大学でマンガに関する講義をやると、必ずといっていいほど訊かれることがある。
「なぜ少女マンガのヒロインにはブサイクがいないのですか?」
「仮にブサイクという設定でもブサイクに描かれていないのはなぜですか?」
これは素朴でありながら、かなり難しい問いである。いまだかつて、この問いにズバッと答えられた人はいるのだろうか(わたしはいつもゴニョゴニョ言ってごまかしている)。
顔面偏差値があまり高くない女子と超絶イケメンがくっつく、という「顔面格差カップルの誕生」が少女マンガ的ハッピーエンドであるならば、ヒロインの顔はかわいくなくてよいはずだ(理屈の上では)。しかし、多くの少女マンガにおいて、地味&ブサイクなヒロインには何らかの「手心」が加えられている。
でも、その「手心の加え方」は、決して一様ではない。古典的なところでは、メガネを外したら美人になったとか、恋の力で自然ときれいになったとかいうのがあるが、どのような手心を選択するかには、作者の信念が反映されていると思う。いや、ひょっとしたらそれは、作者個人の信念だけでなく、その時代の価値観を反映しているのかも……まあ、現時点ではぼんやりそう思っているだけで、まだ確信はない。だから探ってみたい。
というわけで本連載では、さまざまな作品を横断しながら、少女マンガと美醜の問題について考えていく。
人はみな平等である
なんて…大ウソだ。
美人は多くの場面で得をし、ブサイクは損をする。悔しいことに、これは逃れられない事実である―――。
という言葉から第1話が始まっていることからもわかるように、この作品のメインテーマはどうかんがえても「女の子の美醜」である。
ヒロインの名前は「目黒美人」。美人と書いて「みと」と読む。が、ぜんぜん美人ではない。写実的に表現された美人の顔、結構すごい。少女マンガのヒロインにブスはいない説をいきなり覆す顔面である。
しかし、作者はこの程度のブサイクではリアリティがないと判断したのか、美人に更なる追い打ちを掛けている。陰毛のようなアホ毛、何をどうしても左へ向きたいらしい髪のクセ、ブツブツのある二の腕、骨太の身体、左手の薬指のサイズは15号……といった残念要素を全身にちりばめているのだ。巧いなあと思うのは、二の腕がブツブツという設定。思春期のニキビとかもそうだが、肌の汚さは、女の子から自信を奪う格好の材料なんだよな。ものすごい美人でも「でも肌汚いじゃん」とか言われて降格させられることあるしな。
そんな美人は、中学3年生にして「名前負け」という地獄を生きている。が、「国松くん」という男子生徒と出会ったことで気持ちに変化が。国松くんは、見た目こそクール系イケメンだが、おばあちゃんっ子で、ちょっと天然。曲がったことが大嫌いな彼は、美人のことをからかったりしないし、むしろいじめっ子から美人のことを守ってくれる、心優しきヒーローだ。
ブサイクでも恋がしたい!!
自分に自信が欲しい!!
女として見られたい!!
好きな人に好きになってほしい!!
こんな自分を卒業したい!!!!
国松くんへの想いを自覚した美人は、こう叫んだ。注目してほしいのは「ブサイクでも恋がしたい!!」の部分だ。美人は、ブサイクから逃げるのではなく、ブサイクな自分を引き受けた上で、国松くんに好かれようとしている。彼女はやがて、鏡で自分の顔をしっかり見るようになり、眉毛を整えたり、ファッション誌を読んだりするようになるのだが、それは日々自分の欠点と向き合うことだ。つまりキツい。それだけでも、かなり大変な修行だと思うが、きれいになろうとがんばった結果、乙女ゲー仲間の「丸ちゃん」に裏切り者呼ばわりされるなど、修行のキツさは別のところにも飛び火している。
それでも美人は決して諦めることなく、地道に努力を積み重ねていく。彼女がラッキーだったのは、絶対評価(綾瀬はるかみたいな顔になれないなら意味ない、みたいな)ではなく、相対評価(当社比でかわいくなってればOK、みたいな)で考えられる子だったこと。「あたしみたいなブサイクでも…/こんな風に変わることができるんだね――――」……美人は自分のことをあくまで「伸び率」で評価する。そして、最終的にダイエットと、縮毛矯正と、二重のりで夜通しまぶたにクセをつけることと、コンシーラーによる顔の赤み消しとで、高校入学時には地味女子の陰を消すことに成功。超美人ではないため、ついつい道化を演じてしまうといった問題点はあるものの、高校デビューはひとまず成功したと言っていいだろう。
ところで、高校編には美人のほかにもうひとり顔面に難を抱える女子が登場する。合コンが大好きな「ゆあ」は「ふつうにしていると、鼻の穴が目立つため、極力目立たないように鼻毛を全部抜いているという、涙ぐましい努力と、一般より低い身長が味方をし、欠点をみごとカバーすることに成功」と説明されるように、自身の鼻の穴問題を努力で克服し、顔面偏差値65を叩きだす女子として描かれている。美人の場合と同じで、そもそもの素材がどうなのかはあまり関係がなく、そこからの伸び率が評価対象になっているのがわかる。
つまり本作における美醜の価値基準とは、非常に単純化していうなら「盛れてればよい」というものであり、天然の美を礼賛するものではないのである。その証拠に、美人が国松くんの次に好きになる「森園彼方」は「こいつは決して美人じゃないけど/他人の悪口言って喜ぶようなゲスいことは絶対しない。/俺にはあんたらよりずっと魅力的に見えるよ」と言っている。これはいくら美しくても性格ブスだったらアウト、という意味だ。「こいつは決して美人じゃないけど」とか言ってやるなよとは思うが、「ありのままの君が好きだよ」みたいな嘘くさい台詞よりは、はるかに信じられる。
『圏外プリンセス』は、圏外女子だったヒロインがプリンセスになる話だが、プリンセスになれたとしても、圏外だったことが「なかったこと」として語られるのではなく、圏外だろうがなんだろうが盛れてりゃいいじゃないか、の精神で進んでいく話である。ついでに言うと、現代のプリンセスには、魔法使いやかぼちゃの馬車のような劇的なアイテムは必要ないようだ。それよりも、信頼できる友だちのアドバイスとか、ファッション誌の方が大事。あとはブサ顔を見ても引かない王子様がいれば完璧だ。いまどきのプリンセスは、現実的というか、すごくコスパがいい。
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