『鋼の錬金術師』と樹村みのり『彼らの犯罪』 ジャンルについて(2)【夏目房之介のマンガ与太話 その23】

『鋼の錬金術師』と樹村みのり『彼らの犯罪』 ジャンルについて(2)【夏目房之介のマンガ与太話 その23】

 

【図1】荒川弘『鋼の錬金術師』1巻(スクエア・エニックス2002年)

 

 前回ゴトウユキコ天国 ゴトウユキコ短編集』を参照して、ジャンルへの期待と裏切りについて書いた。ジャンルへの期待について、今回はまず荒川弘鋼の錬金術師』を参照してみたい。ゴトウユキコのような裏切りはなく、見事にジャンルへの期待に沿った作品だからだ。私が読者として『ハガレン』にはまったのは、まさにそこだった。第1巻P.56-57で、主人公エドワード・エルリックは敵に向かってこう言い放つ。〈降りて来いよ ド三流 格の違いってやつを見せてやる!!〉【図1-2】。カッコいい! これこそ私にとっての「アクション娯楽作」ジャンルの醍醐味だった。大向こうに衒いなく見得切る爽快感。ジャンルへの期待に真っ向から応える場面である(もっとも同作は一般には「ファンタジー」のジャンルでくくられる)。

【図2】同上P.56-57

しかもこの後、彼は列車の上で敵と戦う【図3】。列車の上での争闘は、これまたアクション物の定番お約束で、この場面でも私は嬉しくなってしまう。まさに「ジャンル」への期待を裏切らない娯楽性を見せてくれるからだ。そもそも列車での争闘は、初期のエジソン映画『大列車強盗』(1903年)以来、西部劇アクションの定番であり、多数の西部劇映画やショーン・コネリーの『007危機一発』(『ロシアより愛をこめて』64年)でも使われ、ダニエル・クレイグ版『007』でも踏襲された。

【図3】同上P.168-169

ここでは、映画ジャンルでのお約束アクションがメディアと時代を越えて継承されているのだ。読者としての私は、こういう類型を見事になぞってくれるサービス精神に感動すらしてしまう。これもまた受容者の快楽である。
 さて一転して、『ハガレン』とは正反対とも見える樹村みのり彼らの犯罪』【図4】を見てみたい。樹村みのりは、私と同世代の作家だが、中学時代から少女誌に掲載され、70年前後から「COM」に短編を発表。私は「COM」で彼女を知った。そこには、ユダヤ人捕虜収容所の極限状態で通訳としてナチスに協力した少年が、同胞に希望を与えようとし、しかし戦争が終わって「解放」された時、自分のやったことの正邪を決定できない苦しみを描いた『解放の最初の日』(70年)という短編があった。樹村は、作者にも読者にも倫理的に決定不能な作品を描く作家だった。『ハガレン』が成熟したジャンル消費の期待に沿った作品だとすれば、樹村はそうした娯楽消費の快楽に背を向けた作品づくりを試みてきたといえる。

【図4】樹村みのり『彼らの犯罪』(岩波現代文庫2021年)

 短編『彼らの犯罪』は、実際に起きた少年たちよる少女の拉致監禁、性暴力、殺人というやりきれない事件をもとに、その裁判を傍聴する中年女性の立場で描かれる。そこでの視点は、やはり決定不能な倫理的主題を扱っており、読者は宙づり状態のまま突き放される。傍聴する主人公は、懲役20年の判決を受けた主犯格の少年の後ろ姿に〈何か力の抜けたような座り方をしていた〉しかし、〈それはきみときみ達がしたことだ〉と、わずかに心の中で語ることしかできない【図5】。彼女は一傍聴者に過ぎず、読者はそれによってカタルシスを得ることはできない。

【図5】同上P.54-55

 これはそもそも「ジャンルへの期待」を満足させる作品ではないのだ。では、こうした作品を我々はどんな「ジャンル」として受容すべきか。期待をせずに裏切られることを受け入れるしかない作品。そこには我々の「現実」がごろりと転がっているだけ。つまり、消費される娯楽性ではないジャンルという他ない。むろん、そこにたとえば「裁判傍聴モノ」などのジャンル性を想定できなくはないが、少なくとも娯楽消費の快楽を断念したジャンル、娯楽としての漫画を逸脱したジャンルと見なすしかないのだろう。
 70年前後に生まれた思春期、青年期の読者に向けた作品が「ガロ」や「COM」、青年漫画誌に登場した時代、そこでは旧来のジャンル意識、共同幻想を逸脱する作品が多く登場した。いいかえれば、ジャンルそのものが曖昧になり、それまでの規範性が無重力状態に置かれたような、名付けられない無規範な漫画世界が数多くあらわれた。それは戦後漫画が戦後青年層を市場に大きく変貌し、やがて巨大な市場を獲得する歴史的転換期での現象だった。樹村の作風はそこからやってきていて、今も変わっていないのだ。おそらく樹村のような作風は、娯楽中心の漫画市場において、周縁に位置すると考えられる。が、このような周縁性が、逆に娯楽性の中心を意識させ、それらを際立たせ、ある場合には賦活させるものでもありうるといえる。
 今回の鍵となる視点は、まずジャンルの越境性である。通常我々は消費選択の効率性や消費欲求の刺激としてのジャンル概念を想定するが、これでは視野が狭すぎる。今回『ハガレン』で見たように、ジャンルは作品から連想される他メディアのお約束や歴史を越えて関連付けられる。「ジャンル」をたんに制作側の与える規範としか見なさない論があるが、それでは不足なのだ。そこには制作側の都合によるジャンル設定もあるが、同時に受容者が求め創出するジャンル性もある。消費を励起する機構であると同時に創作を促す共同幻想であり、受容の快楽を保証する機構でもある。また市場の転換や膨張に伴って急速に旧来のジャンルを消し去り、新たな概念の集合を生みだす機構でもある。一方で、一端成立したジャンルが、容易に抹消変更できそうでいて、じつは簡単にはきないことも重要だ。この場面ではジャンルは突然、権力的な規範性をあらわにする。こうした複雑で曖昧で重層的な機構を捉える概念を想定することは、漫画の創造現場と制作供給、受容消費の絡み合う全体像を視野に入れるために必要な手続きだといえるだろう。

 

 

記事へのコメント

言われてみて初めて樹村みのりはジャンル分け出来ない作家だと気付きました。作家性が確立されているのに作品には余計な色がないですよね。私の知識量では他にこんな作家は思いつきません。

コメントを書く

おすすめ記事

コメントする