子供でいられないこどもたち ヤングケアラーを描く『私だけ年を取っているみたいだ。』

家庭内で親の代わりにケアを要する家族の面倒を見ることを強いられる子供、ヤングケアラーが社会的な問題になっています。子供が必要とする教育やケアを適切な時期に受けられないことはその後の成長にも関わること。そんなヤングケアラーの抱える問題とそこからの脱出を描いたのが水谷緑先生の『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記』(文藝春秋)です。

『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記』(水谷緑/文藝春秋)

主人公の音田ゆいは総合失調症の母親に代わり家事を担う8歳。学校帰りに夕食の買い物をして、料理をし、洗濯もします。父親と弟は仕事や勉強をしてこの家事から解放され、ゆいだけが家の切り盛りに気を使います。授業中も母親の体調を心配し、夕食の献立を考える。もちろん友達と放課後に遊びに行っても楽しむことができません。たまに母親が食事の準備をしても、病を抱えている身では「大人」としてふるまうことが困難で、精神的なケアは子供であるゆいに降りかかります。

学校の先生に困っていることを聞かれてもそもそも自分が家事をすることが当たり前だと思っていれば、「困っている」と具体的に説明することもできない。いかにしてヤングケアラーが社会から切り離されていくのかが描写されます。自分がロボットであり、周りからは傷つけられていないと言い聞かせて身を守っていきます。

『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記』(水谷緑/文藝春秋)

学校や病院など、適切な手が届かなければますます「家族で何とかしなければ」と思って自分で重荷を背負ってしまう。『私だけ年を取っているみたいだ。』のゆいはそんな追い詰められていく子供です。女性で子供という弱い立場だからこそ、祖母にも父親にも母親のケアを一身に担わされます。

作中で描かれているのはヤングケアラーの苦しみだけではありません。彼らを取り巻く大人の「不作為」もあぶりだします。もちろん病院の看護士やソーシャルワーカーとゆいの親身になってくれる大人もいますが、初めて相談した養護教諭は何もできず。養護教諭が報告した校長先生も「何もしないこと」を選びます。そして最も身近で本来であれば率先してケアをするべき父親は作中で描かれている限り母親と対立するばかりで何も動かず、無意識にゆいにケアを任せています。入院していた病院の先生すら、退院後は家に帰るしかないと伝えます。

そんなゆいの転機は誤解から精神病院に入院させられたことでした。そこではじめてケアから解放され、大人ではなく自分がケアをしていることがおかしいと気が付く。それまで当たり前だと思っていたことが違うと初めて理解し、自分の道を行くことを決めます。物理的に実家を離れ、奨学金で大学に通い母親のケアもほかの大人に任せる。そうして初めて「子供」としてほかの人の中に混ざれるようになっても、それまでの経験や生活が違いすぎうまくなじめない。この感覚を「私だけ年を取っているみたい」と言葉と絵で表現したのは秀逸だと思います。

『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生日記』(水谷緑/文藝春秋)

ゆいは最後、結婚して子育てをする中でトラウマと向き合い、自分の中に感情を取り戻し母親とも向き合い始めます。きっとまだまだ道は険しいですが、当事者の方が読んでも希望の持てる終わり方ではないでしょうか。同時に、ここまで家族の中で「子供」に負担がかかるようになっているのは、家族構成がかつての大家族から核家族に変わる中で、ケアができる大人がケアを必要とする人の周りから消えていったという事情もます。社会の大人も家庭の問題として見逃さず、適切にケアのネットワークとつなげ、子供への負担をなくすことが必要になりそうです。

 

 

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