3月10日に公開されたこちらの記事が、漫画家やマンガファンの間で非常に大きな反響を呼びました。
ジャンプの漫画学校講義録⑥ 作家編 松井優征先生「防御力をつければ勝率も上がる」
これは2020年に開講されていた「ジャンプの漫画学校」第一期における松井優征さんの講義の一部です。本当に素晴らしい内容ですので、未読の方はまずこちらをお読み下さい。
「ジャンプの漫画学校」とは、集英社各誌の作家・編集者が講師となって、全10回にわたりマンガ制作にまつわる講義を4ヶ月間・全10回にわたって実施したものです。
作家では稲垣理一郎さんや秋本治さん、編集者では『週刊少年ジャンプ』や『ジャンプSQ.』、『ジャンプ+』などの編集長・副編集長や、『ONE PIECE』立ち上げ編集の浅田貴典さん、『チェンソーマン』担当編集の林子平さんなど錚々たる面々による講義を生で聞ける機会は、これから漫画家を目指す人にとって極上の価値ある機会だったことでしょう。
この「ジャンプの漫画学校」の企画を聞いた時、私は「さすが集英社!」と思うと同時に「もったいないな」とも思いました。というのも、この講義を受講できるのは抽選で僅か50名だけだったからです。
これだけの内容を全世界に公開してしまうのもそれはそれで難しい部分はあるでしょうけれど、それでも未来の漫画家たちのため、また東京まで足を運べない人のためにも何とか一部でも公開して欲しいなと思っていたのですが、この度テキストで少しずつ講義内容を公開してくださっていて本当に有り難いことだなと思っています。
そして、その内容が想像以上に素晴らしく実践的で、とりわけ今回公開された松井優征さんの「防御力を上げれば勝率も上がる」は、既に売れているプロの漫画家たちをしてすら「ためになる」と言わしめる内容でした。それだけでなく、マンガについてのお話ではあってもマンガ以外にも普遍的に応用して実践できるとマンガ業界の外でも話題になっていました。
詳しくは本文を読んでいただければと思いますが、かいつまんで紹介すると松井優征さんはまず
面白さ=読者の脳が得るメリットー読者が支払うコスト
と定義付けます。そして、
読者の脳が得るメリットとは「面白いストーリー」「皆を引き込む世界観や設定」「目を引きつける上手な絵」「新鮮で魅力的なキャラ」「センスある演出」
読者が支払うコストとは「金」「時間」「労力」
であり、
防御力=読者が支払うコストの内「時間」「労力」を極力抑えること
であると定義します。
攻撃力(魅力的なストーリーやキャラクターを作る力や人を惹き付ける画力や演出力)はセンスによるところが大きい一方で、防御力は誰でも上げることができ、それは読者というお客様に対する気遣いでもある、と。
では、防御力を高める=読者が支払う時間と労力のコストを極限まで抑えるにはどうすれば良いのか?
そのための7つのポイントが以下であるといいます。
①大筋を理解するのが容易
②どこに注目して読めばいいかはっきりしている
③文字数を一文字でも少なく
④絵が疲れない
⑤不快にさせるキャラやストーリー展開がない
⑥つまらないコメディシーンやセンスのないオシャレは省く
⑦読んだ時間・労力の割に内容が濃い
この中でも、特に⑦は重要で、漫画家の奥義「兼ねる」を用いることで可能になることだそうです。
「兼ねる」とは何か?
内容を減らさず、情報が過密にならないように、
複数の要素を「兼ねる」こと。
兼ねれば兼ねるほど内容は濃くなっていき、
上手に兼ねられた作品は消費時間に対して驚くほど内容が濃い。
大事なところなので全文引用しました。
これらを考えて実践しメガヒットを飛ばすのみならず、更にそれをこうして解り易く言語化して再現性のある形で提示できる松井優征さんの頭の良さに敬服しながら、私の頭の中にはあるマンガが思い浮かびました。
それは『HUNTER×HUNTER』です。
明らかに、
③文字数を一文字でも少なく
からは逸脱しており、特に最新の王位継承戦編においては明らかに情報量が過密かつ過多になっていて、正しくすべてを理解して読み進めてられている読者は5%もいないのではないだろうかというレベルです。
しかしこれだけの読みにくさもありながら、物語体験としては圧倒的に濃密で面白い。単行本1冊を読んだ時の満足感で『HUNTER×HUNTER』を上回る作品もなかなかありません。
それはなぜなのか、『HUNTER×HUNTER』はどのように「兼ね」ているのか、どのように防御力を高めているのかに注目しながら再読してみました。
「兼ねる」が生み出す恐るべきテンポの良さ
『HUNTER×HUNTER』のテンポの良さは特筆すべきものです。それを可能にしているのが正に「兼ねる」という技術なのでしょう。
1話目
・世界観、ハンターという設定の提示
・主人公ゴンの生い立ち、優れた身体能力や動物に好かれる等の特質、性格の提示
・父親ジンを捜すカイトとの出逢い
・ゴンの「父親ジンに会いたい」「ハンターになりたい」という動機の確立と目標提示
・ゴンの旅立ち
2話目
・ゴンの乗る船が二度の大嵐に見舞われ、それを乗り切る
・クラピカの登場、性格・動機の提示
・レオリオの登場、性格・動機の提示
・船長によるハンター試験の適性面談(ハンター試験の厳しさのほのめかし)
・クラピカとレオリオの衝突、和解
再読していて驚くのが、2話目にして既にクラピカとレオリオが登場し、そのキャラクター性が確立されているということです。
同じく冨樫義博さんの代表作である『幽★遊★白書』においては、メインキャラクターのひとりである桑原こそ1話目から登場しているものの、蔵馬と飛影が初登場したのは20話目でした。
『HUNTER×HUNTER』では、キルアすら6話目で登場し、中心人物が出揃っています。他の代表的な少年マンガと比べてもこれは相当早いテンポです。
普通に考えれば、2話目の「大嵐を乗り切る」はそれ単体でも1話を消化するイベントとして成り立ち得ます。
風の湿り気とウミヅルが注意し合っている様子から更に大きな嵐が来ることを予見するゴン。それによって船長がゴンがジンの息子であることを察し気に入るというイベントも発生。多くの乗客がダウンして下船する中で、看護に当たれる余裕すら持つゴンは、厳しいハンター試験ではあるがそれを乗り越えハンターとしての資質を持つことが暗示される。
と、普通のマンガの1話分ならこれくらいの内容でも全然有り得るのではないでしょうか。
しかし、『HUNTER×HUNTER』ではその後中心人物となるクラピカとレオリオの登場まで1話の中で「兼ね」られます。
秀逸なのは、衝突するクラピカとレオリオに対する
「その人を知りたければその人が何に対して怒りを感じるかを知れ ミトおばさんが教えてくれたオレの好きな言葉なんだ」
というゴンのセリフです。
言葉通りクラピカとレオリオが何に対して怒っているのかということに着目することによって二人のキャラクターを理解できるのはもちろんですが、このセリフによってゴンの性格が説明されると共に、ゴンのミトさんへのリスペクトまでもが「兼ね」て表現されています。
ミトさんはゴンに父親と同じようになって欲しくないがために、「ジンはゴンを捨てた」という残酷な嘘をついてまで興味を持たせないように必死でした。ややもすれば、それでミトさんを嫌ってしまう読者もいるかもしれません。しかし、このワンシーンによりミトさんの思慮深さと愛情を持ってゴンを育てていたであろうことが補強され、読者のミトさんへの好感度は上がり不快度は下がるように作られています。
また、クラピカとレオリオが外に出て戦い始めるシーンの1コマは画的に上手く「兼ねる」が用いられている代表例です。
「クラピカとレオリオが作中で初めて自分の武器を披露し構える」
「クラピカがレオリオに向かって突っ込み戦闘を開始する」
という動作がこの1コマに集約されています。これら一連の動作を表現しようとする場合、ほとんどのマンガでは「まず二人が武器を構え」、「クラピカが突進する」というように2コマ以上を用いるのではないでしょうか。こうした構図の工夫により、軽快なテンポが実現しています。
おまけに、作中でも屈指の人気を誇る幻影旅団の名前もクラピカの動機の述懐によってこの2話目の時点で登場しているという情報量の密度。しかし、決して読みにくさはなく、驚くほどストレスフリーでこの情報量を摂取できるのです。改めて完成度の高さを思い知らされます。
『HUNTER×HUNTER』における「兼ねる」以外の防御力
ここまでは「兼ねる」に着目してきましたが、その他の①~⑥の防御力を構成する要素がどうなっているかについても順に見てみましょう。
①大筋を理解するのが容易
という点では、1話目にして「ハンターになり父親に会う」というゴンの最大目標が掲げられます。読者としては、最初にすっとゴンの行動原理を理解して話を追っていけます。更に「ハンター試験を突破する」「天空闘技場で上のフロアを目指す」など、その後も局面に応じた小目標が提示され、話に置いていかれることがありません。
次々と新キャラや新要素が登場しても、軸がしっかりとしていることで
②どこに注目して読めばいいかはっきりしている
も同時に満たされています。ある程度文字数が多すぎるシーンはあっても、最悪それを読み飛ばしても大筋を理解して話を追うことはでき、面白さが担保されていると言っていいでしょう。
非常に多くの陣営が同時多発的に動いて複雑だった蟻編を更に凌ぐ王位継承戦編でも、「クラピカが奮闘している」「ツェリードニヒがヤバイ」などの重要な情報は解りやすく明示されているため、細かい時系列や端役の動機、能力の詳細を把握していなくても読めてしまうのが逆にすごいところです。
③文字数を一文字でも少なく
はともかくとして、
④絵が疲れない
に関しても、『HUNTER×HUNTER』のみならず『幽★遊★白書』やそれ以前の時代から優れていると感じます。
同時代に人気を博した『ドラゴンボール』は、あれだけのアクションを描きながらもほとんど変形ゴマも用いられず緩急をつけた構図で「疲れない絵」の極致のひとつでしょう。その影響もあるかどうかは定かではないですが、読み返してみれば『幽★遊★白書』や『HUNTER×HUNTER』もバトル回では変形ゴマも多用されるものの、基本的には四角いコマのオーソドックスな連なりによって進行していきます。
たとえば、2巻96ページのキルアとゴンが会話しているだけのページなどは典型的な例で、正面や真横、真後ろなど構図自体も非常にシンプルなコマの連続です。
前の95ページで背景が3コマ描かれているのでこのページでは背景も省略されており、あえて描かなくても「どこで何をしているか」という情報は十分伝えられているため非常にローカロリーになっています。
『幽★遊★白書』以前から基本的な四角いコマによるコマ割り+ぶち抜きでキャラを魅力的に描くシーンが多いのは特徴的ですが、それも乱発されてはおらず効果的なシーンに絞って使われている印象です。
文字数は多くとも、静と動や構図のメリハリもしっかりとつけられていて、画的には脳が疲れずに読めるコマ割りが大部分となっています。
⑤不快にさせるキャラやストーリー展開がない
では、たとえば2話のレオリオが挙げられます。最初は「金のためにハンターになろうとしている嫌らしいヤツ」として提示されます。しかし、そのすぐ後でクラピカと決闘している最中に船から打ち出されそうになってしまった船員をクラピカよりも先に助け出そうとするという行為によって「本当はいいヤツ」であることが暗示されます。そして7話では「金がなくて助けられなかった友人のような患者を助けられる医者になるための費用を稼ぎたい」という真の動機が語られました。
また、倫理に悖る行いを平然と行うキャラクターも頻出しますが、それらのキャラクターは大体報いを受けるか、あるいはヒソカやクロロほどのクラスのキャラの場合はそれ以上に悪役としての魅力が溢れるように描かれます。
⑥つまらないコメディシーンやセンスのないオシャレは省く
に関しては「『HUNTER×HUNTER』における笑い」というテーマであと何本か記事を書けるくらいのテーマですが、端的に言ってストレスを感じるレベルの寒いコメディシーンというのがほぼありません。ギャグで笑えなかったとしても、キャラクターの個性として消化できるものが大半です。正直、『幽遊★白★書』の最序盤や『狼なんて、怖くない!』などではそういうシーンもありましたが、経験によって洗練されていったように感じられます。逆に、飛影や妖狐蔵馬、キルアやクロロなどの少年少女に多大な影響を与える「センス溢れるオシャレさ」は突出した魅力のひとつです。
攻防力の高い『HUNTER×HUNTER』に望むたったひとつのこと
一時期、「漫画力を鍛えるためには『HUNTER×HUNTER』の1話を抜き出してプロット化し、それを独自にネームにしてみて、実際の作品と比べてみるとよい」という話も話題になりました。
ストーリー・設定・キャラクターといった解りやすい魅力(攻撃力)だけではなく、一見目立たない裏面でも発揮されている凄まじい能力もあいまって冨樫義博作品の魅力を形作っているのだという認識を今回で一層強めました。松井優征さんの講義によって、改めて作品の魅力を深く知る機会を得たことに感謝したいです。
それだけに、大いなる実験作でもある王位継承戦編の続きとその結果は非常に気になるところですし、その先にあるであろう暗黒大陸での物語も読みたいです。令和初の『HUNTER×HUNTER』も今年中くらいには見られることを期待します。