どちらかというと『テセウスの船』というより『動的平衡』じゃない?
時間遡行をして人生をやり直したとしたら、それは本当に同一の自分といえるのか?という問いを有名なパラドックス「テセウスの船」になぞらえたタイトルだ。 ストーリーに関しては論理的整合性や感情的整合性においてやや粗い部分も感じられたもののサスペンスとして緊張感もあり、ラストは新海誠監督『君の名は。』のような美しい締め方だったし概ね面白かった。 ただ、タイトル『テセウスの船』がイマイチストーリーにハマっていない感じがした。 どちらかといえば「動的平衡」のほうが比喩としてしっくりくるのではないだろうか。 「動的平衡」とはシェーンハイマーの提唱した概念であり、日本では福岡伸一氏による著書『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』で有名になった言葉である。“生命”とは、取り込まれ代謝されていく物質、生まれ変わり続ける細胞どうしの相互作用によって現れる“現象”である、という考え方だ。 主人公の田村心は生まれる前の過去に遡り、そこで巻き起こる惨劇を阻止することで、その惨劇により自身に降りかかった不幸な運命を変えようと奮闘する。作品では、過去を改変して自らの人生を曲げようとする一連の試みをテセウスの船にたとえているが、やはりピンとこない。作中、田村心は殺人事件を未然に防ぐため凶器となった薬物を隠したり被害者に避難を呼びかけたりするが、その影響で心の知る未来とは異なる人物が命を落としたり、結果的に大量殺人を防げなかったばかりか予想だにしなかった事態を招くことになる。 この予測不可能性こそがまさに動的平衡そのものって感じなのだ。生命体は、船の部品のように壊れた部分を取り替えれば前と変わらず機能する、ということにはならない。ある重要なホルモンの分泌に作用する細胞を、遺伝子操作によってあらかじめ削除してしまったとしても、ほかの細胞がそのポジションを埋めることがある。これは心が殺人事件の阻止に何度も失敗したことに似ている。思わぬ不運や予想しない死者が出てしまったのも、脚のツボを押すと胃腸の働きが改善するなどの神経細胞の複雑さに似ている。 船は組み立てて積み上げれば完成するが、生命は時間という大きな流れの中で分子同士が複雑に相互作用しあうことで初めて現象する。『テセウスの船』での田村心の試みは人生あるいは歴史という動的平衡に翻弄されながらも抗う物語だったのかもしれない。
このあとすぐ音臼村跡地へ行ってタイムスリップすると思っていたけど、思ったよりこの時代には長くいるのかもしれない。もう一度面会は必要だ。あのたくさんの絵、とくに対応する人物不明のものは過去に起きた事件の心当たりを佐野は知っているかもしれないし、事件関連ももう少し知りたい。
鈴には会いに行くのだろうか。子供の父親が誰か気になる。一方で「心さん」に「そっくり」なのをどう説明するのか。そのまま?なら会わないという選択もありか。あまり考えずに行動するキャラクターなので意外とこの辺は直球でいくか。もし犯人に遭遇した場合、どうなるんだろう、という不安もある。
今回が39話。あと4話で5巻収録予定分
が完結する。この時代にとどまったまま、何かが起きるんだろうか。それとも覚悟のタイムスリップをもって結びとなるんだろうか。
ちなみに音臼村の位置は11話で見ると国道5号線の沿線(心が捨てたパラコートの瓶はこの近くの林で佐野が見つけている)。そして3話の三島外科にある日めくりカレンダーの広告は札幌の会社で電話番号は市外局番が省略されている。
従ってあくまでも架空の村ではあるけれど函館ー札幌間の国道5号線の限りなく札幌に近い場所にあるものと思う。札幌に滞在しているのならすぐに行ける近さだと思う。
もうひとつどうでもいい話だが、同じ北海道の羅臼町もモデルになっているように思う。Wikipediaによれば羅臼岳登山口に木下小屋というものもある。劇中のものと形が違ってそうだけど。
さらには劇中の「長和神社(17話で名前が見える)」は伊達にある同名の神社の奥の鳥居と社がよく似ていると思う。これがモデルかもしれない。あの立派なキツネはいないが。