コンプレックスと憧れが恋になる瞬間を描く『善次くんお借りします』

人が出会ってひかれあうことで恋愛感情が生まれ、恋が始まります。どのような人のどこに惹かれるかはまさに千差万別で、感情の動きの数だけ生まれるのが恋愛物語。その中で、玉川しぇんな先生の『善次くんお借りします』(白泉社)は、コンプレックスと憧れという複雑に絡み合った感情が恋になる瞬間を描いた傑作です。

 

物語は、野球好きのおじいさんと2人暮らしの高校生・後藤善次と、野球部のエース・花岡清行が接点を持つところから始まります。クラスで授業中の花岡の居眠り姿を見守るのがひそかな楽しみだった善次が、メディア嫌いの花岡に校内新聞のインタビュー担当者として指名されたことから関わり合いが増えていきます。見守るだけだった相手との関わり合いが始まるタイミングの作り方、そしてそこから相手の知らない顔を知り、恋愛感情がお互いに向いていく過程が本当に丁寧に描かれます。

2人の恋の行く先を見守っている読者としては心の声からお互いが恋愛の意味でひかれつつあることがわかりますが、当然2人にはわからず。その過程はやきもきしつつも、思わず応援したくなります。この感情は、2人が相手の感情が自分に向いているとわかったとき、または拒否されたような気がしてがっかりしたときと、感情が変わるときに描かれる善次と花岡の表情で一段と高まります。

2人の恋がすんなりと進まないのは、善次が抱えるコンプレックスにあります。両親を亡くしおじいさんと暮らす善次は、おじいさんから父親ではなく母親に似たことで「野球をさせたかったのにできなかった」とを聞かされ続けました。(余談ですが、慕う相手のおじいさんからあきらめ続けられていた善次の心情はつらすぎて想像できません。花岡がおじいさんに直接「それはダメですよ」というシーンにはほっとしました)

代わりに学校の勉強などには熱心になりますが、自分が父親のようおじいさんの期待に応えられないことがコンプレックス。しかも花岡は野球に向いた体格にエースと父親に似ている。善次は花岡の中に自分が決してなれない父親を見ていることが示唆されます。劣等感が刺激されながらも恋愛感情が膨らんでいくのは止められない。その善次の感情が花岡に通じたときの幸福感は、紙面を通じて読者にも伝わってきます。

一方の花岡。かつて「記者に暴言を吐いた」とメディアで取り上げられ、クラスになじもうとしなかった花岡にとっても善次はそんな態度を取る自分を白い目で見ない貴重な存在。野球が好きで始めたわけではないことも含めて、正直に心情を吐露できる相手にもなります。

善次と花岡に共通するのは、自分の培ってきたものに基づいて収まるところに居場所を作りつつも、その居場所に違和感を持っていること。もしかしたらその居場所を放棄するかもしれなかったときの出会いが心のわだかまりを解きほぐして、お互いの存在がその場所に居続けるための錨になっているように描かれます。恋愛や恋人を作ることは、決して居場所を作るために不可欠なものではありませんが、善次と花岡にとっては今の居場所を大切だと考えるきっかけになったのだと思います。

物語の途中、善次との将来まで考える花岡はメジャーリーグにいって、結婚することまで想定しています。善次のほうは母親に似ているというコンプレックスもあり花岡にひかれる自分に戸惑いますが、花岡のほうは善次にひかれることを素直に受け入れます。そこにはかつての一部のBL作品で描かれていた男性同士の恋愛を敬遠する姿はありません。「恋愛も結婚も男女の間に限ったものではない」という考えが一段と広まる中で、BLでこうした描写がもっとさらりと出てきてほしいと思います。

なお、「もう少し二人の先行きをみたい」と考えていたところ、出版社より11月から「花丸漫画」の月刊化と同時に、続編『続・善次くんお借りします』が掲載されるというお知らせが。もう少し2人の恋物語にお付き合いしたいです。

「花丸漫画」vol.40 表紙:玉川しぇんな

 

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