あらすじ

過酷な獄中生活とこの十年間の無理が、戸田の身体を蝕んでいた。戸田は目標への確かな手応えと同時に、自己の生涯もまた、確実に終末へと近づきつつあることを感じていた――だが、「まだ、私は死ねない!」苦労というものは、次から次へとよく続くものだ。これまでも何とか解決してきたが、これからも苦しんでは解決していくだろう。それが信心の力であり、信心の証明なのだ。今の私には、それしか信じられないが、それだけで十分と思っている。
劇画人間革命(1)

戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない。マリアナ諸島陥落、硫黄島玉砕、沖縄陥落…だが、その戦争はまだ続いていた!!昭和20年7月3日、豊多摩刑務所からひとりの男が出獄した。治安維持法や不敬罪による刑事被告人として、彼がニ年に渡る牢獄生活から脱してみると、東京は一面の焼け野原と化していた。彼の胸中に、目に見えない敵への復讐心が沸いた「日本の運命を何としても転換しなければ…」戸田城聖という不世出の宗教家にして事業家の物語が、ここより始まる――!!

劇画人間革命(2)

昭和20年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が日本に上陸した。半月前の15日、日本は無条件降伏を受諾したのだ。終戦を機に、国内は急激な変化と混乱の渦中にあった。明日がどうなるかも分からない中で、戸田の事業は順調に乗り出し、出版界の本拠地ともいえる神田に事務所を構えることになった。また同年10月10日には治安維持法が廃止され、言論や信教の自由が保証されることになった。「もう何を大声で叫んでもいいんです!!本当に時がきた。今こそなすべきことをなさねばならぬ!!」

劇画人間革命(3)

農地改革、強制神道廃絶…日本は確実に民主主義へと漕ぎ出していた。「真実の民主主義は単なる政治機構や社会体制の変革だけで出来上がるものではない。個人の内側からの確立が出発点であり土台になる」戸田は色心不ニの生命哲理によって自我を開覚し、真実の人間復活である“人間革命”から、すべてが始まると考えていた。政治や教育、科学、文化の華などは、その上におのずから咲いていくものだ。すべての基盤を人間におき、最も人間性を尊重し、平和で幸福な新社会の建設を実現する――これが戸田城聖の信条であった。

劇画人間革命(4)

戦後のインフレは凄まじく、紙は一連(千枚)が35~36円だったものが三千円以上にもなった。戸田の興した日本正学館の通信教授の申し込みは後を絶たなかったが、紙の値上がりのせいですぐに採算が合わなくなってしまう。そこで単行本の刊行に踏み出すことを決定した。また、仕事が終わった後の事務所は、熱情と精魂のこもった戸田の法華経講座の道場と化していた。今や広宣流布への胎動は始まった!!人々は、その歯車の1つ1つとなって回転を始めた――!

劇画人間革命(5)

戸田の前には未来しかなかった。あるのは広宣流布の青写真だけであった。そのためにも小さな歯車を大切にした。そして丹念に磨きあげることに心を砕いた。昼は事業家として奔走し、夜は休日なく講議や座談会へと出掛けて行った。「広宣流布の幾山河は影も姿も見せぬ魔との戦いである!天に二つの日はないように、真の宗教もその時代に一つなのだ」

劇画人間革命(6)

庶民の生活は極度に困窮し、ストライキが横行、社会が騒然としていた昭和21年11月3日、“日本国憲法”が公布された。その数日後の17日には神田教育会館で、故牧口会長の三回忌が執り行われ、再び戸田は決意を新たにしたのだ。「社会がどんなに揺れ動こうとも、今はやるべきことを見失ってはならない!!」

劇画人間革命(7)

戸田は精力的に各地に出向き、「自分は不幸だ」と嘆く人々の心に、確実な灯火をともしていった。時には厳しい言葉で青年たちを叱咤することもあったが、すべては未来への布石と、戸田を信じる人たちへの温かい気持ちに溢れていた。「生命というものが、永遠であるということを我が身で体得するのです。これを――絶対的幸福という!この幸福は永遠に続くものであり、崩れることは決してない!」

劇画人間革命(8)

渾沌とした時代の中、自らの行く道に迷う若者たちも少なくはなかった。ストや赤旗のような形でその気持ちを爆発させる者もいれば、哲学にその答えを見い出そうとする若者もいた。彼らに戸田は澱みなく言い切った。「この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです――これを広宣流布という!!」また、「正しい人生とは一体どういう人生なのでしょう?」と、真直ぐな眼で質問してきた山本伸一と出会い、戸田は恩師牧口との出会いを回想した。このような不思議な感覚の出会いは、戸田にとって初めてのことだった!

劇画人間革命(9)

学会がかつての最盛期に近づきつつあるというのに、幹部たちの姿を見て戸田の心中は暗く沈んでいた。「彼らは今もって、戦前の経験と惰性で一切が処理できるとタカをくくっている。惰性はすでに保守だ。保守は人を腐らせていく!!そこには使命感はなく、たくましい建設と開拓の精神は薄れるばかり…今は人を育てることに全力を注ぐしかないのだ…!!」人知れず戸田の目に涙が溢れた。新しい動きは確かに始まっていた――だが、それが大きな流れになるには、まだ時間を必要としていた…。

劇画人間革命(10)

この当時、戸田は昼間は事業に全力を傾けていたが、一般の事業家達と甚だ異なっていたのは夜であった。週のうち三日は法華経講議と御書講議。残る三日は、都内の座談会で個人指導と折伏。さらに土曜日曜にかけては地方折伏に飛び出していた。人々の悩みは想像を絶するものがあった。時には、絶対に解決すると断言する前に、自分自身の胸中で戦わねばならないこともあった。日夜、敗戦後の街々を東奔西走していたが焼け石に水のように思える時もあった。だが戸田は一人ひとりの宿命打破に、真っ向から挑戦していったのだ!!

劇画人間革命(11)

戸田は断じて匙を投げません!!我々の活動こそが確実無比な戦いだということを断言しておこう。現代人は――人間一人が宿命を転換し、自らの人間革命をなしうるという大聖人の大生命哲理は絶対信じようとしない。これこそ現代の、最大の悪の根源といえるだろう。これを見極めた我々の活動は、この様な悪の根源を絶滅する戦いになっているのです!

劇画人間革命(12)

民族が復興するには必ず哲学が必要である。実践のない哲学は、観念の遊戯にすぎないのです!!戦いに敗れた我が国が真に道義と平和を愛好する民族として再起するためには、正しい宗教と正しい思想を根底においてその上に、政治、経済、文化などを打ち立てなければならないことは言うまでもありませんが――この欲求を満たしうるものが我が日蓮大聖人の仏法の大哲理であり、その根本が大御本尊なのであります――!!

劇画人間革命(13)

昭和23年12月23日、極東国際軍事裁判によって七名の戦犯に死刑が執行された。同じ日、国会では内閣不信任案が可決され、衆議院が解散した。政界が選挙に向かって走り始めた一方で、庶民は困窮の極みにあった。“大衆は賢なり”大衆をいつまでも愚かだと思っている指導者は、必ず大衆に翻弄される日がくる。その心をつかまなければ大衆は動かない。それは時と条件だよ……。我々の目指す広宣流布も時と条件が大事なのだ。それをいかにして創るかに一切の困難と辛労がかかっている。

劇画人間革命(14)

『生命論』という論文を書くにあたり、戸田は牢獄に入っていた時のことを思い返していた。戸田は法華経に対して背水の陣を張った。それは生命の対決ともいえた。「有るのでもない、無いのでもない。四角くもなく、丸くもない……仏とは“生命”のことなんだ――!!外にあるものではなく自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!!」この尊い大法を流布して、オレは生涯を終わるのだ!!

劇画人間革命(15)

昭和24年7月4日、マッカーサーは「日本は共産主義阻止の防壁」という声明を出した。今や中国、北朝鮮が共産主義国家に変わるのは時間の問題になってきた。だからこそ、日本だけは何としても赤化を防がなくてはという意図があった。「我々が目指す広宣流布は前代未聞の道といっていい。前途は険しく容易なことでは道は開かないだろう。しかし鉄の団結をもって進めば不可能を可能にできる。だが、ほんのわずかでも団結にヒビが入ったらその前進はストップしてしまう。だからこそ私は団結をうるさく言うのだ」

劇画人間革命(16)

経済九原則はさまざまな影響を巻き起こした。大量の失業者があふれ、深刻な不景気が日本中を襲う。この当時の潜在失業者は数百万と言われていた。日本正学館の雑誌も返本に次ぐ返本により、ついに戸田は一切休刊を宣言。熱意を持って少年誌を作っていた山本伸一は肩を落とすが、「先生が不変なら自分も不変。それで十分だ」と決意を新たにした。しかしながら事業の浮沈などまるで関係なく、戸田の講義は続けられた。その気迫は苦悩に沈む人達に希望と勇気を与えずにおかなかった。

劇画人間革命(17)

休刊発表から四日目の午後、今度は東光建設信用組合の経営に乗り出す、と戸田は社員に告げた。「信用組合はいわば庶民の味方だ。我々が取り組む意味もここにあると思う。経営に乗り出すことが、そのまま日本の復興に直結しているからだ!!」だが意気揚々と乗り出した事業も、思うようには進まない。「今は確かに苦しい。しかし今のこの苦闘が人間革命の因となるのだ。今の苦難を喜んで受けて立ち、前進、前進また前進でいけばいい。謗る者には謗らせておこう。笑う者は笑わせておけ」

劇画人間革命(18)

東光信用組合は経営不振に陥り、大蔵省から営業停止命令が出された。「今、ボクは経済戦で敗れたが、断じてこの世で負けたのではない!!これから中傷だの面罵だの雲がわくように起きてこよう。誤解のうえに曲解が重なるだろう。それを恐れていたらこちらが自滅するだけだ。共に本当の戦いはこれからだと立ち上がり、敢然と突き進もうではないか!」また、営業停止をいち早く嗅ぎつけた新聞記者が、取材を申し入れてきたが…。

劇画人間革命(19)

組合が潰れたことで学会に累が及ぶことを恐れ、戸田は理事長を辞任した。ある夜、仕事で遅くなった山本に、戸田は自分の家に泊まるよう勧めた。「苦境にあるというのに、先生はまるでそんなことは関係ないというような、闊達な唱題をしておられる。そうか…先生はボクに道を切り開く祈りを身をもって教えてくださっているんだ。苦境のドン底でも常に弟子のことを考えてくださる。ボクは先生のこの温かい心になんとしても応えなくては…」

劇画人間革命(20)

戸田は後継を育て、将来の発展のための特別訓練を行うことにした。最初の教えは『一生成仏抄』。「本抄においては、一生かけて何をすべきか、そのことが述べられている。つまり人生の目的というのはいったい何かということだ。つまり自分の可能性を一生かかって、どう開き切っていくのかということだ。換言するならば広宣流布という未聞の大業の中に生き切る。その中にこそ人生の真の目標があり、真の自己実現がある!」

劇画人間革命(21)

昭和26年5月3日・墨田区常泉寺にて、7年間空白だった会長の座に戸田が推戴された。「折伏行こそ仏法の修行中最高のものであるというのです!!私は広宣流布のためにこの身を捨てます!!」――いよいよ歴史的な、怒涛の前進が始まる。真剣勝負であるからには、絶対に勝たねばならない!この5月3日はまた『憲法記念日』であった。朝鮮半島の動乱は続いており、勝敗の帰趨は不明のまま講和条約の締結を巡って国論を二分した政治的混乱が表面化しつつあった――。

劇画人間革命(22)

月例の支部長会の席上で、戸田は「明年4月の立宗七百年を期して、御書全集を発刊したい!!」と発言した。「将来のために大聖人様の御遺文のすべてを網羅したものにしたいと考えております。一握りの人だけが知っている法門では時代の要請に合わなくなります。血脈抄(百六箇抄、本因妙抄)など門外不出の御抄。さらには御義口伝。御講聞書二箇相承なども含め、正宗の正当性を余すところなく示したものにしたいと考えております」

劇画人間革命(23)

かねてより戸田は「青年こそが次代を担う」と語っていたが、昭和26年11月の年次総会で山本は『青年の確信』という演説を行った。「青年部の実践は宗教革命であります!政治革命よりも経済革命よりも、実に実に宗教革命の道のいかに困難であるかは覚悟の上です。また革命は死であることも自覚しております。……しかしその死こそ、永遠の覚知であることを信じます」一方、懐刀である山本に好きな女性がいることを知った戸田は、身体の弱い彼が邁進できるように、と結婚のお膳立てをするのだった。

劇画人間革命(24)

笠原慈行の『神本佛迹論』が発端となり、戦時中牧口初代会長は獄死した。「法衣の権威を借りての横暴には断じて屈しない――これが学会精神なんだ。……恩師は獄中に一人死んでいかれた。しかし、その一人の死は数千の地湧の菩薩を誕生せしめたのだ。そして未来には数十万、数百万の同志が集うことであろう。偉大な信心の法則は決してその死とともに終わるものではない。それを実証していくのは、私しかいない……」

劇画人間革命(25)

昭和27年4月27日・立宗七百年祭の夜、笠原慈行を巡る“狸祭り”が行われた。笠原は『神本佛迹論』が誤りであることを認め、謝罪状を書いた。日蓮大聖人の嫡流である正宗の僧侶が根本教義を勝手に歪曲することが許されるはずがない。戸田は、笠原との対決が終わった今、彼の将来に果たすべき広宣流布の構想を語って尽きなかった。胸中にある一切を語り伝えることによって、一人の戸田が十人、百人、千人の戸田となることを期待したのである。

劇画人間革命(26)

収束したかに見えた笠原の事件であったが、事態は最悪の方向へと転がった。笠原は牧口先生の墓前で書いた謝罪状を全く否定、墓地までの顛末も青年部の脅迫によるもので、自分は被害者なのだという抗議文を出したのだ!その一方で、男子青年部の新生の息吹は全国に逞しく躍動していった。瑞々しい生気のあるところに停滞はない。組織の生気あふれる新生も人間の絶えざる自己変革によって決まる。組織は人によって作られ人によって運営されていくからである。

劇画人間革命(27)

三ヶ月に渡った笠原事件は、宗門にとってもまた学会にとっても長く苦しい戦いではあったが、それは広布途上の重要な試金石でもあった。そんな中であっても、総本山で行われる夏期講習会に集まった人達は、それぞれ自らの体験と驚きを熱く語り合っていた。「問題はこの新鮮な感動なんだ。百万言を費やした指導であっても、心の底からの感動をもって受け止められなければ、会合はいたずらに空転する。所詮、信心といっても人々の生命に新鮮な感動を呼び覚ますかどうかだ」

劇画人間革命(28)

新しく女子部に<華陽会>が、男子部には精鋭からなる<水滸会>が結成された。フランス料理店で行われた華陽会発足式で戸田は、“愛”と“慈悲”について語った。「我々の仏道修行の目的が、成仏の境涯にあるとするならば、そこにこそ慈悲の生活があるのです。……愛の裏には必ず憎しみがある。だが、仏法の慈悲は抜苦与楽といって、苦しみを除き喜びと楽しみを与えることです。ここに“愛”と“慈悲”との天地雲泥の差がある」

劇画人間革命(29)

昭和27年12月16日、第一回水滸会の会合が行われた。戸田は遺言のつもりで、この精鋭たちに広宣流布のすべての指導理念を伝えるつもりなのだ。まず教科書として用意されたのは、中国文学の四大奇書の一つ『水滸伝』であった。「この小説を、どう読むかは人それぞれの勝手だが……この小説はおもしろいから、誰でもおもしろおかしく読むことはできる。その筋のおもしろさのみにひかれて漫然と読み終わるようでは、この小説にひそんでいる革命的な精神というものを読み取ることはできないだろう」

劇画人間革命(30)

「いよいよ決起の時がきたのだ!!どこまでも広布に徹していただきたい」学会が飛翔に移ったころ……昭和28年2月28日吉田発言がもとで国会は紛糾し、解散にまで発展する。また、3月5日に脳出血で倒れたスターリンが死去。後継者マレンコフ首相は、15日世界の国々に「ソ連は平和を欲する」と呼びかけた。世界が揺れ動く中、戸田は広宣流布の大願のために、日本中を駆け巡った!!