけ言えるのは不倫というのは結果にすぎず、そこに至るまでの脈絡があり、その脈絡は人それぞれだということです。

 優れた作品は、この尊重すべき脈絡の存在を私たちに教えてくれます。最終巻の刊行を控えたインタビューにおいて、作者は広島弁をまじえて「内にこみ上げてくる欲望が人間を苦しめよるんだと思われているけれど、逆に理性が苦しみの根源かもしれないですよね」(*5)と語り、加えてマイコと二葉さんの恋の障害になっているように見える二葉さんの妻を「救われない人」として切り捨てたくはなかったと述べています。(*6)

 この柔らかく優しい言葉通りに、マイコが自立する物語の裏側で、作者は控えめながらも不倫に及んだ二葉さんの妻が赦しを得る物語を描いています。顔も分からない彼女は、このフェミニズムマンガのもう一人の主人公だと思います。

 終盤、彼女は肩を震わせながら絞り出すように謝罪の言葉を口にします。筆者は彼女の人生の悲哀を思い、涙をこぼさずにはいられませんでした。マイコと、二葉さんの妻と、善良で慎み深い全ての壊れやすい卵たちにこのレビューを捧げ、幸多き人生を祈ります。

 

[註]

*1 亀山早苗『人はなぜ不倫をするのか』20169月(電子版)。
*2 同上。
*3 千田有紀『日本型近代家族 どこから来てどこへ行くのか』勁草書房、2011年、16頁。
*4 秋山義直「ゲノム解析 野村宗弘先生『うきわ』特集インタビュー」2014711日更新、ウェブログ『マンガゲノム』、http://mangagenome.blog.fc2.com/blog-entry-309.html、最終アクセス202118日。
*5 三浦天紗子インタビュー・文「浮気テーマの『うきわ』 最終巻は涙なくしては読めない2015531日更新、ウェブサイト『livedoor NEWS』、https://news.livedoor.com/article/detail/10175164/、最終アクセス202118日(初出、『anan201563日)。
*6 同上。

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