東京藝術大学を目指す人々を描いた漫画『ブルーピリオド』(山口つばさ作、講談社)で一躍注目を集めた藝大受験。『ブルーピリオド』の主人公、矢口八虎は見事に藝大にの現役で合格し進学を決めました。しかし、高い倍率を考えると、藝大生には浪人経験者も少なくありません。何年も勉強を続ける心理的プレッシャーとともに狭い道を突破する体験を描いたのがあららぎ菜名先生の『東京藝大ものがたり』(飛鳥新社)です。
<暗くてドロドロした藝大受験>
東京藝大は美術・音楽系の大学の国内最高峰。どちらの分野も世界に羽ばたくプロを育てています。あららぎ先生はお父さんが藝大出身の陶芸家で、父親のモノづくりの姿を見ていたことで美術に対して憧れを持ち藝大を目指します。
しかし一筋縄でいかないのが藝大受験。国立大学である東京藝大に入るにはまず大学入学共通テスト(あららぎ先生のときはセンター試験)で各学科の定める合格ラインに達しなくてはいけません。さらにその後は学科別の二次試験が待ち構えています。二次試験の倍率は国内最高学府とされる東京大学を上回るもの。学科ごとに毎年変わる二次試験に対応するため、藝大の受験生の多くは専門の予備校に通います。
こうした厳しい試験に挑んだあららぎ先生。家庭の事情で予備校代は親に頼れず私立大学は学費面で難しいため、アルバイトの稼ぎで賄える期間だけ予備校に通い、予備校に通えない間は、父親に実技の指導を仰ぎます。
大人になれば10代のころの1、2年の足踏みは最終的に次に繋がると経験的にわかりますが、10代のころの周りが自分の望む未来に向かって進んでいるときの焦りは大きい。あららぎ先生にとって藝大受験とは「絵を描くこと」も判断されるため、「好きなもので認められない」という辛さもついてきます。全力を出しても結果が得られないこともあり、あららぎ先生が抱えた「落ちたくない」というプレッシャーは読んでいるだけで苦しくなります。しかもすぐ側には現役で藝大に合格した父親がいるのです。
<原点に戻ることが突破のきっかけに>
だからこそ見事合格した三浪のときのモチベーションの維持や勉強の方法は参考になります。
二浪のときの不合格のショックで受験のための絵を描く気すらおきなかったあららぎ先生。突破口になったのは好きなものを「なぜ好きか」を考えながら描くこと。基本に戻ることがあららぎ先生の技術を底上げし、効果的な時間の使い方を含めていい循環が回り始めます。
どんなに好きなことや得意なことをやっていても、誰にでも躓く可能性はあります。あららぎ先生が歩んだ遠回りに見える近道は、いつか訪れるであろうスランプのために覚えておきたいものです。
<好きに近づくための地道な努力>
『東京藝大ものがたり』であららぎ先生は最終的に絵を立体的に描くために不可欠な光の見方を習得します。線で描く漫画やアニメの絵と、光を捉える絵画の描き方の違いは実際に並べられると納得しますが、普通の人がすぐにやるように言われてできるものではありません。人とは違う物事への見方を手に入れる過程を描きつつも、『東京藝大ものがたり』では予備校に通って立派なライバルや仲間ができるわけでなく、好きでやっていたらいきなりなにか目覚めて無敵になれる人が登場するわけでもありません。描かれるのは好きなことをより極められる場所に入るためにやるべきことを繰り返し、地道に必要なスキルを身につけていく姿です。派手さがないからこそ、誰にでも起こりうる物語として受け止められるのではないでしょうか。