漫画家という職業はいつからあるのか?
葛飾北斎は通常絵師といわれ、漫画家とはいわない。まして12世紀の絵巻物『鳥獣戯画』を作った工房は誰だか不明だし、何よりも「漫画」という言葉自体当時はまだない。『北斎漫画』が登場する19世紀江戸における「漫画」は中国由来で、初めは何でもついばむと誤解されたヘラサギの名称だった。それが「何でも描いて本にする」との意味に転じたようだ。のちの「漫画」とはだいぶ意味・対象がズレる*1。維新後の西洋化に伴い、1891(明治24)、福沢諭吉の「時事新報」で絵を担当した今泉一瓢が、カリカチュア、カートゥーンの訳語として「漫画」を再利用的に使い始めたのだという。
それ以前は、幕末横浜居留地でワーグマンが外国人向けに出した「ジャパン・パンチ」から転じて「ポンチ」などと呼ばれた。河鍋暁斎、小林清親ら浮世絵師の戯画などがそう呼ばれ流行したが、次第に下賤な言葉に零落。下品で荒唐無稽とされたポンチ絵にかえて、西洋で評価された北斎の「漫画」を使うようになったものらしい。当時はそのほうが格好良かったのだろう。今泉は早世し、後を継ぐ形になったのが北澤楽天。清水勲は『漫画の歴史』でこう書いている。
〈漫画家という職業が確立したのは、明治末期に北沢楽天、大正期に岡本一平が活躍しだしてからである。職業漫画家第一号を自認する北沢楽天は、自身が刊行した『東京パック』明治三十八年六月十日号で「漫画師」という言葉を使っている。朝日新聞社に大正元年八月に入社して、漫画漫文スタイルの報道漫画で人気を得た岡本一平は、自身を当初「漫画子」と称していたが、雑誌社・出版社から引っぱりだこになるにつれ「漫画家」と称するようになる。〉*2
要するに、貶められたポンチ絵描き、画工ではなく、次第にプライドを持てる漫画家へと言葉が階級上昇を遂げていったのであり、その運動を中心になって支えた二人が北澤楽天(1876-1955)と岡本一平(1886-1948)だったのである。他にも多くの漫画描きがいたが、彼らの一部は「本画」と呼ばれた芸術を描く画家へと出世していった。それやこれやで画家志望者が食うために漫画を描いていたというイメージが出来上がったのかもしれない。以来、漫画家は本画コンプレックスを抱えるようになり、手塚治虫もその例外ではなかった。
楽天と一平はともに絵描きだっただけでなく、編集者や組織者としても優秀で、楽天は『東京パック』など多くの漫画雑誌を創刊し、一平は「東京漫画会」(大正4年設立)など漫画家集団を組織。展覧会や漫画祭など様々なイベントを通して社会的認知を拡大した。また二人ともに多くの弟子を育てている。二人が築き上げた人脈や出版社への影響力は漫画の認知と漫画家の仕事獲得に大きな力を発揮したように思われる。
ところで楽天の「漫画師」という言葉は興味深い。1906(明治39)年「東京パック」の広告ページの柱にこうある。
〈漫画師を養成す 漫画の趣味あり學習に熱心なるものに衣食を給し修業せしむ但し男女を問はず試験の上五名まで採用すべし〉*3
すなわち職業的な漫画家(志望者?)の求人広告なのである。給与については不明だが、修行させ、衣食を保証するという。半ば住込みの弟子や職人的な存在だったのだろうか。師という技師・職人的な響きに比べると、のちの漫画家は画家、大家(たいか)、小説家など、一家をなす自立的な印象が強い。楽天~一平へと時代を下るに従い、漫画や漫画家も、少なくとも言葉の上でそれなりに階級上昇をとげたといえると思う。一平に限っていえば月収は漱石の朝日新聞社月給と同じ200円で、当時としてはかなりの高額であった*4。
清水勲は漫画という言葉が〈大衆の間に定着したのは、昭和に入ってから〉(前掲『漫画の歴史』P.15)としている。漫画・漫画家が社会に浸透するためには、楽天、一平らの名の売れた漫画家の登場や、彼らの弟子たちが新聞雑誌で活躍し、大衆の記憶に残っていく必要がある。いや、それ以前にまず新聞雑誌の近代印刷による大量頒布が可能になり、それを消化する読解力が教育の浸透によって大衆的に成立していかなければならなかった。
漫画家とて食えなければ社会的に成り立たない。当時漫画家を目指した若者は、どんな経路で食えるようになったのか。楽天、一平らに弟子入りして仕事を紹介してもらうのが早道だろうが、地方在住でおいそれとかなわない。それ以外に新聞雑誌に投稿し、場合によっては賞金を手にするという道がある。臨時収入だが、これをもって親を説得したりもできる。これは戦後の漫画家志望者も同様だった。
近藤日出造(1908-79)は長野県の小都市の商家(洋物屋)に生まれ、漫画家を志し、やがて1932(昭和7)年、横山隆一、杉浦幸雄ら若手漫画家とともに、一種の互助組織として新漫画派集団(戦後は漫画集団に改称)を結成する。彼は大正時代に朝日新聞の岡本一平選による週一回の新人マンガ欄に、父のすすめで投稿応募し、二等入選して新聞に掲載され、三円の賞金を得たという*5。大正7年の辞典が3円20銭*6、同9年の大工手間賃が2円92銭*7、同10年の目覚まし時計が2円90銭*8というから、まあ何となくそのあたりの金額だったが、〈近所界隈では、天才児が突然現われたような評判になった。〉*9という。
実家の仕送りを受けていた近藤は、岡本一平門下となり、東京の叔父の家に居候する。昭和4年頃、〈求! 青年漫画家、委細面談 東浦漫画映画製作所〉との新聞広告に応募して、食住付きで月5円をもらう*10。漫画映画製作とはいえ、文字通り〈髪結いの亭主の道楽〉だったらしく公開はされていない。その直後、師匠岡本一平の全集出版のため、原画の失われた作品のトレースや修正の仕事につく。一平から月の生活費を聞かれ45円と答えると、その額の月給が支給された*11。銀行の初任給が昭和4年で70円*12、同3年の下宿料金が月25~30円だった*13。階級上昇を遂げつつあったとはいえ、漫画家もなかなか厳しい職業だったようだ。
このあたり実業之日本社「週刊漫画サンデー」編集長だった峯島正行(1925-2016)の『近藤日出造の世界』を参照している。この本には他にも多くの漫画家の投稿、賞金、デビュー、収入などの記事があり、戦前の新漫画派集団周りの実態が伝わってくる。師匠弟子関係、投稿が重要な経路だったことがわかる。それ以外だと漫画講座の出版などが漫画家志望者や趣味で漫画を描く人々に影響を与えたようだ*14。
いずれにせよ、漫画家の成立には(1)マンガ描き自身の自己主張、集団化、運動、師匠弟子関係の拡大、(2)新聞雑誌など発表媒体の発達、市場拡大、新人投稿募集が相互的に作用し、社会的地位が上昇することが必要だったのである。
- *1 ^ 宮本大人(ひろひと)「「漫画」概念の重層化過程 -近世から近代における-」 「美術史」2003年参照。
- *2 ^ 『漫画の歴史』岩波書店 1991年 P.15
- *3 ^ 「東京パック」2巻13号 1906(明治39)年。
- *4 ^ 漱石が月給200円+賞与年2回で朝日社員になったのが1907(明治40)年。一平が漱石に会ったのは1915(大正4)年で、その時一平は月収200円を越えたと話したらしい。清水勲、湯本豪一『漫画と小説のはざまで 現代漫画の父・岡本一平』文藝春秋 1994年 P.61~62。ちなみに1918(大正7)年の巡査初任給は18円。週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 1981年 P.205
- *5 ^ 峯島正行『近藤日出造の世界』青蛙房 1984年 P.40
- *6 ^ 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 1981年 P.141
- *7 ^ 同上 P.121
- *8 ^ 同上『続続』 1982年 P.189
- *9 ^ 前掲『近藤日出造の世界』 P.40
- *10 ^ 同上 P.59~60
- *11 ^ 同上 P.72~73
- *12 ^ 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史続続』朝日新聞社 1982年 P.69
- *13 ^ 同上 P.125
- *14 ^ 昭和前期の講談社「少年倶楽部」での読者漫画募集については、宮本大人「〈漫画少年〉はいつ生まれたか -漫画を「描く」体験の歴史に向けて」 鈴木雅雄、中田健太郎編『マンガメディア文化論 フレームを越えて生きる方法』水声社 2022年所収 参照