ルスタル『ルスタル作品集』光琳社【夏目房之介のマンガ与太話 その17】

ルスタル『ルスタル作品集』光琳社【夏目房之介のマンガ与太話 その17】

 17回目にして企画がなかなか思いつかない。これまではその都度、すぐに主題が天から降って来た。が、今回はなかなか降りてこない。まあ長年この仕事をしているので、そういうことはある。というわけで今回は、ずいぶん前に手にした(あるいは訳者の貴田さんから送っていただいたのかもしれないが、昔の話で忘れている。すみません)、フランスの作家ルスタルの、素敵におしゃれな、お気に入りの小型絵本を取り上げることにした。こういうときにこそ「与太話」と名打っておいた甲斐があるというものだ。気楽に書こう。

『ルスタル作品集』1998年

 日本題『ルスタル作品集』(貴田奈津子訳)。原題は『Voyage en Méditerranée』*1(地中海旅行)。正方形の水色の本で、作者が地中海を巡る船に乗る場面から始まる。何もかも放り出したい気持ちになった作者が、パリのアトリエを離れ、旅の途中で描いたスケッチ。それをもとに描かれた小品だ。雑然としたアトリエの絵、旅行用のトランクや服、帽子、カメラなど、訪れた町の横丁、真っ青な水平線を眺める女、昼寝して泳ぎにゆく前にベッドで本を読む同行の彼女、チュニジアの海辺、ギリシャの遺跡などなど、簡潔な黒い線描と素晴らしい色彩で続く。

 

『ルスタル作品集』1998年

 

 ただそれだけの本である。しかし、何よりも絵の魅力が見る者を飽きさせない。その時々の、のんびりと解放された旅の気分が伝わってきて、パラパラめくるだけで作者とともに旅をしている気分になれる。眺めていると、作者の体験した、行き当たりばったりの自由な時間が共有できるのだ。地中海の光が描くパイプ椅子やテーブルの陰にすら、気楽な旅の時間が感じ取れる。ああ、こんな旅をずいぶんしていないなあ。

 

『ルスタル作品集』1998年

 

ジャック・ド・ルスタルはフランスの漫画家で、鮮烈で大胆な黒い線と、刺激的でしかし品のいい色彩の絵が魅力。いわゆる「アルバム」と呼ばれるハードカバーのフランス版漫画(BD=バンドデシネ)単行本も多く出している。絶望的な私の語学力では読めないが、ハードボイルドな印象の物語漫画も描いていて、フランスでは著名な作家だ。1956年生まれというから、今年67歳。日本ではマニア以外にはほとんど知られていないだろう。こういう、じつは有名で優れた作家は他にも山ほどいるはずだ。私達日本人が知らないだけだ。

『フランスコミック・アート展図録』の解説には、こうある。
 〈感情の画家であり、比類なき色彩家である彼は、沈黙や雰囲気までも再現することができる。このため彼は、ナレーションを画面外に置くことを好み、めったに“ふきだし”を使わない。〉*2
 これは連続したコマと頁を持つ、物語漫画についていわれている。吹出しがなく、絵物語のようにコマ外にナレーションがつく。つまり、日本のいわゆる物語漫画とは様式がかなり異なる。

 

『ルスタル作品集』1998年

 

この絵本もまた、日本では「漫画」と呼ばれないだろう。冒頭「絵本」と呼んだのは、日本では様式的に「漫画」というより「絵本」というジャンルに近いだろうと思ったからだ。しかし、実際には「絵本」と「漫画」の境界は曖昧で、どちらともいえない作品が多くある。戦前からすでにそうなのだ。

 

『ルスタル作品集』1998年

 

「絵本」と「漫画」は、そもそも流通過程の区分けで便宜的に分けられた名称に過ぎない。実質的にはさほど大きな違いはないともいえる。たとえば書店では「絵本」と「漫画」は別々の棚に揃っており、受容者は何となくそれらが異なる本の種類であるかのように思い込んでいる。「ジャンル」という「幻想」を、送り手も受け手も共有しているので、誰もそれを疑わないし、そのほうが便利だったりするので、そうなっているともいえる。「漫画」と「絵本」を考える場合、そうした少し引いた視点も必要になる。見方を変えれば、それは制度的な共同幻想が浸透しているために生じる区分けなのだ。何となく漫画の外部のように思われている絵本は、相互の境界では混ざり合っている。とはいえ、そうした制度が別に悪いわけではない。ただ批評や研究の場合、それが一種の制度的幻想であることを留保しておく必要もある、ということなのだ。
 この作品には読者に旅を再現してくれる心地よさ、絵と流れを楽しむ読みの快楽がある。その観点からすれば、それが「絵本」だろうと「漫画」だろうと、あまり関係はない。優れた構成と、頁ごとの緩やかなつながりが、完結した物語ではない時間を感じさせ、エッセイ的な連続する読みの快楽を成立させている。視覚文化という意味では、この絵本はとても緩やかに漫画につながってもいる。
 漫画を考える時、その外延に常にこうしたお隣さんがあることを知っておくことも、とても重要なことだろう。同じように小説や映画、紙芝居や絵物語、ドラマや演劇、音楽ですら、メディアとして漫画のお隣さんでありうるのだ。なぜわざわざそんなことを指摘するかといえば、私達が漫画を語る時、容易に漫画を中心にした一種の漫画ナショナリズムに陥ることがあるからだ。そんなことを思わずに接している人にとっては、まことに余計なお世話であろうが。

 

 

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