「さよなら絵梨」が超っ〜!面白かった!!ので語りたい 【前編】

「さよなら絵梨」が超っ〜!面白かった!!ので語りたい 【前編】
※この記事には、「さよなら絵梨」のネタバレが含まれます。未読の方はご注意ください

 

藤本タツキさん

あなたのマンガ

超っ〜! 面白かった!!

でも…

同じくらい悔しかった…!

確かに複雑で難解な部分もあるけど

タツキ信者が雰囲気だけで何でも面白がってるとか言われたりしてて…!

それがホンっっトに悔しいの!

 

という訳で、先日200ページ描き下ろしの読み切りとしてジャンプ+で公開され、大きな話題となった藤本タツキさんの新作「さよなら絵梨」の話です。

昨年も描き下ろし読み切りとして公開された『ルックバック』が大反響を呼び、全編無料で公開されたにも関わらず単行本が50万部以上の発行部数に達する快挙となりました。今まで、読み切りといえばせいぜい数十ページまでで、100ページを大きく超える作品は載せられる媒体もありませんでしたが、こうした前例ができたことでまたマンガ界に新たな可能性が生まれた気がします。

『チェンソーマン』は2020年中で間違いなくもっとも続きを毎週楽しみにしていた作品ですし、『ルックバック』にも大いに震えた2021年。それを経て、2022年また新たにやってきた「さよなら絵梨」、もう焦がれるほど楽しみにしていました。

そして満を持して読んだ瞬間から、暫く「ハロウィン」と言うしかなくなるが如くに、「さよなら絵梨」のことばかり考えさせられる状態になっていまいました。多くの作品に触れていかねばならないのに、「さよなら絵梨」が脳内を占めてしまって他の作品が上手く入ってこないのです。とんだ営業妨害です。そして、それこそ最高のマンガ体験です。こういう作品に触れられる瞬間があるが故に、マンガは本当に素晴らしいと思えます。

どうして「さよなら絵梨」はかくも私を魅了したのか? 長くなるため、前後編に分けて語っていきたいと思います。

 

1.静的かつ映画的なマンガ表現

「さよなら絵梨」に

「映画を観ているようだった」

という印象を受けた方も多いと思います。そう思わせるように作られていたことは、ストーリー的にも扉絵や画面構成からも明示的です。全編にわたって、正しく映画的な画作りが細部まで凝らされています。

本作の多くはスマホで撮影した動画を意識したような、映画館のスクリーンのような、定型の横長の長方形が4コマ並んだページで埋められており、たまに1ページ2コマや1ページ1コマ、見開きが差し挟まるというコマ割り構成になっています。何と、この「さよなら絵梨」ではその4種類しかコマがありません。

折角なのでそれぞれがどういう割合で登場するか、カウントしてみました。

ページ

コマ割り

印象的なシーン

217P

4コマ

 

18P

2コマ

病院から走り出す優太

19P

1コマ

病院爆発

20P

1コマ

病院爆発

2122P

見開き1コマ 映画を見せられる生徒たち

2338P

4コマ  

39P

1コマ 絵梨初登場

4044P

4コマ  

45P

1コマ 映写機で初めて一緒に映画を見る優太と絵梨

46P

2コマ

『ファイト・クラブ』とそれを見る絵梨の横顔

4752P

4コマ

 

53P

1コマ

「あなたの映画超面白かった」

5456P

4コマ  

57P

2コマ 絵梨の名前が明かされ握手する

58101P

4コマ  

102P

1コマ 波打ち際で笑顔の絵梨

103106P

4コマ  

107P

2コマ 海に倒れる絵梨

108P

1コマ 海に倒れる絵梨

109124P

4コマ  

125P

1コマ 母の最期

126P

4コマ  

127P

2コマ 優太を虐待する母

128136P

4コマ  

137142P 

2コマ 絵梨との思い出

143150P

4コマ  

151152P

見開き1コマ 映画を見せられる生徒たち

153P 

4コマ  

154P

1コマ 優太のピース

155158P

4コマ  

159P

2コマ 絵梨の友達

160176P

4コマ

 

177178P

見開き1コマ

絵梨との再会

179P

2コマ 絵梨に驚愕する優太

180182P

4コマ  

183P

1コマ 吸血鬼カミングアウト

184190P

4コマ  

191192P

1コマ 「それって素敵な事じゃない?」

193194P

4コマ  

195196P 

1コマ

「さよなら」

197198P

4コマ  

199200P

見開き1コマ 廃墟爆発

合計

 4コマ→172ページ

 2コマ→8ページ

 1コマ→12ページ

 見開き→8ページ

以上、200ページの内172ページ、実に8割以上が等しい大きさの4コマという平坦なコマ割りです。4コママンガならまだしも、普通であればここまで単調なコマ割りでストーリーマンガが描かれることは滅多にありません。逆に、こんな単調なコマ割りで200ページという長さを苦もなく多くの人に読ませてしまうというのが異次元の力量です。

また、構図に関してもカメラで撮っている状態を意識したものが多くを占め、1~数ページの中で微妙な変化しかないシーンも頻出します。『HUNTER×HUNTER』のメルエムとコムギの最後の会話のシーンを想起しながら、極めて優れた描き手が描くマンガは最早絵がなくても言葉選びと間だけで至高であると感じ入ります。

時折生じるカメラの手ブレをマンガで上手く表現している様も職人芸で、「マンガで映画を撮った」と言っても過言ではない極致に達しています。

特徴的なのはフキダシで、その映像を撮っている・カメラを持っている主体のセリフはフキダシが枠線と溶け合って画面の外側にいることが表現されており、画面の中にいる場合はフキダシもコマの中に収まっています(もし誰のセリフなのか判りにくい、と感じる部分があったならそこを意識すると一目瞭然です)。

変形ゴマがまったくないことに加え、構図が一定、擬音・オノマトペがない、ナレーションもない、と極めて静的な演出が徹底されていました。

少年マンガ的な派手な演出を意識して多用していた『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』などではもちろん、『ルックバック』ですら擬音表現は使われていました。しかし、今回はそれすら排されたことにより、孤独に執筆をするシーンを積み重ねていたことでかなり静かな印象を受けた『ルックバック』の時よりも更に一層静謐を、それこそ爆発シーンですらある種の静かさを感じられるように描かれています。この静けさが、心地良く沁みるひとつの要因になっていたのは間違いありません。まさに、後述するスウェーデン映画の『ぼくのエリ』を観ている時の感覚に近しいものを覚えるのです。

 

2.クリシェの寄せ集めが極上の味

「ボーイミーツガール」

「謎の病気で死ぬヒロイン」

「吸血鬼」

「爆発オチ」

「劇中劇」

単体の要素だけを抜き出してみると、どれもありふれ過ぎているものばかりです。簡単には面白くなりそうにないですね。しかし、「さよなら絵梨」ではこれらすべてを悪魔合体させて、極上の物語に仕立て上げているわけです。

最近放映されていた中国アニメ『時光代理人 -LINK CLICK-』の第6話番外編でも引用されていた、アメリカの写真家エドワード・ウェストンの

物珍しい題材を探すのではなく、ありふれた題材を非凡なものへと変える

という言葉を体現したような作品と言えるでしょう。

絵は言うまでもなく上手なのですが、材料には目新しさは何もないどころか、むしろ使い古されたものばかり。コマ割りや構図は極めて単調。それでも、最高に面白いマンガは作れるのだというひとつのお手本を示してくれました。

一見美味しく食べるのは難しそうな素材であっても、調理方法やスパイス次第で極上の料理として数多の人々を唸らせる。藤本タツキさんの職人芸は稀代のシェフのような領域です。

 

3.『ルックバック』から続く「創作」への眼差し

創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで

笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?

作り手も傷つかないとフェアじゃないよね

という優太の父親のセリフは本作において特に象徴的です。作中では若干の戯けが混ぜられていますが、これは間違いなく藤本タツキさんが創作する上での覚悟のように感じられます。

前作『ルックバック』では、京都アニメーションの事件を髣髴とさせるとあるシーンが修正されるということが起きました。しかし、現実に起こり得る理不尽を描いたものとして元のままであった方が自然であり作品の価値を高めるというのが個人的な意見です。藤本タツキさんは、生じた怒りを作品に昇華する作家であり、『ルックバック』の時に生じた怒りは「さよなら絵梨」で発露していたように感じました。

今日でも曖昧な基準の表現規制がそこかしこで叫ばれており、表現者はそれと戦い続けねばなりません。『ルックバック』はそうした産みの苦しみのみならない逆境にも置かれるすべての孤独な創作者への熱いエールであり、讃歌でした。

「さよなら絵梨」でもそういう部分は踏襲されています。それに加えて、「さよなら絵梨」は糞映画よりも酷い現実の下で物語(ひとつまみのファンタジー)に救われながら生きる私たち読者・受け手も含めたすべての人への讃歌であるように感じられました。

なぜ人間が物語を必要とし楽しむ能力に長けているのかといえば、個の能力では他の動物に劣る人間は、集団での動物の狩り方や餌場の在処、自然災害の脅威などをストーリーとして共有することによって過酷な環境での生存を果たしてきたからという説があります。

現代文明においてはかつてより格段に人間を脅かすものは減りましたが、社会が高度に進歩したが故に今度はそこで直面するストレスが複雑化しています。そんな時にも、物語は力を発揮します。要因は時を経て変わっても、世界に過酷さがある限り人間には今も昔も物語が必要なのでしょう。

優太の身に立て続けに起きた

「母親が死んだ」

「仲の良い、好きだった女の子が死んだ」

という事実だけを並べると、あまりにも悲しいものです。

しかし、それを俯瞰して映画にすることで悲しみを払拭して、生き続けるという選択をできるようになった。それは、フィクションが持つある種の力によるものです。その力の作用を、私は限りなく美しく素晴らしいと思います。

 

4.編集という行為について

「さよなら絵梨」では「編集」という行為もキーワードになっています。やはり優太の父親から発されるものですが、

優太は人をどんな風に思い出すか

自分で決める力があるんだよ

それって実は凄い事なんだ

というセリフは本作における重要なテーマでしょう。「さよなら絵梨」自体が、編集を重ねに重ねられた作品です。それは、優太がどんな風に思い出すか取捨選択した結果作り上げられたものです。

一番最初に優太がスマートフォンを買ってもらって撮影した、病気で余命が迫っている母親の動画は「映画の中のお母さんはきれいな部分だけしか見えなかった」と言われます。しかし、実際には優太は母親から家庭内暴力も受けていました。

「さよなら絵梨」は冒頭からやや不自然な描写があります。それは、優太の誕生日ケーキ。優太自身は「こないだ中学生になりました」と言っているのに、誕生日ケーキには「優太12歳」というプレートが乗せられています。通常であれば、中学生になってから迎える最初の誕生日は13歳のはずです。しかし、この誕生日ケーキが年齢の部分がしっかり見えるように計6コマも描かれているのは明らかに意図的であり、そこには汲み取って欲しいであろう意味が乗せられていると解釈できそうです。

その意味を紐解く鍵が、後半になって明らかにされる母親の本質です。つまり、優太の母親は自分の息子に対しては年齢も曖昧なくらいに興味がなく、「役に立つか立たないか」くらいでしか価値を判断できず、それよりずっと自分を良く見せることに関心が行っていたということです。「誕生日ケーキを買ってお祝いする幸せな家庭の母親であるワタシ」を演出するのが第一で、息子自体はどうでも良かったのではないかと思われます。

客観的に見れば酷い母親であり、絵梨はその本質を見抜いている部分もありました。優太が、昔からすべての事柄にひとつまみのファンタジーを宿すのは、そうした辛い現実を慰撫しようとする適応機制であった可能性も考えられます。が、それでも優太にとっては大切なたったひとりの母親で、その思いが映像と編集に見事に宿ったのでしょう。

創作と同様に、編集には大きな力があり、その功罪もあります。すべて事実である映像だとしても、その順番を切り貼りするだけで観る者の印象が180°変わります。そうした恐ろしさにも自覚的になりつつ、しかしそれ以上に自己の人生も他者への想いも編集次第で無上の価値を見いだせるようになるという部分の素晴らしさが謳われています。

 

▼後編へ続く


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