マンガのパロディを始めた頃 僕自身のマンガ批評史(1)【夏目房之介のマンガ与太話 その26】

マンガのパロディを始めた頃 僕自身のマンガ批評史(1)【夏目房之介のマンガ与太話 その26】

 僕がマンガによるマンガのパロディを描き始めたのは、少年画報社「ヤングコミック」1977年6月22日号の『その後の…YESTERDAY’S HERO』6頁が最初だったと思う。今も溶けかけたまま太陽の周りを回るアトムや選挙に出馬する『忍者武芸帖』の影丸、燃え尽きて一つまみの灰になった矢吹丈などを描いている。26歳の頃だ。

『ザッツ パロディ』(サン出版 81年刊)

ちなみに図の右側は単行本『ザッツ パロディ』(サン出版 81年刊)収録の際たまたま右頁に来てしまった『スーパーヒーロー大集合篇 あの人の秘密』(「ヤングコミック」79年12月12日号)の最終頁である。どうせこれ以後参照されることもなかろうと思い、ついでに掲載させてもらった。著作権者、俺だし。

『ザッツ パロディ』(サン出版 81年刊)

 同じ77年、「週刊少年ジャンプ」に江口寿史すすめ!!パイレーツ』、「週刊少年チャンピオン」に鴨川つばめマカロニほうれん荘』の連載が始まり、マンガによるマンガのパロディがメジャー少年誌に一斉に登場した。むろんすでに69年「COM」誌に『長谷邦夫パロディ劇場』が連載され、68年にはダディ・グースもデビューしており、マイナーではマンガのパロディは始まっていた。長谷は1937年生で、僕らよりだいぶ年長だが、僕とダディ・グースは50年生、江口寿史は56年、鴨川つばめは57年と、いずれも20代だった。
 当時僕はとにかくマンガのパロディマンガが描きたくてたまらなかった。ふつうにストーリーやギャグを考えるより、そっちのほうに気持ちが行っていた。もともとしとうきねお門下で学生時代からパロディ的な仕事*1を手伝ってきており、パロディは性に合っていた。が、ほんの少し前まで僕らの世代が親しんだマンガなんて、この頃まではパロディの対象にすらならない存在に過ぎなかった。
 パロディの対象になるのは、そもそも権威、権力を象徴するような人物や事象であって、風刺批判のためにこそ行う行為だった。自分が子供の頃から好きだったマンガなどという趣味領域をパロディにするなど、問題外だったのである。マンガによるパロディといえば、週刊朝日の最終頁を飾った山藤章二『ブラック・アングル』のように、格調高く、絵画性も高い反権威的な作品をいうのであって、子供向けマンガなどを身内で愛でて喜んでいるようなのは、子供の遊びに過ぎないといったところだった。
 その風潮が、本当に70年代に一気に変わったのだった。長谷邦夫の仕事は先駆的で、「そうか、そういうことをやってもいいのか」と「COM」読者のマンガ青年は驚き、さらに70年には「週刊少年マガジン」にみなもと太郎『ホモホモ7』が登場、平然と園田光慶宮谷一彦のパロディ模写をメジャー少年誌でやってしまう過激さは、わずか1年の連載ながら僕ら世代には大きな衝撃を残した。そんな急激な変化の中で、駆け出しのライターだった僕もマンガのパロディを始めたのだ。もう、とにかく楽しくてしょうがなかった。

長谷邦夫『バカ式』 「COM」69年4月号 長谷『パロディ漫画大全』2002年 P.15

 

  • *1 ^ しとうきねお(紫藤甲子男)は、早稲田大学の漫画研究会で園山俊二東海林さだおらと活動した漫画家。60年代に水野良太郎、テディ片岡(片岡義男)、小鷹信光らとパロディギャングを結成し、パロディ・ナンセンス記事を不定期に制作していた。

 

 74年に放映されたTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』がやはり同じ77年に劇場公開され、大ブームを巻き起こした。その余波でアニメ情報誌化した「月刊OUT」(みのり書房 77年創刊)でも、『8マン氏の最後の生活』(78年9月号)、『ウルトラ家の一族』(79年1月号)、『仮面ライダーの復讐』(79年4月号)と立て続けにパロディマンガを発表した。『8マン』以外は、自分の子供時代に愛好したマンガではなかったが、「OUT」読者には身近な、懐かしネタだろうと思っての選択だった気がする。この流れはやがて同誌に「アニパロ」という4コマシリーズを生みだし(たような気がする)、どちらが先かは知らないが、同人誌と連携してゆくのだろう*2

みなもと太郎『ホモホモ7』「週刊少年マガジン」70年30号 宮谷一彦のパロディ 文春『ギャグマンガ傑作選』88年 P.28

 

  • *2 ^ 西村マリ『アニパロとヤオイ』(太田出版 2002年)には、77年コミケ周辺関係者によって〈「OUT」(みのり書房)が、同人誌の書き手を取り込んでアニパロを掲載した。〉(P.21)とある。

 


 それにしても、あの、やむにやまれない衝動は何だったんだろう。何か、ようやく自分自身を直接に確認できたような、自分で自分を愛おしく抱きしめてやっているような、抵抗できない衝動だったように思える。大文字の権威、権力への反抗や諷刺ではなかった。かといってそこに批判的な要素がまったくなかったわけでもない。自分自身と未分化に混ざり合った幼い妄想や憧れへの哀惜と決別、そのためにあえて批評的にふるまっている可笑しさ、懐かしさに淫しないための優越の笑い。

『ホモホモ7』同上 園田光慶『アイアンマッスル 殺し屋ナポレオン』東京トップ社65年のパロディ。*3

 要するにそれは、自分の愛して来たマンガに自分自身を、あらためて世代集団として見出し、抱きしめる行為だった。いいかえると、郷愁と同時に距離を取っていくための行為だったようにも思える。いずれにせよ、前後の世代の若者たちが、当時同じ衝動を抱えていたことは間違いないだろう。それは戦後ベビーブーマー周辺の世代が、初めて自分自身をマンガに見出し、それを「文化」の一ジャンルとして認識し始めた時代だったのだ。あらためてそう考えると、何とも内向きで閉じた欲望であったようにもみえる。その衝動がやがてマンガ批評言説から海外マンガを追い出し、マンガ領域の自律性を強調するあまり、ドメスティックなマンガ批評を成り立たせていくことにもなったのかもしれない。
こうしたマンガによるマンガ・パロディの欲望は、僕の場合、やがて「マンガの模写によるマンガ批評のようなもの」へと辿りつくことになる。

 

  • *3 ^ 私はこのパロディを見て園田『アイアンマッスル 殺し屋ナポレオン』が漫画家にも影響を与えていたことを知ったのだった。自分同様のマンガ青年たちが存在し、一般には知られない作家に影響を受けていたことを確信してゆく契機となった。

 

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