『スラムダンク』に恋愛の要素は少ない。「桜木→晴子」、「宮城→彩子」の片思いが戯画的に描かれるだけだ。なぜか? スラムダンクの男たちは、「女」ではなく「バスケ」に恋をしているからである。そして物語冒頭の桜木花道だけが、「バスケ」ではなく「女」に恋をしている。
この記事は、「スラムダンクの真のヒロインは赤木晴子ではなくバスケである」というムチャな理屈をゴリゴリと押し進めていくためのものである。この作品は、主人公である桜木の気持ちが「晴子」から「バスケ」へと移る過程を描く「異色の恋愛マンガ」として読むことができるのである。
流川はバスケとの熱愛を続ける男である
基本的なことを確認しておきたい。物語の主人公である桜木花道は高校一年生。万年フラれ男の異名をもつ。そんな桜木が赤木晴子という女に出会い、ひとめぼれする。晴子はバスケ部員を探しているという。桜木は「晴子さんに好かれたい」という一心で、バスケットを始めることになる。
しかしすぐにショッキングな事実が発覚する。晴子は同じバスケ部の一年である流川楓に恋をしていたのである。こうして三角関係が成立する。恋愛マンガらしく矢印で表現するならば、「桜木→晴子→流川」である。そして、ここにもうひとつ「バスケ」という女も入れてみれば、関係は次のようになる。
桜木→晴子→流川→バスケ
桜木が恋する晴子は、流川に恋している。そして晴子が恋する流川は、バスケに恋している。具体的な場面で見てみよう。第190話において、流川の鬼気迫る練習風景を見た晴子は言う。
ああ…すごい… 流川君の頭はバスケットのことで一杯ね…
もともと私の入りこむスキマなんてどこにもなかった――
これは、典型的な「失恋の言葉」である。ためしに恋愛ソングの大家であるaikoの歌詞を考えてみればよい。「あたし」は「あなた」を見ているが、「あなた」は「あの子」を見ている。これはaikoの歌詞世界に頻出するモチーフである(たとえば『アスパラ』の歌詞を参照のこと)。
もちろん晴子も同じ構図におさまっている。「あたし=晴子」は「あなた=流川」を見ているが、「あなた=流川」は「あの子=バスケ」を見ている。この意味で、流川というのは、作中を通してバスケとの熱愛を続ける男である。他の女に興味を持たない。どれだけ親衛隊がキャーキャーいおうとも、流川はバスケ以外に「浮気」しないのである。
桜木はなかなか想いを自覚しない
さて、一方の桜木には「晴子さんに好かれたい」という願望がある。素人の桜木がバスケットを始めるのは、あくまでも晴子に好かれるためである。しかし物語が進むにつれて、桜木はバスケットそのものを好きになっていく。徐々に晴子と関係なしにバスケに打ち込むようになる。「桜木→バスケ」という矢印が生まれるのである。
もっとも、本人はなかなかそれを自覚しない。桜木はバスケに「夢中」だからである。何かに夢中のとき、「自分はこれが好きだ」という思考は生まれない。人はつねに自分の心を後から知る。自覚はつねに遅れる。これも恋愛マンガふうに言うならば、「あなたがいなくなってはじめて気づいた」であり、「いつのまにかこんなに大事な存在になっていた」である。
主人公が自分の想いを自覚した時、物語はピークをむかえる。想いの自覚は、主人公を「告白」に駆り立てるからである。ということで、スラムダンクにも「告白シーン」が用意されている。桜木はいつバスケに告白したのか? 最終回直前、第269話である。
桜木はバスケに告白する
山王工業戦終盤、桜木はケガで試合を離脱する。マネージャーの彩子はそれが背中のケガだと知って、「選手生命にかかわる」と口にしてしまう。この瞬間、桜木はバスケに「夢中」であることから覚める。彩子の言葉は「バスケとの別れ」を予感させるからである。桜木はコート脇に横たわり、彩子に手当てされている。心配した晴子や水戸も近くにいる。
背中の痛みに耐えながら、桜木は「これでバスケットは終わりなのか?」と考える。別れの予感は自然と「回想」を生む。桜木はバスケと自分のこれまでをひとつずつ思い出していく。そしてとうとう、桜木はバスケのことを好きになっている自分に気づく。となれば、あとは「告白」しかない。桜木は立ち上がり、晴子の肩をつかんで言う。
「大好きです 今度は嘘じゃないっす」
これが物語のラストに置かれた桜木の告白シーンである。もちろん告白の相手は晴子ではない。晴子の向こう側にいる「バスケット」である。では「今度は嘘じゃないっす」とはどういうことか? 桜木はいつ「嘘」をついたのか? 第1話である。晴子と出会ったとき、「バスケットはお好きですか?」と問われて桜木は答えた。
「大好きです スポーツマンですから」
これが桜木のついた「嘘」だ。このとき、桜木はバスケのことなど好きでも何でもなかった。「バスケの向こう側にいる晴子」に恋をしていただけだ。しかし最終回間際、桜木は晴子の向こう側にバスケを見ている。もはや桜木の目はまったく晴子を見ていない。だからこそ、会話するだけで緊張していたはずの晴子の肩を、平気でつかむこともできるのだ。
こうして、真のヒロインが確定する。それは桜木に告白されたバスケットである。そして山王戦終了時の晴子の号泣は、もはやヒロインの座から完全に降りたからこそ、リアルな泣き顔として描かれる。すなわち「美化」せずに描かれるのである。
バスケからの返事が届く
桜木はバスケに告白した。しかし告白だけで話を終えることはできない。告白には「返答」が必要である。もちろん返答のシーンも描かれている。どこで描かれているのか? 最終回である。ここで桜木は一時的にバスケ部を離脱してケガのリハビリをしている。そこに晴子からの手紙が届く。手紙は次の一文で終わる。
頑張って桜木君 このリハビリをやり遂げたら
待ってるから――
待ってるから――
大好きなバスケットが 待ってるから
ここに至って、晴子という女は「バスケの気持ちの代弁者」になっている。バスケットは声を持たない。自分を愛する男に返す言葉を持たない。しかし桜木は自分と再会するために、日々、辛いリハビリを続けている。だからこそ、バスケットは晴子の声を借りて桜木に答えたのである。「待ってるから」と。
こうして、桜木の告白にバスケが答える形で、異色の恋愛マンガとしての『スラムダンク』は、その幕を閉じるのである。