「さよなら絵梨」が超っ〜!面白かった!!ので語りたい 【後編】

「さよなら絵梨」が超っ〜!面白かった!!ので語りたい 【後編】
※この記事は「さよなら絵梨」が超っ〜!面白かった!!ので語りたい 【前編】の続きです。「さよなら絵梨」、『ファイト・クラブ』、『メメント』のネタバレが含まれます。未読・未鑑賞の方はご注意ください

▼前編はこちら

 

5.迸る映画愛とそこに込められた意味

『ファイアパンチ』では主人公のドキュメンタリー映画を撮ろうとする映画マニアのトガタが登場し、『チェンソーマン』では主人公のデンジが映画館デートを経て「アンタの作る最高に超良い世界にゃあ糞映画はあるかい?」と言い放つなどの直接的な描写から、端々での細かなパロディやオマージュまで藤本タツキさんの作品からは常々「映画愛」がビンビンに感じられます。モキュメンタリー風に描かれた「さよなら絵梨」に関しては、映画はど真ん中のテーマになっていますし、迸る愛は読んでいて気持ち良いくらいです。そして、作品について語る上でも言及せざるを得ないので、既に多くの方が語っているところかと思いますが触れていきます。

「さよなら絵梨」では、まず『Let the Right One In』(邦題では『ぼくのエリ 200歳の彼女』)の影響が強く感じられました。『Let the Right One In』は、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる2004年に出版された小説『MORSE -モールス-』を原作としており、原作者であるリンドクヴィスト自らが映画の脚本にも携わった2008年の映画です。個人的にも大好きな映画のひとつで、『ボーダー 二つの世界』というリンドクヴィストの短編集には『古い夢は葬って』という『MORSE -モールス-』の番外ストーリーも収録されているので、映画だけ観たという方も読んでみると良いでしょう。

絵梨という名の吸血鬼のヒロイン、200年という時間に加え全200ページというページ数で「200」という数字が暗喩的に使われていること、また全体を通した静かな雰囲気なども『Let the Right One In』を想起させられる要素です。この作品自体は大変素晴らしいのですが、邦題は人生で出会った映画タイトルの和訳の中でもワーストだと思っています。元のタイトルである「Let the Right One In」は「正しき者を中に入れよ」といった意味で、これは「吸血鬼は招かれないと家に入れない」という事柄に由来しています(「さよなら絵梨」でも絵梨が優太の家に招かれるシーンがあり、そういう部分も意図されているのかなと勘繰ります)。後から見れば「ああ、吸血鬼のことを指していたんだな」と解る絶妙なタイトルだと思います。それに対して邦題は……まあ、その話はここでは置いておきましょう。

また、一番最初に絵梨と観た映画は『ファイト・クラブ』。『セブン』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』と並ぶ、デヴィッド・フィンチャー監督(他の代表作は『ソーシャル・ネットワーク』、『ドラゴン・タトゥーの女』など)&ブラッド・ピット主演の怪作です。公開当時はあまり評価されず興行成績も振るわなかったものの、後年になってから再評価されてきた作品です。この作品も「さよなら絵梨」に通ずるところが複数ありますが、何と言ってもラストの爆発シーン。それも、全てを投げ出すような突然の爆発シーンではなく、物語的な整合性もあり、ある種の快感も伴う爆発で終わるという点は強い影響を感じます。

そして、優太が「メメント・モリ」と言うシーンが後半でもリフレインされることで強く印象付けられるのですが、これはジョナサン・ノーランの短編小説『Memento Mori』を元に兄であるクリストファー・ノーラン(他の代表作は『ダークナイト』、『インセプション』、『インターステラー』など)が映画化した『メメント』を髣髴とさせます。「さよなら絵梨」においては時系列の入り乱れこそそこまでではありませんが、どこまでが現実なのかが混濁する構成自体も『メメント』に近い部分があります。

『ファイト・クラブ』や『メメント』の具体的な内容については、「さよなら絵梨」の中で優太が『シックス・センス』に行ったようなクリティカルなネタバレは避けたいと思いつつも避けて説明するのが難しいのですが、これらの作品に共通して言えるのはいずれも「信頼できない語り手」の物語であるということです。こうした種類の映画を複数出してくるのは、暗にこの作品もそれに類するものであるということを示唆しているようです。

また、もうひとつ注目すべきはこれらが皆小説原作という点です。「さよなら絵梨」は、前編で述べた通り客体に対しての編集という行為にフォーカスした作品でもあります。そして、上記の作品たちは小説から映画になる際に翻案・編集され、映画として撮影した後にも編集されたものです。加えて、『ぼくのエリ』や『ファイト・クラブ』はローカライズされる際に規制などによってシーンが削られたり改変された作品でもあり、『ルックバック』と似た境遇で多重の編集を受けたという経緯もあります(特に、『ぼくのエリ』に関しては超重要なシーンが邦画版では手を加えられており、作品全体への印象すら左右してしまうものになっています)。これらの作品の影をちらつかせることによって、物語の構造及びテーマを暗喩しているのではないかと感じられました。

ところで「映画好きの漫画家」といえば漫画の神様・手塚治虫などももちろんですが、個人的に思い出す筆頭は『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦さんです。2000年に発刊された『JOJO A-GO!GO!』という分厚くて巨大なファンブックの中では、荒木飛呂彦さんが年間2〜300本の映画を観た上でそのすべてのあらすじを記録していたことなどか描かれています。極め付けは、その映画の鑑賞量をヴィジュアル化したもの。

『JOJO A-GO!GO!』(荒木飛呂彦/集英社)より

もしかしたら全部ではないのかもしれませんが、恐らくこの大半は観られていて、それを要素分解した上で自身の創作に活かしているのでしょう。「さよなら絵梨」の中で、絵梨が優太に課したようなことを荒木飛呂彦さんは自主的にやっていたということです。もしかしたら、こういう先人の姿の影響から絵梨というキャラクターも形成されているかもしれません。

私もこれを読んで触発され、一時期貪るように映画を観続けていた時期がありました。しかし当時まだサブスクなどはなく、買うかレンタルしてくるかしかないにも関わらず地元のお店は在庫が充実しているとは言えず、ちょっとマイナーな作品が観たい時には大きなお店までわざわざ電車に乗って通っていました。優太たちがレンタルショップで作品を選んでいるシーンは往時を思い出させ、懐かしく思いました。残念ながら私の隣には絵梨のようなかわいい女の子はいませんでしたが。

それに比べて、1本の映画を観るより安い料金を毎月払うだけで無限の名作を観られてしまう今の時代の恵まれっぷりは凄まじく羨ましいと感じます。
「何を食べたらこんなマンガが描けるんだ」
という問の部分回答として間違いなく「多量の映画を観ること」は挙げられます。近い将来にブレイクしそうなマンガとして私がよく名を挙げる『終の退魔師 ―エンダーガイスター―』も、筆者が超大量の映画を観ているが故に絵の巧さも物語の面白さも卓抜していると感じる作品です。将来創作者になりたいという方は、今からでも沢山の映画を咀嚼しながら観ておくと良いのではないでしょうか。

ところで『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』や『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』といった名著がありますが、その藤本タツキさんバージョンもぜひ作りませんか、集英社さん。

 

6.緻密で芸術的な物語構造

「さよなら絵梨」は物語も美しいのですが、複雑な構造それ自体だけでも美を感じられるほど秀逸です。

【【【優太は母親が死ぬまでの映像『デッドエクスプロージョン』を撮った】という映画を全校生徒に見せた。優太は糞映画とバカにされ自殺しようとしたが、唯一超面白いと感じてくれた絵梨の存在に生きる気力を貰い、面白い映画を作ってリベンジすべく絵梨と一緒に廃墟で大量の映画を観て脚本を作った。しかし絵梨は不治の病でもうすぐ死んでしまうことが判り、自分が死ぬまでの映像を撮って欲しいと優太に願った。塞ぎ込んだ優太を見て父親は秘密にしていた亡き母親の真意を伝え、優太は絵梨の最後を撮ることを決意し、死の間際までを撮った】という映画を全校生徒に観せた。今度は皆をブチ泣かせリベンジに成功した。その後就職し、妻と娘ができてからも絵梨の映像を編集し続けた。ある日、父親と妻と子が事故に遭い自殺しようと思い出の廃墟に行くと、そこには若い頃のままの姿の絵梨がいて吸血鬼であることを告白。爆発する廃墟を背に去った】という映画を「さよなら絵梨」というマンガで観る私たち

…というのが主だった筋ですが、複雑な入れ子構造になっている上にそれぞれのコマが時系列順に並んでいる確証もなく、物語のどこが虚構でどこが真実なのかは解釈の分かれるところでしょう。また、入れ子構造の内部から自己言及的に

「ラストなんで爆発させた?」

「……最高だったでしょ?」

「上映時間20分近くあったのに飽きずに見れたしどこまでが真実か創作かわからない所も私には良い混乱だった」

といった最も外側にいる私たち読者の先回りをするメタ的なセリフが頻出するのも凄いところであり、読んでいる側も物語構造の一部に取り込みながら良い混乱を増幅させてもいます。

この記事が出るころには周回遅れの考察になってしまっているかもしれませんが、私なりの解釈とその論拠を述べていきたいと思います。

まず、一番重要なのは作られた映像の外側にいる絵梨を私たち読者は一度も見ていないのではないか、ということです。それは、絵梨の唯二の友人である女の子の「絵梨は眼鏡を掛け、歯の矯正をしていた」という証言によります。その姿の絵梨は作中では全く登場していません。

また、「自己中」という証言もありました。初対面の相手にいきなり自分の言うことを聞かせて部活もやっていたら辞めさせようとしていたのもなかなかな性格でしたが、それだけではわからないと言われるくらい、本当の絵梨はもっともっと自己中だったのでしょう(ただ、小中学生の時分の女の子が病気で苦しみ、同級生が普通にしているようなことを自分だけできないような状況がずっと続いていたら、多少怒りっぽく自分勝手な性格になってしまうのも仕方ない気がします)。

もちろん、この証言自体がフィクションやミスリードである可能性も十分に存在します。

しかしながら、病院の屋上での出会いから最後の別れに至るまで、すべて映像作品として意図的に撮られた絵梨しか読者は観測できていないとしたら。「さよなら絵梨」として読んだ部分のほとんどは優太たちが意図して撮ったシーンであることになり、それに基づいた解釈の方が色々と腑に落ちるので今回はその方向で話を進めていきます。

少なくとも
「『デッドエクスプロージョンマザー』を撮った」
「母親が死去した」
「『デッドエクスプロージョンマザー』を学校で上映した」
「多くの生徒にはドン引きされたが、それを観た映画好きの絵梨は作品も優太も気に入った」
「絵梨は優太の才能を伸ばして、もっと良い作品を撮ってもらうべく一緒に大量の映画を観た」
「絵梨は病気を抱えていた」
「優太は絵梨と共に最後の時間を過ごして大量の映像を撮った」
「その映像をまた学校で上映した」
この辺りは事実であろうと思います。

しかし、2回目の映画を上映した文化祭の後に引きこもるようになり、大学に入って中退して就職して、結婚して子供ができ、その後事故で家族をみんな喪って、吸血鬼であるという絵梨と再会するーーという一連の展開に関しては疑わしいと思っています。何故なら、それらの部分はすべて簡素なインサート映像のみで具体的な描写がまったく出てきていないからです。これらはまだ絵梨が存命中に、台本が作られて撮られたものなのではないかと。

では、実際に映像に映っている未来の優太は誰なのかと言えば、優太の父親が演じているというのが有力です。その根拠としては、まず優太の父親が昔演技をやっていた、という設定です。あれは映像の中で語られたことではありますが、真実のひとつなのではないかと。今回の説においては私たちが読んだものはすべてが創作された映像という立場なので、絵梨が優太の家を訪ねて夕食を共にしたシーンも、父親は敢えて酷い棒演技をした後にすごく自然で上手い演技を行ったものと捉えられます。

容姿的な特徴でわかりやすく優太と父親を判別できる箇所はなく、逆に言えばそこで否定できる要素もありません。多少のメイクを施せばあれくらいの風貌の変化はできるでしょう。

そして、青年優太と絵梨が同じコマに描かれているのは177〜178Pの見開きただ1コマだけであること。これはスマートフォンで読む時ならではですが、紙の見開きと違ってそれ別のページとして独立しているので1回捲るという動作が必要で、見開きですが分かれているのです。映画で同じようにこのシーンを撮るなら、上手側の優太からパンして下手側の絵梨にカメラを振るような形になると思いますが、そうなるとその後の一連のシーン含めてすべて別撮りで可能になっているのです。つまり、優太の父親と絵梨が同時刻に廃墟にいる必要がなく、それぞれを別日に個別に撮影した可能性も有り得ます。

青年優太の廃墟シーンに関しては、カメラアングルが非常に豊富で実際の映像作品でもよくあるようなアングルや切り替わり、物のナメが行われており、他のシーンと比べてかなり異質です。これは、優太が良い映画を沢山観て、多くの映像を撮った後で洗練された映像を撮れるように成長したからかもしれません。あるいは、あえて創作性を強調することによって受け手にこのシーンの意味を暗示をしているのかもしれません。

また、もし本当に絵梨が吸血鬼だったとしたら不自然なのは、そのことを死の前に優太に伝えていなかったことです。死からたった3日で再生できるのなら、たとえ記憶を失っていたとしてもすぐに優太と再会できるよう伝えた上で自分宛の手紙を書くのではないでしょうか。逆に絵梨が吸血鬼ではなく普通の人間とするなら、太陽の下でもかなりの行動をしていたこと、水や塩が苦手なのに海に行って海に倒れ込んでいること、また人間の血を摂取するような描写やそれによる被害者や事件の痕跡、吸血しないことで衰弱する描写などが一切出てきていないことなどにも綺麗に説明が付きます。

廃墟がいつまでもそのままになっていることも違和感があります。周囲の背景や大泉学園が映っているシーンからも都内のどこかである可能性が非常に高いですが、人里離れた場所にある廃墟ならともかく、そこそこ栄えた街中であの規模の建物が10年20年と放置され続けるのはなかなか珍しいのではないでしょうか。また、建物のみならず携帯映写機とて経年劣化してしまいそうなものです。

加えて、仮に絵梨自身は不老不死だとしても着ているものはやはり劣化するはずです。当時の制服をそのまま着ているにしては綺麗すぎ、もし新しく同じ制服を入手して着ているとしても、そのようにする理由があまりないように感じます。

こういったところから、すべては創作されたものでそれを観ているという説に私は立ちます。重要なのは、すべてが創作であるとするとそこで描かれていない部分、私たち読者が読んでいない裏の部分に大きな価値が隠されており、それはあたかもミロのヴィーナスのようなもので、それを含めた構造こそがこの作品の美しさであると私は思うのです。その内容については次節で詳述します。

 

7.優太と絵梨の真意

優太は、絵梨に告白して振られたと言っていましたし、作る作品が好きなこととその創作者の人間性を好きであるというところは普通は別です。

しかし、このようにも考えられます。本当は、絵梨も優太のことを好きだったのではないか。母親に苦しめられながらも、あれだけ美しく撮影することのできる優しい心を持った少年、他の誰が理解できなくても自分の価値観に寄り添ってくれる唯一無二の存在である優太に愛情を持っていたのではないかと。好きでもない相手と、何百時間も一緒に隣で映画を観続けることができるでしょうか。

ただ、もうすぐ死んでしまう身で恋人という関係になってしまっては自分が死んだ後も優太を縛ることになってしまう。だからこそ告白されても突き放すように断ったのではないかと。それでも、好きな人に自分の存在を忘れないでいて欲しく、自分がこの世を去った後でもきっとこの映像を縁に綺麗に思い出してもらえるであろうと実感しながら、最後の時間に映画を一緒に創った。

前のままでも良い線を行っていたけど、恋人が死んで終わるのはありきたりだから最後に飛躍が欲しくて、絵梨が死んだ後の優太を一度幸せにした後で絶望させ、そこから立ち直るという筋書きを作り、そのためのひとつまみファンタジーとして絵梨が本当に吸血鬼であるという設定を、別れを繰り返し続けねばならない悲しみに満ちながらも自分との思い出を大切にして生き続ける超越的な存在と向き合うことで自身も前を向いて歩き出すという設定を付けた。

「前の絵梨はきっと絶望していたと思う…
 でも大丈夫 私にはこの映画があるから」
というセリフは、死を目前にした人間の少女・絵梨の本心でもあるのではないでしょうか。

「見る度に貴方に会える…私が何度貴方を忘れても
 何度でもまた思い出す
 それって素敵なことじゃない?」
は、絵梨のセリフではありますが、優太が父親から受け継いだ想いを込めて書いた台本のセリフであり、自分自身が今後絵梨と死別しても、何度も『さよなら絵梨』を見返して絵梨を素敵な形で思い出すことも想ってのものではないでしょうか。

そして、最後には二人を結び付けた『デッドエクスプロージョン』と同じように思い出の場所を爆発させて、最高の映画『さよなら絵梨』として完成させた。それは、文字通り優太から絵梨への餞となった。死ぬ間際に、好きな人と創り上げた映画を夜中に静まり返った病室の中で一人観て、笑いながら涙を溢していた女の子がいたのではないかと。自分の人生は短いものだったけど、面白い作品に沢山出会って、最後に最高の関係を築けた人にも出会え、最高の思い出も作れた良いものだったと想いながら……。少女から大切なものを受け取った少年は、大きな悲しみに暮れながらもそれを乗り越えて成長し、やがて世界中の人々の心を動かす作品を創っていくようになり、いつか自分のルーツを尋ねられた時に、少年時代に自分に映画を教えてくれた大切な人と撮ったマスターピースがあったことを語る……そんな日も来るのではないかと。「さよなら」は惜別ではなく、永遠に共にあるための言葉だったのではないかと。

根幹にあるものは非常にベタでありながら、その描き方に恐ろしいほど研ぎ澄まされた技巧を凝らした作品。私は「さよなら絵梨」をこのように捉えています。最後が爆発で終わるのは決してヤケクソになってそれまでのストーリーを全部投げ捨てたという訳ではなく、悲劇的な出来事に見舞われた人間が悲劇を単なる悲劇として扱わず乗り越えていく気高き強さが宿ったものであると考えています。それ故に、「さよなら絵梨」は好き放題やったB級糞映画ではなく、緻密な計算の上に練り上げられた感情を揺さぶる大傑作以外の何物でもないと思っています。

もちろん、家族の死は本当に起きたことで最後のシーンは優太が見た幻覚や妄想という説もありますし、あくまで個人の感想であることは強調しておきます。物語は鑑賞者の数だけ解釈があって良いので、私も他の方の解釈を聞きたいところです。そのように語り合って物語の外でも楽しめる作品であり、そこも魅力だと思います。

 

終わりに

今回ひとつ興味深かったのは、公開日に海外ファンのあいだでも同時に #GoodbyeEri というツイッター上のハッシュタグで大量のリアクションがなされていたことです。今、海外では最新の『週刊少年ジャンプ』や『ジャンプ+』の作品がリアルタイムで無料で読める『MANGA Plus』というサービスが公式に運営され、急速に数字を伸ばし続けています。「さよなら絵梨」は人を選ぶ作品ではあると思いますが、それでも絵梨の魅力に狂っている人から鋭い考察を行っている人もいました。日本でもマンガの読み方が解らないという人も増えてきている一方で、単純明快でない「さよなら絵梨」のような作品も十全に楽しんでいる人が世界中にこれだけいる。ワールドワイドに同時にひとつの作品で盛り上がっている感覚は、マンガで世界がひとつになっているようでとても嬉しいものでした。と、同時に国境を超えて楽しめる作品を送り出し続ける創り手に改めて畏敬の念を抱きます。

『チェンソーマン』第二部もすこぶる楽しみで仕方ありませんが、こんな優れた読み切り作品ももっともっと読んでいたいという矛盾した感情が生じます。私の心の本棚に、またひとつ新たな傑作が加わりました。藤本タツキさん、素晴らしい作品を描いていただき本当にありがとうございました。今後も傷つきながらも最高の作品を生み出し続けてください。全力で受け止めに行きます。

 

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記事へのコメント

どこまでが劇中劇なのかの捉え方、きちっと整理してあって読解の助けになりました。人によってそれぞれ見方が変わるのがこの作品の魅力だな〜と改めて感じます

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