フリーランスで仕事をされている人の中には請求書を発行するのが苦手だという方がいますが、自分の場合は見積書を発行する方が苦手です——というか、ギャラをはじめ、ありとあらゆる交渉ごとが恐ろしく苦手です。十年に一度くらいの頻度で、もの柔らかな話ぶりで交渉と駆け引きをし、関係者全員を納得させ、ありとあらゆる物事を円満に解決しちゃう人に出くわすことがあるのですが、そういう(スマホゲームでいうところの)SSRばりに凄腕の能力を持った人に遭遇する度に「その高度なコミュ力と駆け引きスキルは、どうすれば身につきますか……っ!?」と教えを請いたくもなったりする(が、小心者なので実際に訊けたことはない)。
現実世界においては、なかなかお目にかかることのない《駆け引きスキルが異様に高い人物》ですが、マンガの中だとけっこういたりする。もし自分の中における《駆け引き上手なマンガのキャラランキング》をつけるのであれば、文句なしで殿堂入りするのが、イギリスの大ユーモア作家であるP.G.ウッドハウス氏の作品をコミカライズした、勝田文さんの『プリーズ、ジーヴス』(白泉社)シリーズの主人公である“天才執事”ジーヴスになります。
「機略と知略」をモットーとし「私に当然備わるべき知略 一方機略は 不測の厄介事に対し いわゆるfiness(巧妙な処理)を用い これを治めると申しましょうか」「すべては ご主人様との生活を 守らんがためでございます——」と語るジーヴスが、主人である伯爵後継ぎのバーティーが引き起こす(時に巻き込まれる)ありとあらゆるトラブルを解決する様子が作中では描かれるのですが、ため息が出てしまうくらいに手腕がエレガントでありつつ痛快だったりする。コミカライズ版を通してジーヴスの存在を知ったのは今から12年前なのですが、それ以来ジーヴスは自分の中における《駆け引き上手なキャラ》のトップとして君臨しつづけてきていました。
が、ここ最近になってジーヴスとは正反対のタイプながらも“天才執事”に劣らぬ駆け引きの手腕を持ったキャラが現れ、件のランキングの上位に躍り出るだけでなく、自分がひそやかに抱いている「駆け引き上手になりたい欲」を刺激しつつあります。そのキャラとは今年3月に、めでたく連載再開となった宵田佳さんの『野宮警部補は許さない』に登場する野宮憲司警部補。
タイトルからおわかりいただけるように『野宮警部補は許さない』は警察モノ作品。舞台となるのは「全警察の人事を取り扱う警察組織の中枢であり エリート中のエリートが集まる」警視庁警務部の中にある「特別対応室(通称トクタイ)」という部署。主な業務というと、警察組織内の不祥事やトラブルが非行事案/非違事案として表沙汰となる前に解決するもので、いわば警察職員を監視して不祥事を摘発する監察係のサポート役のようなもの。
ちなみにトクタイには非行事案/非違事案を行った警察職員を処分する権限は与えられていない。なので“睨まれたら終わりだ”と警察職員に恐れられている監察係に比べると、どこか甘く見られがちな存在であったりもする。
物語の主人公となるのは、前部署での実績が認められて警務部への転属となり、トクタイに配属されることになった警察官・橋下檸美。彼女の教育係となるのが冒頭で述べた《駆け引き上手なキャラ》である野宮警部補。作中では檸美の目線を通して、かつては公安部のエースであった野宮が様々な事案を解決していく様子が描かれるのですが、この野宮がとんだ食わせ者だったりする。
一見、爽やかな好青年の野宮だが、それはあくまでも外ヅラで、トクタイのメンバーに対しては、とことん人を小馬鹿にしたような態度をとる。そのことについて同僚に文句を言われても「俺 相手によって対応変えるから」と、しれっと悪びれもなく返す。
性格の裏表が激しいだけの警察官キャラなら、多々ある警察モノ作品においては、そこまで珍しいものではない。じゃあ、なんで『野宮警部補は許さない』に(この連載を通して誰かにオススメしたくなるくらいに)ハマったのかというと、いわゆる“弱気を助け強きをくじく”といった勧善懲悪だけを描く品行方正なマンガではないからです。
なにせ野宮が最も“許さない”(と、読者としては思われる)のが警察職員による不正でも理不尽なハラスメントでもなく、野宮個人に対して行われた侮辱的な仕打ち。しかもその内容も「俺の万年筆を壊した」とか「貸したブルーレイBOXを勝手に売った」とか「(野宮のことを)盗撮した」だの、かなり私情が入ったものとくる。
ちなみに野宮はその恨みをしっかりと手帳に(相手の写真つきで)記している。しかも丁寧に「HRD051」といった番号をふっていて、冒頭の英字3文字は相手が所属している署の略のようである。それにつづく数字の意味は……作中では明かされていないが、想像するだけで恐ろしい。
この野宮を突き動かす源となっているのが、警察官としての純粋な正義感ではなく私情や私怨だというのが、ものすごく人間臭い上にリアリティーがあって良いと個人的には感じるんですね。理不尽としか思えない内容のニュースが日常的に報道される現代において、大岡裁きなんてものはフィクションの中でしかありえないと分かっているから余計に。
ただ前述したようにトクタイには警察職員を処分する権限は与えられていないので、小芝居を交えた誘導尋問や内偵調査による裏取りに長けている野宮であっても、できるのは職員が隠していた事柄を白日の下に晒しつつ反省を促す“お仕置き”程度のことに限られている。しかし「下衆をもって 下衆を制す」方法で、野宮は相手のメンタルにとことんダメージを与えまくる。
例えば、泥酔した巡査を監禁した疑いのある職員への調査を描く第2話。元警視総監の孫であり現刑事部長の息子である職員がシラを切るのを想定していた野宮は、面談を装いながら問題となったときと同じシチュエーションを応接室につくり出して職員を閉じ込めた上、「なあ 今 楽しい?」と問いかける。もちろん相手を小馬鹿にした態度で。
さらに警察一家の一員であることを楯に取った職員の口グセである「僕は刑事部長の息子だぞっ!?」を逆手に取った仕打ちまで、ぬかりなく用意しておく。
「これ、ネタバレしてない!?」と思われるかもしれませんが、これでも作中における野宮の仕打ちの強烈な部分は伏せている状態です。この一部始終において野宮がなぜ携帯を手にしているのかが気になった方は、ぜひWEBマンガ雑誌『コミックぜにょん』にて公開中の第2話を読んで、野宮のさらなるゲスい一面を覗いてみてください。
「俺はサプライズが好きだからな」と、手口を直前までトクタイ仲間にも明かさない野宮。毎回この調子で「こんな心臓に悪いサプライズ、よく考えつくな……」と思わずにはいられないトラウマ級の“お仕置き”を実行しまくる。そして相手が茫然自失した表情を見せれば見せるほど、野宮の瞳と笑顔はキラキラと輝く。その神経は、人でなし一歩手前かもしれない。でも、相手の心にクリティカルヒットを負わせる仕打ちを野宮が次々と思いつけるのは、相手のことを《警察組織の職員》である以前に、感情を持ち備えた《ひとりの人間》として、ちゃんと見ているからという気もしなくはない。現に組織防衛を第一として、書類の偽装を部下に強要していた上層部の不祥事を隠蔽しようとする監察官に対して「組織という“箱”の実体は 生身の人間の労働です」と野宮は言い放ったりもしている。
次々と描かれる警察職員による陰湿なトラブルは「こういうの、現実でも聞くよね……」とゲンナリさせられる内容ということもあってか、気づけば野宮が下す《正義の鉄槌》ならぬ《ゲスの鉄槌》が、たまらなく痛快に思えてくる『野宮警部補は許さない』。このところの理不尽さしか覚えないニュースや出来事にウンザリしている人が読んだら、フィクションだからこそ描ける野宮の突き抜けたゲスさによって、少しは心が軽くなるかもしれないです。
尚、作品を読んだことで刺激された「駆け引き上手になりたい欲」ですが、読めば読むほどに第1話で野宮が口にしていた「同じことをされる覚悟があるのか」という言葉が脳裏にちらつくようになり、「はいっ、覚悟ありません! 正直一遍のまんまでいいですっ!!」と、すっかりと鳴りを潜めました。あらゆる物事に対して覚悟を抱けず“逃げ”の姿勢ばかり取っているからこそ、うだつが上がらない人生になっているのは分かっちゃいるんですけど。
駆け引きスキル以前にコミュ力が自分には圧倒的に不足しているので、まずはそこから改善してみるべきかもしれないです。この連載にしては珍しくポジティブな言葉がでてきたので、今月はここまでにしておきます。最後に付け加えるとしたら、野宮には古生物好きという設定もあり、作中にはちょこちょこと古生物(のグッズや本)が登場するので、古生物クラスタの方は作品を読みつつ探してみると楽しいと思います。
梅雨空やら何やらに心がドンヨリとすることが多い日々ですが、時にはマンガや小説などの“物語”を通して英気を養ってみると精神衛生上よろしいかもしれません。それでは、また来月。
野宮警部補は許さないのマンガ情報・クチコミ
野宮警部補は許さない/宵田佳のマンガ情報・クチコミはマンバでチェック!2巻まで発売中。 (ノース・スターズ・ピクチャーズ )