少なくとも週刊少年マガジンに掲載された部分の『凄ノ王』は、永井豪が持つ世界に比類なき「パワー」の最高到達地点を示す、問答無用の素晴らしさだ。ある意味で、『あばしり一家』も『デビルマン』も『バイオレンスジャック』も凌駕しているのではないか。いや、全部大好きなんですけどね。
それにしても、例の「馬のシーン」のもの凄さよ。
何度も繰り返したいけど、例の「馬のシーン」を、まさに「中二」な当然童貞の十代半ばに読んでしまった自分の衝撃を、どう表現すれば今の読者に伝えられるのか、まったく分からない。
大ショックな「ススムちゃん」や「逆さ吊り美樹ママ」も既に読んではいましたが、やっぱりね、リアルタイムの連載でアレを見せられるとね、とんでもないですよ。
あと、首吊りシーンとか今考えてもどうかしてる。
そして、主人公が異形化していくプロセスと平行して描かれる「宇宙空間を地球へと襲来せんとする八岐大蛇」!(『ベルセルク』の「蝕」は、絶対これへのオマージュだと思うんだけど)
このシーンが週刊少年マガジンに連載されていた時、ちょうど週刊少年ジャンプでは寺沢武一『コブラ』の「黒竜王」編が連載されていたのです(このエピソードのクライマックスのイメージは、素晴らしく圧倒的)。
こんなものを毎週毎週出る雑誌で読めていたなんて、当時のガキはなんと贅沢な漫画体験をしていたのかと、陶然としてしまう。
しかし、つくづく永井豪の「パワー」はリビドーのパワーだと思う。
こんなクチコミで心理学用語を生半可に使うのもどうかと思うけど、フロイトが性的衝動として定義し、ユングが根源的な生命エネルギーとして再解釈した、あのリビドー。
その本質的な暴力性が剥き出しになって読むものに襲いかかってくるのが、永井豪のパワーなのだ。
そこから逃れられるものはいない。
小説や映画や漫画、物語に淫するというのは、そうした無慈悲なパワーに翻弄され引きずり回されて、心がグチャグチャになる…ということでもあるのだ。
いろいろ「未完」だとかは、この際どうでもいい。
こんな巨大なパワーの奔流に、納得できる「結末」なんてつくわけないじゃないか。
(敢えて挙げると、『手天童子』はラストシーンまでの結構が整った名作です。もちろん大好きなんですが、ちゃんと収まってる分だけ少し弱いかもなあ)
とにかく、「最高潮の永井豪」から逃れられる人間なんて、どこにもいないんですよ!