美術界の表でも裏でも、己の器量とルールで疾走する男・フジタ。にコメントする
※ご自身のコメントに返信しようとしていますが、よろしいですか?最近、自作自演行為に関する報告が増えておりますため、訂正や補足コメントを除き、そのような行為はお控えいただくようお願いしております。

次のコメント

名無し
1年以上前
世間一般では 「騙されたほうも悪い」 という言葉が使われることがある。 だが美術芸術骨董界で売買に関わる人の間では 「騙されたほうが悪い」と言われるらしい。 目利きが全てで目利きこそが善で正義らしい。 「騙されたほうも」という言葉は通常では、 詐欺的な犯罪を世間に蔓延らせるのは、 無教養や安易さゆえに犯罪をまねき許容し 成立させてしまう人がいるからであり、 それに対する戒めの意味で使われる。 または犯罪者側からの自己弁護・言い訳の言葉として。 「騙されたほうが」という言葉は美術界で 目利きが出来なければ生き残れない世界なのだから、 という意味で使われているらしい。 それでなくても商売であるなら 「安く仕入れて高く売る」 ことが出来なければ利益が出ない。 そのためには商品に付加価値をつけるか 価値観の差がある人の間を取り持つしかない。 その商品があるところからないところへ 運んで行くなど、なにか付加価値を加えるか、 価値が低いと思う人から安く仕入れて 価値が高いと思う人に高く販売する。 これにより商売が成立し利益が発生する。 フェイクの藤田は、最初から贋作専門を標榜する。 通常の商売では非常に成立しがたいはずだ。 安くは仕入れられるかもしれないが、 高く販売するのは難しい。 そこをブラックマーケットでの商売に うまく活用したり、税金対策とか、 「見る目の無い金持ちにボッタクリ価格で  売りつけて、それでも満足させている」 などすることで食べているみたいだ。 だが殆どの場合で、相手が善人のときは 相手が価値感がわからない人でも藤田は 安く買い叩いたり、高く売りつけたりはしないようだ。 わりと金策に苦労したりしているのに。 善悪の基準が世間一般と多少異なり 「目利きが全て」の美術界で、 目利きでありながら世間とも美術界とも 微妙に違う価値感で商売をする男・藤田。 その辺とかにギャラリーフェイクの シビアだけれどファンタジーな魅力を感じる。

人気のコメント

名無し
1年以上前
世間一般では 「騙されたほうも悪い」 という言葉が使われることがある。 だが美術芸術骨董界で売買に関わる人の間では 「騙されたほうが悪い」と言われるらしい。 目利きが全てで目利きこそが善で正義らしい。 「騙されたほうも」という言葉は通常では、 詐欺的な犯罪を世間に蔓延らせるのは、 無教養や安易さゆえに犯罪をまねき許容し 成立させてしまう人がいるからであり、 それに対する戒めの意味で使われる。 または犯罪者側からの自己弁護・言い訳の言葉として。 「騙されたほうが」という言葉は美術界で 目利きが出来なければ生き残れない世界なのだから、 という意味で使われているらしい。 それでなくても商売であるなら 「安く仕入れて高く売る」 ことが出来なければ利益が出ない。 そのためには商品に付加価値をつけるか 価値観の差がある人の間を取り持つしかない。 その商品があるところからないところへ 運んで行くなど、なにか付加価値を加えるか、 価値が低いと思う人から安く仕入れて 価値が高いと思う人に高く販売する。 これにより商売が成立し利益が発生する。 フェイクの藤田は、最初から贋作専門を標榜する。 通常の商売では非常に成立しがたいはずだ。 安くは仕入れられるかもしれないが、 高く販売するのは難しい。 そこをブラックマーケットでの商売に うまく活用したり、税金対策とか、 「見る目の無い金持ちにボッタクリ価格で  売りつけて、それでも満足させている」 などすることで食べているみたいだ。 だが殆どの場合で、相手が善人のときは 相手が価値感がわからない人でも藤田は 安く買い叩いたり、高く売りつけたりはしないようだ。 わりと金策に苦労したりしているのに。 善悪の基準が世間一般と多少異なり 「目利きが全て」の美術界で、 目利きでありながら世間とも美術界とも 微妙に違う価値感で商売をする男・藤田。 その辺とかにギャラリーフェイクの シビアだけれどファンタジーな魅力を感じる。
名無し
1年以上前
テーマが美術芸術骨董などなので 「果たしてこの作品の真贋はいかに?」 という話も多い。 私も所詮は真の美などワカラン男なので、 じつはギャラリーフェイクの話でも 美がどうとかより、この手の 「で、これって本物なの偽物なの?  本物だったら幾らするのよ!」 「詐欺なんじゃねーの、騙されちゃうんじゃないの?」 という感じの話が好き。 他の漫画や小説、ドラマなどでも真贋が肝になる 話は多いけれど、自分の今までの見聞きした作品では 「結局は偽物」だったり 「真贋は結局不明のまま」で終わるものが ワリと多かったように思う。 おそらくは現実に存在しえないものを 「ありました」 と登場させるのはフィクションであっても 色々と問題が生じるからなのだろうかと推測するが。 ギャラリーフェイクはワリと 「これは・・本物だ」 みたいな話があるのでその辺が好き。 安直に本物にしました、という感じでもないし。 偽物でした、みたいな話も、偽物を作る過程や ソレをダレがなんの目的で利用したのか、とか 面白く描かれていることが多いし。 美術漫画としてだけではなく コンゲーム漫画として面白い漫画だとも思う。
佐武と市捕物控 【石ノ森章太郎デジタル大全】

天よ、私を自由にしてください。嘲笑われない為に、脅かさない為に。誰かの支配からではなく己の底から行えるように。

佐武と市捕物控 【石ノ森章太郎デジタル大全】
阿房門 王仁太郎(アボカド ワニタロウ)
阿房門 王仁太郎(アボカド ワニタロウ)

 江戸時代は遥かに自由な時代だった。下手人は指紋やDNA、目に見えない血痕や油脂、デジタルデータのような生理的、物理的な物証からすら自由だった、取りも直さず、犯行の証拠の所在は現代に比べると(拷問などは有れど)ずっと内心の自由に委ねられていた。  そして、その自由は放置と表裏一体だった。『佐武と市捕物控』に於いては多くの身障者、精神的な苦悩を抱えた下手人が出てくるが、彼らが福祉や行政に救われる事は殆ど無く、それ故に犯罪に追い込まれる様が一種同情するように描かれている。殺人者らの境遇は人間の業に纏わる必然として江戸の花鳥風月と混然一体と物として映る。  然し、主人公の一人、(松の)市はそのような状況における盲人でありながら剣技、頭脳、人柄、どれをとっても申し分無い傑物として終始活躍し続けている、ある意味迫害や無理解により憎悪と貧窮を募らせ零落するという「自然」に逆らうような人物だ。では、何故他の犯罪者と違って市は差別する社会に対する憎しみなどを乗り越え、あれほどの人物と成れたのか。  この答えは市の心理を追った一遍「刻の祭り」にあるように思える。詰り、粗筋の紹介はここでは省くが、残虐な盗賊として集う身体障碍者に対する叱咤「盗みや人殺しが悪いことじゃない……?笑わせるな!!(中略)あたしだって…、目が見えないことを、笑われたことは何度もある。そりゃあその時はくやしい そいつも盲人にしてやりたいとも思った。し、しかし、…いちいちそんなことをしていたら……、世のなかに五体満足はいなくなっちまう……。苦しむのはあたしたちだけでたくさんだ」に隠されてる。  ここで市は率直に世の中への憎悪を語る。しかるに、その憎悪の炎を自然生成され、自然に他人を傷つけるべき物と彼は捉えていない。即ち、それが自然である以上に「盗みや人殺しはどんな場合でも正義にはなり得ない」と言う社会の掟こそを優先すべきと見做している節があり、それで己を律する事で憎悪の炎と向き合わせる。  そしてその格率が彼の憎悪のはけ口に単なる暴力や略奪ではないより高度な技法や思想に彼を追いやっている、それが市の人格の秘密である(余談であるが、このような精神のプロセスをフロイトは防衛機制の内の昇華と定義した)。これはある意味では精神の枷であるが、昇華により市の身心は飛躍し、憎悪と貧窮と言う自然の漆喰から自由になる事が許されたと言う側面もある、パラドキシカルな物言いだが、人を憎まないと言う倫理的な枷が寧ろ彼を自然のままの運命から解き放ったのだろう。  私はそこに「自由主義者」石ノ森章太郎の姿を見た。彼は、どの作品でも身体の桎梏を抱えながらも自由を希求する主人公を何度も描いてきた。そして彼にとって自由は単に与えられる物ではない、寧ろ人間を縛っているのは環境が影響することは有れその人間の憎悪や強迫観念であり、自由はそれとの内なる煩悶の繰り返しでしかないと言う事を、石ノ森は描いてきたのだ。  然し、それは何処までも己で闘い勝ち取ると言う世界観の称揚な以上、ややもすると現代的な福祉への批判に結び付きかねない。実際『仮面ライダー』では国家と言う概念≒ショッカーと言う公式がこそがライダーより弱者を生存させ得たかもしれないと言うアイロニーで幕を閉じている。そのような描写は常に存在し、『仮面ライダーBlack』でそれは極北に達した。その作品はゴルゴムと言う無形で無限大の、グロテスクなオカルトとナーバスな陰謀論の沼にヒーローを引きずり込んでいった。そこにある種の苛烈さを見出さない事は許されない。  上記を踏まえて幾らか不謹慎な発想をするならば、石ノ森の自由主義は戦後日本のリベラルを超えて、どこか今のシリコンバレーの大物に通底するより徹底した自由主義と一脈通じているのではないか?石ノ森章太郎が政府の調整効果を強く敵視していた訳はないだろうが、作品に於いてはそれに近い不信感や抵抗が見られない事の方がむしろ少ないように感じられる。それは市のような確固とした自己を形作るが、同時に『仮面ライダーBlack』の魔王のような存在に人を変えかねない。そのような可能性の光と影が石ノ森の作品には渦巻いており、その二元論的な世界観が彼の作品の基調となっている部分もあるように思える。尤も、単なる自由主義的なヒーロー像だけでは彼の作品が今でも注目を浴びることは無かっただろう、そのような自由の希求と危惧の狭間でそれでも善を求めて戦い、己を擲つ事さえ時には厭わずが欲を否定せず認める、そのストイックさがあって初めてヒーローが暴力的なイデオロギーの奴隷の身分から解放されること事を石ノ森は知っていた筈だ。  そぞろな文章を長々と書いたが、江戸に仮託した人間の自然状態からの脱却による自由を希求した『佐武と市捕物控』は正しくその自由の希求により確かに石ノ森章太郎的なのだと繰り返してこのレビューを閉じさせていただく。 余談: ・実際読んだのは90年代に出た小学館文庫版と笠倉から出た『縄と石捕物控』の文庫版だ。文庫をかなり探し回り、最終的に通販を使った都合上こっちの方が入手自体は簡単だと鑑み、このバージョンでレビューさせてもらった ・『佐武と市捕物控』に関しては、夏目房之介の文章(「『佐武と市捕物控』―青年マンガの革命児」-『別冊NHK 100分de名著 果てしなき石ノ森章太郎』収録)が大変すばらしかったので一読をお勧めします。正直、「刻の祭り」に着目したのは夏目に倣ったからです。私は同じ主題の描かれた珠玉の掌編として「北風のみち」もおすすめします。 ・このレビューのタイトルは吉田拓郎の『今日までそして明日から』の一節のパロディですが、今気に入ってると言うだけで、大した意味は無いです

本棚に追加
本棚から外す
読みたい
積読
読んでる
読んだ
フォローする
メモを登録
メモ(非公開)
保存する
お気に入り度を登録
また読みたい
※本棚・フォローなどの各アクションメニューはこちらへ移動しました(またはフローティングメニューをご利用ください)