食事の支度をするさまがあまりに楽しそうなので、つい気づきそこねてしまうが、かまどの前のすずはずいぶん長いこと一人で過ごしている。
たとえば、楠公飯の場面がそうだ。「三倍の水にて弱火でじつくり炊き上ぐるべし」と、作り方がこともなげに語られるが、これはつまり、三倍の水がなくなるまで「じっくり」かまどの弱火を維持せよという意味であり、もちろん、現在のコンロのように放っておけば一定の火加減になるわけではないから、薪を足し、あるいは灰を掻きだし、弱いながらも消えぬよう、火の勢いを保ち続けなければならない。「弱火」は、人をかまどの前にしばりつける。その時間を表すかのように、マンガ版では、楠公が昼寝を決め込んでいる横で、すずがかまどの前で呆然と座っている。
楠公飯の場合は極端だとしても、火をおこし、絶やさぬようにするには、かまどの前で長いこと過ごさねばならない。すずは小さな椅子に座っていることもあるけれど、下駄でしゃがんでいることも多い。かなり腰にくるだろうなと思う。
北條家のかまどは玄関を入ったところにある。だからすずは、玄関に現れる者たちに、ゲートキーパーのごとく最初に接することになる。とはいえ、かまどを扱うには玄関とは90度異なる方向にしゃがみこまねばならないから、相手を出迎えるというよりは、相手の気配に襲われる格好になる。
19年3月、例によってすずがうずくまって灰を集めていると、気配に襲われる。それは晴美を連れてやってきた径子である。すずが思わず立ち上がって「あっ、こん」と言いかけると、径子はその吹きだしにかぶせるように「ただいま」と言う。たった一コマのことだが、見逃せないやりとりだ。
すずはおそらく「こんにちは」と、普通の来客にかけることばを言おうとしたのだろう。一方、径子は「こん」というすずのわずかな言い出しから、何が言われようとしているかをすばやく察知し、自分がこの家に「来た」のではなく「帰ってきた」ことを示すべく、すかさず「ただいま」と言った。その結果、すずの想定した「こんにちは/こんにちは」の関係は中断され、「ただいま/お帰りなさい」の関係へと訂正された。かまどに気をとられていたすずと、先にすずの姿を視界に捉えていた径子とでは、挨拶に対する身構えがまるで違う。径子はこの有利さを逃すことなく、挨拶による小さな先制攻撃を食らわし、すずに「お帰りなさい おねえさん」と言わせることで、実家における自分の地位を思い知らせたのである。そしてマンガは、吹きだしの重なりを用いることによって、この二人の微妙な関係をわずか一コマで見事に表している。
さらに径子は、追い打ちをかけるように「冴えん!」とすずをいきなり断定する。そのことばは単に「ツギだらけのもんぺ」のことだけでなく、かまどの前で煙まみれになってうずくまっている働きぶりを指しているのだろう。何でも手早くやってしまう径子からすると、身なりもかまわず、手拭いを口に当てて長々とかまどの前にいるすずは、なんとも「冴えん」というわけだ。
すずの緩慢な家事ぶり(煮干しの頭とわたが落ちる「ちりん」という音!)に我慢ならなくなった径子は、「もうええ、わたしがやるよ」と猛烈な勢いで家事をこなし出す。アニメーション版でのこの場面の演出は、何度見てもおかしい。径子がかまどの火をばたばたと扇ぎながら「ねぇおかあちゃん!」と部屋にいる母親のサンに呼びかけるところなど、「できる主婦」らしさを動作のみならず団扇の音と声で表しており、おもろうてちょっとかなしい。火加減とおしゃべりのマルチタスクを成し遂げんとする径子の意地の向こうに、報われない嫁ぎ先の生活が透けて見えるのだ。つがれた飯を見て、周作は「珍しい、姉ちゃんの炊いた飯にしてはあんまり焦げとらん!」と妙な感心をする。おそらくいつもの径子は、細かい火加減を端折って、薪を突っ込んでかまどから離れてしまうのではないか。
結局、実家に戻った径子は勤めに出るようになり、かまどの仕事はもっぱらすずの仕事となる。その勤め帰りの径子が「うわ、どこの狸御殿か思うたわ」とあきれるときも、水原が「お前はほんまに普通じゃのう」と笑うときも、周作が「こまいのう」としみじみ言うときも、すずはかまどの前にいる。そんな風にずっと火の守りをしているすずを思うと、せっかくおこした炭に水をかけてしまう防空体制の辛さも身に染みる。
原作の第19回(19年11月)は、そのすずのかまどでの仕事ぶりがとくに印象に残る。アニメーションでは省略されているのだが、物語の上でもマンガ表現としても非常におもしろい回なので、ここで少し詳しく見てみよう。
まず冒頭から、すずは落ち葉を集め、かまどの前で何やら細々とした作業をしている。しかし、それぞれのコマは吹きだしはないサイレントで、すずがかまどの前でいったい何のためにこみ入った作業をしているのか、戦時下の暮らしに疎い人間にはすぐには判らない。手がかりらしいものは、ある。よく見ると、3コマ目と8コマ目の姿勢がほぼ同じなのだ。ということは、3コマ目と8コマ目に繰り返し記号があると読めばよく、前ページから続いているこのサイレントの作業は、3コマ目と8コマ目の間を何度もリピートしている、と解釈すればよいのだろう。
では、ここでリピートされている作業はなにか? なぜすずはいったん燃やしたものに湯をかけているのか? その答えは、じつは数ページ先にさりげなく記されている。戦時中の事物をさらりと解説する1コマに「これは落ち葉の燃えさしをうどんのゆで汁で固めて干した いわば炭団の代用品」とあるのがそれだ。勘のいい読者は、これがただ当時の風俗風習を記しているだけではなく、まさにすずが数ページ前でやっていた作業の説明になっていることに気づく。すなわち、すずは落ち葉をかまどに入れ、燃やし、まだ燃えているところで掻きだし、燃えさしに湯をかけて消し、バケツに貯め、また落ち葉をかまどに入れて(以下リピートして)いるのだ。さらに読み進むと、まさにこの燃えさしの貯まったバケツにうどんのゆで汁が注がれているコマもある。かくして、すずは、わずか1回8ページの作品の5ページまでを費やして、この落ち葉による代用炭団づくりに取り組んでいたことが明らかになるのだが、読者はそのことに、読み終わろうかという頃になってようやく気づくのである *1。
『この世界の片隅に』では、いったん謎を謎のまま読み過ごしてから、あとでそれがなんであるかを知るための鍵が示され、思わずページを繰り直してしまうということがよくあるのだが、この第19回のサイレントによるコマ運びはまさにその好例と言えるだろう。
じつは第19回ではっと気づかされるのは、かまどの前のすずの描写だけではない。この回の冒頭、すずとリンが隣り合わせに描かれているコマも、最後まで読み進めてはじめて、ああそうかとわかる仕掛けになっている。
右のコマではリンが部屋に用意された火鉢から離れて窓辺で微笑んでいるのに対し、左のコマではすずがその火鉢に入れるための炭団(たどん)をこしらえている。リンは誰かがおこしてくれた炭火鉢の傍らで、11月だというのにちょっと窓を開けて、窓辺に座って優雅になごんでいる。一方、すずは表に出て炭で汚れながらせっせと代用炭団を並べ、地べたにしゃがんで自分で火を用意する。リンは炭、すずは代用炭団。すずは日々の「代用品」のことを考えるうちに、自身が「代用」ではないのかと悩み出す。用と代用。残酷な対比。しかし、リンの優雅さは、それは待つことすらも仕事にしているお女郎さんの優雅さでもある。ほんとうは何が用で何が代用なのだろう。
ここで読者は、リンの火鉢とすずの炭団を入れるバケツが、ちょうど一つの器の輪郭になるよう描かれていることにも気づく。それはまるで、火にまつわる一つの器が、二つの運命に分岐しているかのようだ。すずとリンはまるで違う場所に違う姿勢で座り、違う生活をしているけれど、どこかで生き分かれた火の姉妹のようにも見える。
マンガでは、20年6月以降、かまどの前にいるすずの姿は描かれていない。しかし、アニメーションでは、8月15日の夜の場面で、いま一度火の支度をするすずが描かれる。すずは、左手で器用に障子戸を鉈で薪にしており(「広島から来んさった」障子戸だろうか)、径子が渡された薪を次々とくべていく。かつてすずが一人でうずくまっていた場所で、二人は手際よく活動している。それは二人の関係の変化を感じさせ、戦時中の胸の詰まるような時間からの、小さな回復を感じさせる。
釜の蓋をあけた二人は、炊きあがった白飯の湯気を浴びる。白飯は、どうやら「焦げとらん」らしい。
*1 WEBアニメスタイルの片渕須直監督によるコラム「1300日の記録」第13回『生きている町』との触れ合い」によれば、片渕監督はなんとこの代用炭団を試作している。最終的にはアニメーションでは使われていないにもかかわらず、である。(WEBアニメスタイルコラム「1300日の記録」第13回『生きている町』 )
「アニメーション版『この世界の片隅に』を捉え直す」の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行
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