私は自分の名前が嫌いだ
……いつもこうよ
名前呼ばれて
『どんな令嬢が』と勝手に想像されて
私が現れて失笑
ああ 親を憎む
姓は仕方ないとしても
せめて下の名前はもう少し地味にして欲しかった
西炯子『なかじまなかじま』は、こんなモノローグで幕を開ける。ヒロインの名前は「北白川麗奈」。たしかにすごくお嬢様っぽい名前だ(ニットのアンサンブルを着ていそう)。
前回取り上げた『圏外プリンセス』のヒロインも「美人」という名前のせいでずいぶん苦しんでいたが、麗奈もまた美しすぎる名前に苦しめられる女子である。地味な顔面に派手な名前をあてがわれることは、地味な顔面に地味な名前で生きていくよりもずっとずっと残酷であると、改めて思い知らされる。名前に込められた、重すぎる親の期待。自分が親になることがあったら、子の名付けには十分気をつけたいところだ。
少女マンガのブサイク女子たちの中で、麗奈がどのようなタイプかというと、「ズボラ系ブサイク」ということになるだろう。身長176㎝、5年切ってない髪(カラー・パーマしたことなし)、流行もへったくれもない服、クツ24.5㎝、ダサメガネ(コンタクトがこわい)、メイクしたことなし、常に多い荷物、ちなみに重度の高校陸上オタク。これが彼女の基本スペックである。美容という観念がないのでとにかくダサい(金と時間の多くはオタ活につぎ込まれる)。あと、すごくデカい。わたし個人はデカい女をかっこいいと思うが、彼氏よりデカい彼女なんてダメでしょ、みたいな風潮があるのもまた事実だ。高身長の女は、かわいさが足りない、ゆえにモテにくい。こうした忌まわしき「公式」が『なかじまなかじま』にも採用されている。身も蓋もない言い方をすれば、顔も体もブサイクなのが、麗奈なのだ。
「『暗いブス』/そこが私の指定席――/そこからはみ出そうとした瞬間/降りそそぐ『ブスのくせに』コール/だから私は自分の席からはみ出さない」と麗奈は語る。必要以上に叩かれないためには、ブサイクである自分をしっかりと自覚し、静かにしているのが一番。そう考える麗奈は、とにかく地味に、目立たないように生きる。うっかり入学してしまった大学が、良家の子女ばかり集まるブランド女子大というのも(おそらく学習院女子大学がモデル)、付け焼き刃的に努力したところで無駄だと思わせる状況をうまいこと作り出している。
しかし、そんな麗奈に転機が訪れる。あるとき、アルバイトで映画のエキストラをやることになった麗奈は、撮影現場で監督の「中島」と出会う。彼は、麗奈に向かって「暗いブス」「ドブス」と言い放つような、素直すぎるにもほどがある男なのだが、彼女に演技の才能があると気づいた瞬間、見事なまでの手のひら返しをする。
あんたみたいなブスをさがしてたんだ
あんたのブスっぷりいいよ!
探そうたってそうはいないぞ
ある意味…
ある意味俺のミューズ!
あまりにもブスブス言われるので、麗奈は監督を蹴り倒してしまうのだが、彼女のありのままを全肯定し、「女優になれ」と熱心に説得してくるこの男は、考えようによっては、完璧な「少女マンガの王子様」である。
しかし、磨けば光る原石だと言われるならまだしも、磨かずともすでに光っていると言ってくれる王子様をあっさり信用できるほどおめでたい麗奈ではない(ブサイクの卑屈さを舐めるなという話である)。だから彼女は中島から全力で逃げ回る。それだけでも大変なのに、同時期に、大好きな高校陸上の選手「中島」がバイト先に現れ、「ぼくもある意味/お姉さんのファンです」なんて言われて、麗奈の頭は大混乱。降って湧いたモテ期。どっちの男も中島。のちに発覚するがふたりは親子。このあたりは、少女マンガが見せてくれる甘い夢である。こんな三角関係、現実に起こったらヤバすぎて体がもたない。
実は、この作品には、もうひとり麗奈のありのままを全肯定する人物が登場する。麗奈と同じ大学に通う「桜沢かすみ」だ。「…あなたが昔どんなこと言われてたか想像がつくけど/それは過去のあなたへの評価でしょ/今のあなたは街を歩けばモデルにスカウトされるような人なのよ/いい気になれとは言わないけど自信を持っていいのよ」……そう語るかすみもまた、華やかすぎる名前を背負って生きるブサイク女子だ。目は細く、丸々と太っており、平安時代だったら激モテだけど、みたいな感じ。
つまり、この作品には、麗奈というデカいブサイクのほかに、かすみというデブのブサイクがいるのだ。かすみが素晴らしいのは、麗奈とブサイク同士つるもうとするんじゃなく、彼女のことを、客観的に観察し、その異様に低い自己評価を変えようと腐心するところ。かすみは、麗奈が女優になることで自分ひとりがブサイク女子枠に取り残されることを恐れない。とても気高く、そして優しい、最高の女だ。
中島監督からの執拗な出演オファー、息子から寄せられる淡い想い、そしてかすみからの的確なアドバイス。三方向からの力を得て、麗奈は少しずつ自分に対する見積もりを変更してゆくのだが、彼女がブサイク女子を脱出する最大のきっかけが「親からの呪い」であることは非常に興味深い。
彼女の両親は、安定した人生を娘に与えたいと思うあまり、「田舎で普通に暮らす」ことが一番だと言い切り、「東京で華やかなもん見て勘違いしたり/高望みしたりしちゃいかんよ?」とたしなめる。これが愛の言葉ではなく呪いの言葉なんだと気づいた麗奈は、ワンピースに着替え、メガネを外して、メイクをし、「これが私だ」と、自分で自分を全肯定するに至る(瞬時に美しくなれるあたり、やはりもともとの素材がよいのだな、羨ましい)。
彼女は、好きな人のためではなく、自由になるために変身することを選んだ。美しくなりたいから、美しくなったのではない。自由に生きたいから、強くなりたいから、美しくなったのだ。美は力なのだということを、麗奈の変身シーンははっきりと物語っている。
結局はブサイクが美人になって終わりかよ、という不満の声が聞こえてきそうだが、『なかじまなかじま』は、そこまで単純な物語ではない。それは、かすみのエピソードによく現れている。彼女はのちに、幼馴染みの男子とくっつくことになるのだが、彼女は外見になにひとつ手を加えることなく男から愛されている(むしろもっと太っていいと言われている)。さっきも書いたが、ブサイク&デブであることなんかどうでもよくなるくらい、かすみは気高い。ひとりの時間を愛し、孤独を受け入れるかすみの気高さは、表面的な美醜よりも魅力的なものだ。
こうした価値観は、中島監督の言葉にも表れている。「媚びるな/そしておもねるな/お前の魅力は/俺がわかっている/そしてそれで十分だ」……ここから受け取れるメッセージは、「気高くあれ」に違いない。その証拠に監督は、コミュ力抜群で、かわいくて、気高さの逆を行くようなお嬢様女子大生「竹松」からわかりやすくモテているが、バッサリ切り捨てている。人と群れないこと、自分だけの世界があること。それが本作における「美しさの素」なのである。
だから麗奈も、最終的に女優をやることにはなるものの、今まで通りの地味な格好で陸上選手を応援しに行ったり、バイトをやったりしている。ずっと美しくしていなきゃいけないなんて、みじんも思っていない。
さなぎが蝶になりました、かと思いきや、案外そうでもないのが『なかじまなかじま』なのだ。美貌を絶対的な価値とせず、さなぎと蝶を行ったり来たりしながら生きるのは、ずっと蝶のままでいるより、よほどカラフルで楽しそうである。
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