昨2022年の暮れ、リチャード・マグワイア『HERE ヒア』(大久保譲訳、国書刊行会、2016年)が重版された。
もともとは2016年に邦訳され、評判も上々だった作品だが、この手の海外マンガの宿命と言うべきか、ここ数年は品切状態が続いていた。ここ2~3年で本書のことを知った人の中には、古書価が高すぎると、歯噛みをした人も少なからずいたのではないかと思う。刊行数年後には絶版になってしまう邦訳海外マンガが多いなか、本書に重版がかかったのは、実にめでたい。
もっとも、定価だからといって、決して安い買い物でないのも事実(税込4,400円也)。気になっているけど、買おうかどうしようか迷っているという人もいることだろう。この機会に本書リチャード・マグワイア『HERE ヒア』がどんな作品か、紹介することにしよう。
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本書の表紙には大きな窓が描かれている。窓の下半分にはカーテンが少しかかっていて、その横には真っ暗な闇が広がっている。ちなみに裏表紙はレンガ造りの壁になっていて、この本自体が一軒の家という体裁だ。
ぽっかり空いた暗闇に誘われるように表紙をめくってみる。見返しにグレーで描かれた見開き大の室内が現れる。部屋はがらんとしていて、左側に窓(表紙の窓なのだろう)、右側に暖炉があるだけ。
ページをめくる。本書の扉が現れるが、ここにも見開き大で部屋が描かれている。どうやら先ほどと同じ部屋らしい。ただし、左側の窓の手前にソファが置かれ、左ページの左上に「2014」という数字が入っている。これはおそらく西暦で、本書の原書の刊行年だろう。本書の原書は2014年にHEREというタイトルで、アメリカのPantheon Books社から刊行された。
さらにページをめくると、「家族へ」と書かれた献辞が現れるが、やはり場所は同じ部屋。左上の数字も「2014」のままである。ただし、窓の手前のソファは消え、代わりに暖炉の横に大きな本棚が据えられ、段ボール箱がひとつ置かれている。引っ越しをしている最中なのだろうか。どこかへ越していくところか、あるいはここに越してきたところか……。ちなみにここは奥付ページと呼応していて、見比べてみると楽しい。
もうひとつページをめくってみよう。すると、雰囲気ががらりと変わる。窓と暖炉があることから同じ部屋だと察せられるが、壁紙を始め、インテリアがまるで異なっている。ソファがいくつもあり、部屋の中央にはベビーサークルらしきものが。左上の数字を見ると、「1957」と記されている。作者略歴によると、これは作者の生年らしい。
ページをパラパラめくってみる。相変わらず同じ部屋の見開き。ただし、ページをめくるたびに部屋の様子が変わり、それに合わせて西暦を示す左上の数字も「1942」、「2007」と変わっていく。なるほど、本書は、読者の目の前に広がるこの部屋の変遷を、定点観測するように、同じ角度から延々と描き続けた作品なのかと思っていると、すぐに1623年や紀元前8000年の光景まで現れ、読者の予想は裏切られる。「この部屋」のというより、タイトルに「ヒア」とあるように、「ここ」、「この場所」の変遷を描いた作品というほうが正確なのだろう。
実は本書の射程は、なんと紀元前30億50万年から22175年にまで及んでいる。生物すら誕生していなかった太古の昔から、どうやら人類が再び姿を消したらしい遥か未来まで、「ここ」で起きたさまざまな出来事を、些細なことも重大なことも分け隔てなく、カメラの位置は変えずに、その変遷を追っていくというコンセプトが面白い。
最初の生命体からアフターマン的な動植物まで、本書にはさまざまな存在が登場するが、個人的にはやはり人の営みに興味をそそられる。本書の冒頭、誰もいない部屋の様子はまるで時が止まったような、静謐な印象だが、やがてそこに暮らす人々が姿を見せると、部屋はたちまち息づき始める。
この部屋がある建物が建てられたのは、どうやら1907年のことらしい。30億年以上の時間からしてみたらほんの一瞬とはいえ、そこから冒頭の2014年まで、それでも100年以上の歳月が経過している。それだけの時間が流れれば、多くの人がそこで暮らし、それに伴ってさまざまな出来事が起きたであろうことは想像にかたくない。実際、本書には、この部屋で過ごしたさまざまな世代や性別、人種に属する人々の、ありとあらゆる営みが描かれていく。
本書がユニークなのは、「ここ」が、それに先立つ過去のあらゆる瞬間の積み重ねの上に成り立っていることを視覚的に提示している点だろう。過去だけではない、時にはこれから起こるらしい未来の瞬間までもが描かれる。散り散りの断片から、過去・現在・未来にここで暮らした人たちの人生が立ち上がり、それぞれの瞬間のかけがえのなさが暗示される。
1933年のある瞬間、ふたりの子供が床に寝そべって絵本か何かを眺めていたこの空間で、1983年には女性が壁に大きな鏡をかけようとしていて、1988年には老夫婦が仲睦まじく、昔話に花を咲かせている。どれも取るに足りない瞬間だが、こうして並べられてみると、この場所でかつて起きた・これから起きるであろう膨大な些事が思いやられ、思わず眩暈を覚える。これはほんの一例に過ぎず、本書にはそうした瞬間が膨大に刻まれている。
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ことほどさように、本書は300ページにわたって延々と、さまざまな瞬間を併置しながら、「ここ」の変遷を追っていくわけだが、全体を貫く明確な筋があるわけでも、これといった主人公がいるわけでもない。複数のページにまたがる小さなエピソードが繰り広げられたり、一度登場した人物や物が再登場することは何度かあるが、それらが物語の決定的な要因になっている印象はない。それでは本書は何を描こうとしているのだろうか。本書に主人公がいるのだとすれば、それはやはり、「ここ」という場なのだろう。
「窓研究所」のウェブサイトに掲載されたリチャード・マグワイアのインタビュー「リチャード・マグワイア『Here』:“すべては移ろいゆく”ということ」によると、本書に描かれた部屋は、彼の生家をモデルにしているとのこと。本書を作るに当たって、家族写真やホームムービーも参考にしているそうだ。それでは、作者の自伝なのかというと、そういうことでもないらしい。作者は一方で、ピーター・コーエンという写真家が蒐集しているヴァナキュラー写真(写真史からこぼれ落ちた無名の素人や職人によって撮られた写真)も参照し、自分の記憶だけでなく、他者の記憶もこの作品の中に込めている。そもそも本書が描くのは紀元前30億50万年から22175年に至る気の遠くなるような長い時間で、当然、フィクションも混じっている。
作者によれば、本書は、「何もかもが、いかに一過性のものであるかということについての物語」なのだという。彼は続けてこう語っている。「大海原のように広がる時間の中では、私たち一人ひとりの人生は本当に儚いものです。すべてのものは移ろいゆくのだということを、読者には感じてもらいたいと思いました」。
だから人生に価値はないという話ではもちろんないだろう。むしろ、だからこそ人生はかけがえなく愛おしい。上のインタビューで、インタビュアーにこの本をアメリカ史として読むこともできるのかと問われた作者は、アメリカ史のような「大きな出来事よりも、小さな、個人的な出来事に興味があった」、「人生でより大切なのは、もっと小さなこと、日々のことなのです」と答えている。それこそ本書には、そう感じさせる瞬間が満ち満ちている。
ちなみに本書は、ロバート・ゼメキス監督、トム・ハンクス主演で映画化が進行中とのこと(2024年公開予定)。マンガならではの工夫に満ちた本書が、どんな映画になるのか、楽しみに待ちたい。