マンガで(ひとまず)満たす「感情にふりまわされず原稿を書きたい欲」

マンガで(ひとまず)満たす「感情にふりまわされず原稿を書きたい欲」

こんにちは、Mk_Hayashiです。年末進行シーズンまっさかりで、色々な方が──特に自分と同業のライターの方々は──ゾンビになりかけている頃かと思います。

自分は人付き合いが悪いこともあり、同業者の知り合いが(ほぼ)いないのですが、もし親しい知り合いができたら一度してみたいのが「ウェブ媒体に書いた記事の反応、どれくらい気にしている?」という質問。

自分は末端中の末端に属しているのと、ニッチともいえる分野のお仕事が多いゆえ、滅多に自分の名前が表に出ることがありません。なのでウェブ媒体で署名記事を書いたときは、読み手からの反応(PV、アクション、エンゲージメント、そのほか諸々)を、か〜なり気にしてしまいます。

おまけに心が絹ごし豆腐どころか、おぼろ豆腐レベルで脆いので、読み手からの反応にメンタルが激しく左右され、状況によっては体調にまで悪影響が出てしまう。そんなこともあり、長らく「感情にふりまわされず原稿を書きたい欲」というものを抱いています。

極論を言えば文章スキルを上げて、読み手に共感されまくるエモい記事を書けば良いだけの話かもしれませんが、なんか違うような気もする。そもそも、なんで自分はこうも感情に左右されるんだ……とモヤモヤしていたところ、この悩みともいえる欲を解決するヒントを得られそうなマンガがありました。それが今回ご紹介する『ガイコツ書店員 本田さん』の著者である本田さんの『ほしとんで』です。 

 

『ほしとんで』1巻 本田/著(KADOKAWA)

覇気がない主人公と、愛しき変人たちが繰り広げる青春〈俳句〉グラフィティ

ほしとんで』の舞台となるのは、八島大学芸術学部(通称、やし芸)文芸学科の俳句ゼミ。この「俳句」というワードに反応し、逃げ腰になってしまう人もいるかもしません。

でも主人公である尾崎流星をはじめ、登場する主要の学生キャラ全員が、大学の「ゼミは1年から必修で 新1年生のゼミって 学部が勝手に決めてる」というシステムにより、現役俳人である坂本十三(じゅうざ)が担当教官をつとめるゼミに入れられた俳句ビギナー。

 

(『ほしとんで』1巻 第1話「はなざかり」より)

 

作中では彼らが俳句ゼミの授業を通して、少しずつ俳句の世界に触れていく様子が描かれますので、専門知識がないという方はもちろん、「お茶のパッケージに印刷されてる新俳句しか読んだことねぇや……」という方でも、ちゃんと楽しめる親切設計となっていますので、どうかご安心を。

羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』(白泉社)を筆頭に、美大生や創作について学ぶ若者を題材としたマンガのキャラクターは、たいていヤル気やバイタリティに満ちているのですが、この『ほしとんで』の尾崎流星は違う。小見出しにも書いたように、とことん覇気がないというか淡々としている。

(『ほしとんで』1巻 第1話「はなざかり」より)

 

どのくらい淡々としているかというと、短編小説創作論の授業における講評で、課題作品を教授にほめられても、はしゃぐ様子を一切見せず……

(『ほしとんで』1巻 第4話「若葉」より)

 

文芸創作講義の授業で、担当教官に「俺これ 大っ嫌い」と酷評されまくっても、ためいきをひとつつくだけで、落ち込んでいる様子を微塵も見せない。

 

(『ほしとんで』1巻 第4話「若葉」より)

 

この流星の鋼のメンタルっぷりに、自分は驚きを通りこして恐怖に近いものすら覚えてしまったのですが、作中で似た感情を抱くのが、流星と同じ俳句ゼミに所属し「趣味で小説を書き ネットで静かに公開して」いるという川上薺(なずな)。

 

(『ほしとんで』1巻 第4話「若葉」より)

 

脅威の淡々力を見せる流星に対して「どういうことなの おぬしの作品の話題よ!? 精神攻撃が 効かない村出身!?」と心の中で叫び、「私なら褒められたら舞い上がるし けなされたら数年は引きずるぞ…!!」という薺に、もう自分はシンパシーを抱かずにはいられません……。

そんな薺がフィーチャーされるのが、1巻に収録されている第4話「若葉」と第5話「はつ夏」なのですが、これが「感情にふりまわされず原稿を書きたい欲」をこじらせまくっている自分にとっては目から鱗が落ちまくり、かつ俳句の面白さ&奥深さを実感できる内容でして。ということで、今回はこの2話を切り口に『ほしとんで』の魅力を伝えられればと思います。

大勢の学生の前で課題の小説を酷評されまくっても平然としている流星を見て、「評価に一喜一憂しすぎない 流星さんの…人生n回目みたいな精神力のひみつ…!」を知りたくなる薺。しかし、小説を書いているものの、自分の感情を言葉にして伝えるのが苦手な彼女は、流星に話しかけることすら躊躇してしまう。

 

(『ほしとんで』1巻 第4話「若葉」より)

 

偶然、ゼミ開始前の教室で流星とふたりきりになった薺は、勇気を振り絞って自分の悩みを吐露する。会話を通して、どうして流星が気持ちの振り幅を広げないようにしているかを知るも、「薺さんが感じてること無理に抑えなくても いいんじゃないかなあ」と悩みの具体的な解決策は見つけられないまま、俳句ゼミの授業が始まってしまう。

 

(『ほしとんで』1巻 第4話「若葉」より)

 

この日のゼミは、課題で各自がつくってきた初夏の季語と切字を入れた俳句を講評するというもの。薺のつくってきた句を、ゼミ生たちは「小説みたいですね さらさら読めるというか… 口当たりがいい」などと褒めるのですが、教官の十三には「どうしようもないっていう意味で 添削不可能な句」と言われてしまい、もう薺の情緒は自己嫌悪にまみれて大変なことに。薺と同じく〈書いたものの評価=自分の評価〉と捉えがちな自分は、この状況を想像するだけで胃が痛くなりますよ……。

 

(『ほしとんで』1巻 第5話「はつ夏」より)

 

で、ここから十三は、なぜ薺の句が「添削不可能な句」なのかを理論整然と説明しつつ、薺の中にある「自分の言葉」を引き出しながら、彼女の句を推敲していくのですが……

 

(『ほしとんで』1巻 第5話「はつ夏」より)
(『ほしとんで』1巻 第5話「はつ夏」より)

 

この推敲されていく様子が俳句ビギナーにとってもわかりやすく、なおかつマンガだからこそできるファンタジックな表現で描かれていて、なんとも素晴らしいのですよ。しかも、ただファンタジックなだけでなく、俳句というものが持つ面白さもビンビンに伝わってくる。下手な俳句入門書よりも『ほしとんで』を読んだ方が、俳句の本質について楽しく学べる気もするので、もし俳句や句作に少しでも興味があるなら、ぜひこの第4話と第5話だけでも試しに読んでみて欲しくなります。

あとポイントとなるのが十三の言うところの「自分の言葉」。第4話にいたるまでの話を読み返すと、十三は生徒たちに「自分の言葉」を大切にするよう、実は何度も言っているんですね。

 

(『ほしとんで』1巻 第2話「猫の恋」より)

 

そんなこともあり、薺(と同様に自分)が感情に左右されまくってしまうのは、感情を「自分の言葉」で表現できないことに起因しているのではないか……と、腑に落ちた次第です。

と、相変わらずネガティブな俺語りを満載しながらの作品紹介となってしまいましたが、文章を書くことを生業にしたいと思っている/生業にしている人にとって、『ほしとんで』は学ぶところが多い作品だと思うんですね。俳句に興味があろうと、なかろうと。

なので文章表現にちょっとでも興味がある人に、推薦図書ならぬ推薦マンガとして『ほしとんで』を激推ししたいです。末端ライターの自分が言っても、あんまり説得力がないかもしれませんが。

あと作中で十三も言っていますが、俳句は文芸としてはマイナーなジャンル。でも小説家の長嶋有さんをはじめ、俳句も発表していたり、句会を開いている&参加している作家さんは少なからずいる。それと俳句ではないけれど、新進気鋭の文芸ムック『たべるのがおそい』(書肆侃侃房)では短歌にも重きが置かれていたり、新鋭の歌人である木下龍也さんと岡野大嗣さんは共著で『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社)というミステリ作品としても楽しめる歌集を出版していたりと、俳句・短歌が今後注目されるような気配もあったりする。なので、来るかもしれない俳句・短歌ブームに備えて『ほしとんで』で俳句について予習しておいても損はないかと思います。

 

(『ほしとんで』1巻 第1話「はなざかり」より)

 

ちなみに〈ほんとしんで〉と空目しがちなタイトルですが、実は秋の季語。この季語の意味を知ると、ちょっと「おぉっ!」となるので気になった人は歳時記などで調べてみると良いですよ。それでは、また来月というか来年にお会いしましょう。皆さん、年末進行を無事に乗り越えて、どうか良いお年を〜。

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