テレビ会議でチェコと繋がる。自宅のある東京は真夜中だけれど、パソコン画面はチェコの昼の柔らかい光が溢れていた。チェコで初の本格的なコミック雑誌『AARGH!』を立ち上げた友人のトマーシュ・プロクーペクが画面越しに大事そうに一冊の本を見せる。我が家にもあるこの本は、一昔前の展覧会図録ほどに大きい。その表紙には水路のトンネルの向こうから恐々とこちらを覗き込む男の子が一人描かれていた。
このテレビ会議の数日前、私はある決断をした。以前からずっとチェコ・コミックを日本語に翻訳したいと考えていたが、なかなかうんと言ってくれる出版社が見つからなかった。そこで、こうなったら、クラウドファンディングを通じてチェコ・コミックに興味を持ってくれる人の支援を募り、日本語版を出版しようと思いいたった。日本ではチェコ・コミックが余りにも知られていないから、紹介したいものは沢山ある。欲を出せばきりがない。日本で一番最初に出版するチェコ・コミックは、読み終わっても心の中にいつまでも残像が残る美しい景色のような、そんな作品にしたかった。一遍の詩のような、片腕でプラハの街を撮り続けたヨゼフ・スデクの写真のように。トマーシュに連絡したのはそのことだった。
人の良い、薄い唇をしたトマーシュが、大きな口を顔いっぱいに広げて嬉しそうに画面に掲げたのは、パヴェル・チェフの『ペピーク・ストジェハの大冒険』だった。パヴェル・チェフは現代のチェコ・コミックを代表する作家で、トマーシュは自ら本のあとがきを書くほどにこの作家に入れ込んでいる。彼の提案に異論はなかった。私自身、大好きな作家の大好きな作品だ。作品は決まった。次はクラウドファンディングをどうするかだ。幸い、クラウドファンディングを通じて海外の書籍を既に何冊も翻訳出版しているサウザンブックス社という出版社がある。しかも、同社には世界のマンガを翻訳出版する「サウザンコミックス」というレーベルがあり、友人でバンド・デシネの翻訳をしている原正人氏が、その編集主幹をしている。相談してみようか。ドキドキしながら打診したところ、原氏にもサウザンブックス社の編集者にも快諾いただけた。こうして、サウザンコミックス第5弾として、『ペピーク・ストジェハの大冒険』翻訳出版のためのクラウドファンディングを行うことが決まった。期間は2022年6月14日から9月12日まで。この記事が公開される頃にはもうクラウドファンディングが始まっているはずだ。よければ以下の記事を読んでいただき、興味を持っていただけるのであれば、ぜひご支援をお願いしたい。
そもそも日本でチェコ・コミックと聞いてピンとくる人は少ないのではないか。チェコの現代史において社会的にマンガの存在が許されるようになったのは、1991年の共産党一党独裁政権崩壊からだ。やっと西陣営に開かれ始めた東・中欧文化だったけれど、ほぼ同時期にバブル経済が崩壊した日本には、そこに目を向ける心の余裕はなかったろう。チェコスロバキアでは、共産党独裁時代前のナチス・ドイツ統治時代でもチェコ・コミックは禁止されていたので、約半世紀ほどの間、チェコ・コミックは公には存在しなかったことになる。マンガ文化には、表現の自由がないとダメなのだ。共産主義体制下のチェコスロバキアでどれほどマンガ活動が制限されていたかと言うと、ノートの端にパラパラ漫画を描いて友人と回し読みする程度だ。時代によって政治的抑圧は多少増減するけれど、一貫してマンガは西欧の退廃的文化の象徴の一つだったし、マンガは文字が読めない幼児向けの娯楽というプロパガンダが社会に浸透していた。もちろん、海外のマンガ情報は入ってこない。日本はマンガ市場が大きいから、この情報がない苦しみは、ネットのない社会と言えば想像し易いかもしれない。全ての情報から遮断され、狭い世界に閉じ込められたような感覚。あるのはご近所の噂話くらい。共産党一党独裁を生き抜いた芸術家やマンガ家、文化人、そして学術研究者にとって、この情報から閉ざされる恐怖は今でもとても大きい。政策に合わないと判断されれば、活動だけでなく、国内外の情報を持つことすら罰則の対象となった。
『ペピーク・ストジェハの大冒険』の作者パヴェル・チェフもこの時代を経験していて、当時、まだ若かった彼は、錠前屋や消防士などの職を転々としながら、自分と家族、親しい友人の為だけにマンガを描いた。抒情詩のようなチェフのスタイルは、自室の非常に閉ざされた世界で構築された。窓から外を見れば、長い冬の間中焚かれる石炭ストーブの煙で黒く煤けて街が広がっていた。石畳の路を、車が排気ガスを上げながらガタガタと走る。電力が足りない弱々しいランプの光に照らされた狭い机の上だけが、チェフに許された自由だった。チェフのイラストは心象風景に近い。陽が沈んだばかりの空のようなオーシャンブルーの絵や、紅葉のように燃え上がるようでどこかに儚さを感じる黄色、橙、赤色に心を奪われる。目を覚ますのが怖くなるほど美しい夢があるとすれば、こんな情景かもしれない。その美しい情景を実際にいくつかお見せしよう。これらはあくまで一例だ。『ペピーク・ストジェハの大冒険』は、現状、チェコ語でしか読むことができない。だが、こんなにすばらしい祖国の作品がチェコ語でしか楽しめないのはあまりに悔しい。この美しい物語を、ぜひ日本の読者の皆さんにも読んでいただきたい。
『ペピーク・ストジェハの大冒険』の主人公ペピークは、作者のチェフのようにクルクルとした巻き毛で、冒険小説を読んでは空想に浸る普通の男の子だ。このペピークには吃音症があって、どうしても必要以上に人の目が気になる。行動する前に諦めてしまう。友だちが作れない。その孤独と悩みは、自身にもきつい吃音症があったチェフも良く知っている。少し寂しい生活を送るペピークは、ある日、通学路で青い石を見つけた。小さな石でも水に投げれば、もう、すでに以前の世界ではないと、ある老人の言葉を思い出すペピークだったが、橋の上から石を投げると、「やっぱり何も変わらないよ」と、悲しそうに立ち去る。だが、その日、エルゼヴィーラという謎めいた名前の美少女がクラスに転入してくる。ペピークの隣の席になったエルゼヴィーラは、ペピークにも分け隔てなく話しかける。最初は戸惑ったペピークだったが、エルゼヴィーラと一緒に図書館に行き、冒険小説について語り合うようになる。ちょっとした話で大笑いし、中世の面影を残すブルノの街の曲がりくねった路を散策する。楽しい、嬉しいことが、一つ、また一つと増える。まだ恋とは言えない、若い二人の友情が芽生える。だが、ある日、エルゼヴィーラは忽然と姿を消した。それだけではない。クラスの誰も彼女のことを覚えていない。エルゼヴィーラは何者なのか。ペピークは、エルゼヴィーラを探す旅に出る。
チェフが本を発表し始めたとき、チェコ出版業界は「イジー・トルンカの後継者」と興奮した。イジー・トルンカは、チェコが世界に誇る冷戦時代のチェコ人形アニメ監督の一人だ。『皇帝の鶯』(1948年制作)やシェークスピア原作の『真夏の夜の夢』(1959年制作)など、数多くの名作を撮った。日本からは、川本喜八郎がチェコに渡り師事した。トルンカは絵本も残していて、彼のじわっと輪郭が滲んだ水彩画のような優しい色使いの挿絵は今も愛されている。チェコ人にとって、トルンカは唯一無二の芸術家だ。オールカラーで、油絵具を主に使った『ペピーク・ストジェハの大冒険』は、チェコ特有のイラストの美しさを存分に引き継いでいる。日本にもチェコ絵本やチェコアニメのファンは多いが、チェフの情報が全く入っていないのは、どうしてだろう。 この機会に、日本ではまだ知られていないチェフという稀有な才能をご紹介できたらと思う。
改めてお伝えすると、『ペピーク・ストジェハの大冒険』翻訳出版のためのクラウドファンディングは、6月14日から9月12日までだ。よければ、まずは当プロジェクトのウェブサイトをご覧いただき、ご興味をお持ちいただけるようなら、ぜひご支援いただきたい。日本では入手できないチェフのサイン入りポスター、チェコでも手に入らないペピークとエルゼヴィーラのサイン入り直筆画など、特典付きコースを多数用意してお待ちしている。
なお、マンバ通信ではクラウドファンディング中、数回に渡ってチェコ・コミックとチェフについて連載を行う予定である。そちらもぜひお読みいただきたい。
サウザンブックス 『ペピーク・ストジェハの大冒険』クラウドファンディング サイトページ:
THOUSANDS OF BOOKS
『ペピーク・ストジェハの大冒険』クラウドファンディング Twitter:
ペピーク・ストジェハの大冒険クラウドファンディング (@PepikStrecha) / Twitter
パヴェル・チェフ 公式Website (英語、チェコ語):
Pavel Čech – painter (wz.cz)