美醜を扱った少女マンガは、その多くが登場人物の顔面にスポットを当てているが、その次に多いのは肥満体型にスポットを当てた作品で、いろいろ読んでいくと、少女マンガ界では太っている女子も(広義の)ブサイクと認識されているのがよくわかる。
太っているから美しくない、痩せればキレイになれる……そんな価値観は、少女マンガのみならず、現実世界でも幅を利かせている(というより、両者の関係は相補的だ。現実世界での価値観が作品に反映され、作品を読んだ者が現実世界にその価値観を還元する)。しかし、すぐれた少女マンガは「痩せてキレイになりました、めでたしめでたし」ではなく「痩せてキレイになったとして、それは本当に幸せと言えるの!?」というところまでしっかりと踏み込んでくる。その一例として、大島弓子『ダイエット』をご紹介したい。
本作のヒロイン「標縄福子」は女子高生。ふわふわのくせっ毛をお下げにしていてとてもガーリーだが、かなりの巨漢。顔のパーツは肉に埋もれていることを示すためか、とてもシンプルに描かれている。
彼女は作品冒頭で太っていることについてこう語る。
わたしの高校には体重規制校則がある
上限八十キロ下限三十キロをこえると人間とみなされなくて処分されるわけ
のっけからうそいってごめんなさい
しかし現実にはそういう校則はないけれども
世の中には暗黙の校則がしっかりとあるということをわたしは言いたいわけよ
細い方がきれい
細い方が健康
細い方が長生き
冗談じゃないわ太くたって丈夫よ
目をそむけないでそこのお兄さん!!
見ただけで皮下脂肪がうつるとでもおもってんのかよ
あたしはねそこいらのやせっぽちより脳みその働きは良いし
運動神経だって良いのよ
「暗黙の校則」によって自分が人間扱いされないという現実について、福子はたいへん元気よく異議申し立てをする。「どうせ私なんて……」みたいな湿っぽさは感じられない。食べてるんだから太るのは当然でしょ、とでも言いたげ。では、なぜそんなに食べるのか。
彼女には両親の離婚というトラウマがある。若い女と不倫した父が、子どもまで作って家を出ていったこと、そんな父親に福子の見た目が似ていること、母親の再婚相手と生活しているがずっと馴染めずにいること——それらが福子を過食へと追い込むのである。
食べると「ニルバーナの世界」に行けると福子は語る。「なにもかもから開放されて宇宙のチリとなってただようの/これが快感のシステム」……ニルバーナ行きによって太ってしまうとしても、それが彼女の生存戦略である以上やめるわけにはいかない。福子は、食べることで自分の心を守っているのだ。ちなみにこの「食べていれば大丈夫」という感覚は、以前紹介した『脂肪と言う名の服を着て』とも共通している。その後の展開にも似たところがあるので、『脂肪〜』は『ダイエット』へのアンサーソング的作品なんじゃないかとわたしは考えている(よかったらみなさんも読み比べてみてください)。
そんな福子が突如ダイエットをはじめることで、物語は転がりだす。きっかけは、幼馴染みの「黒豆数子」の恋だ。
夜のコンビニで顔を合わせるだけの「門松天」に数子が恋していて、どうやら天も数子に惹かれているようだと悟った福子は、すぐさまキューピッド役を買って出る。そのお陰でふたりは付き合うようになるのだが、それをきっかけに、福子はそれまでまるで興味を示さなかったダイエットをやると言いだし、数子に「あたしがやせたあかつきにはごほうびとしてたまにあなたたちのデートに参加させてほしいわけよ」と頼む。なんだかとても変わったダイエットの動機だ。
作品を読む限り、福子にとって今の家庭は心の拠り所になりようがなく、なんでも話せる数子だけが頼りだ。食べることも福子を支えているが、数子の存在も同じくらい大事なのである。男の子の登場によって女の子ふたりだけの世界が終わってしまうのなら、せめて、時々は自分をデートに混ぜて欲しい。数子と天の恋愛に自分の居場所が少しでもあればと願ってしまう福子は、図々しいというより、かなり切羽詰まっている感じがする。
やがて福子はダイエットに成功し、約束通りふたりのデートに混ぜてもらうことになる。しかし、そこで福子は疑問を抱く。天が自分にやたらと優しいのは、痩せてキレイになったからではないのか。体型が元に戻ったらこんな厚遇は受けられないのではないか。事実、学校の他の男子たちは、痩せてモデルばりに美しくなった福子を手の平返しでチヤホヤしだした。そういう男たちと天も同じなのではないかと疑ってしまうのも、仕方がないといえば仕方がない。
自分の見た目と天の親切心に相関関係があるのかどうかを知りたくて福子は再び太るのだが、天の態度はまったく変わらなかった。彼は単純に超いいやつだったのだ。こうして福子の人間不信は解消されるが、その代償はあまりにも大きかった。短期間に極端な減量・増量を繰り返したことで、食欲がコントロールできなくなってしまったのだ。食べ吐きを繰り返し、病院送りになってしまう福子が本当に痛ましい。
自分の心を守ろうとして太りすぎ、大好きな友人とずっと一緒にいたくて痩せすぎる。福子は苛烈な肉体的犠牲とともに生きている。そんな彼女を救うのは、一風変わった友情だ。数子は入院した福子を見舞った後、天に「あたしあの子を育てるつもりだわ」と言う。「あの子の頭の中ではあたしたち両親なのよ」「五歳児くらいその辺でウロウロしてるの福ちゃんって」「その上飢餓状態なのハートがね」……数子が親友としてではなく擬似的な母親として福子に関わり、5歳の時点(両親が離婚したときの年齢)から育て直されるだろうことを予見して、物語は終わる。
ここまで読んでもらえればもうお分かりかと思うが、『ダイエット』において、美しくなることによる幸福感はほとんど描かれない。そもそも、幼いころの福子は広告モデルをやるくらいかわいかったので、痩せてかわいくなった自分にそこまで驚いても喜んでもいないのだ(つまり福子はかわいくなれると知っているのにダイエットをせずにきたというわけ)。むしろ「見た目が理由で好かれるってことは、中身はどうでもいいわけ!?!?」と勘ぐったり、アイデンティティの危機に陥ったりするばかりである。
ふだん「美人はいいよな。得だよな」と思っている人も、本作を読んでいる間だけは、表面的な美しさよりも内面的な安定こそが幸福への第一歩であることに首肯せざるを得ないだろう。どうしようもなく美しさに惹かれることはあっても、それだけでは安心できないのが人生なのかも。「痩せる=美しくなる」というのもなかなかに怪しい公式だが、「痩せる=幸福になる」はもっと怪しい。信じたがる人はすごく多いけれど、信じすぎるのは危険だ。