幸色のワンルーム

テレビドラマ放送自粛のニュースを見て違和感を持った件について

幸色のワンルーム はくり
mampuku
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 両親に虐待を受けた家出少女がストーカー男の部屋に匿われる話。少女にとってそれは偶然降ってわいた僥倖であり、壊れやすい薄氷の上に成り立つ「現実逃避」とわかっているから本音を隠して「お兄さん」に嫌われないように振舞う。お兄さんはそんな少女の気遣いを見て見ぬふりをする。二人の老成したやりとりを見て色々気づかされたり、癒されたりしながら、時々感動、時々ニヤニヤほっこりできる漫画だ。  「幸色のワンルーム」を読んでわりと好意的な感想を抱いた私としては、作品を批判して自粛に追い込んだ人たちはあらすじや作品紹介を一瞥しただけで反射的に批判しているのではないかと勘ぐってしまう。あるいは読解力の欠如によって「犯罪行為を肯定的に描いている」という作品の上っ面しか見えていないのではないか。そうだとしたらその人たちはフィクションを楽しむ才能がなく、不幸だと思う。 http://wezz-y.com/archives/55862  例えばこの記事では、誘拐された少女・幸を「これでもかというくらいにどこまでも哀れで孤独で無垢な美少女として設定されている」とした上で、二人のキャラクターを「性的搾取したい男性にとって都合のいいキャラクター」「孤独を抱える少女にとって都合のいいキャラクター」と切り捨てている。  だが、作者がどのような意図でキャラクター設定したのかはさておき、作品を読む限り彼女らは自らの意志と思考による判断によって動いているように見える。幸は決してお兄さんの言いなりではないし、彼女らは自分たちの身勝手を自覚している。誘拐したほうとされたほう、両者の心情や思考やコミュニケーションをぼかすことなく余すところなく一切の逃げを打たずに描写しているから、ただ単に変わったシチュエーションでの萌えるカップリング──吊り橋の上での恋愛を描きたいだけのポルノではないことはちゃんと読めば明らかだ。(そういう側面がないとは言わないし、それらもひっくるめて「都合がいい」と言われてしまえば何も言えないし、そういう人は都合の悪い話やノンフィクションばかり読んでいればいいと思う。エンタメは都合がいいから面白い。)  もう一つ議論の争点としてあるのが、この作品が発表された時期的に実際に起こったある事件に寄せて描かれたテーマであることは容易に想像がつくということだ。発表された作品が作られた背景にどんな経緯やら思想やらがあったかによって作品自体が断罪されてしまうことの是非が問われている、と言い換えてもいい。ただ「幸色」が単なる当て擦りで描かれたと受け取るか問題提起と受け取るかは読者の印象次第なのではないかなと思わなくもないし、後者なら「犯罪者を肯定する都合のいいポルノ」という批判自体が的外れなものになる。  最後に、エンターテインメントか社会派かという一次元的なものの捉え方が私は嫌いなので、こういう可愛い絵柄の漫画が萌え漫画の文法を用いて重いテーマを扱っても全く問題ないと考えている。「もっと社会派っぽい漫画だったら自粛にはならなかった」という意見をネットで目にする中、確かにそれはそうかもしれないが、同時にとても残念なことだと思う。

映像研には手を出すな!

作者は漫画界のウォルト・ディズニーだ

映像研には手を出すな! 大童澄瞳
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)

女子高生3人が高校入学後に出会い、自分たちが思い描く「最強の世界」をアニメーションで実現すべく映像研を作って猛進する! この漫画は、プロの仕業だな感とどこか素敵な隙のある素人感を合わせもっているのがとてもいい。 というのは、この漫画は細部まで設定が凝られてるから読み応えがあって素直に言って最高なんだけど、実は漫画単体では完成していなくて、読者がいてそれを受け止められて初めて立体的にこの世界の存在が立ち上がってくる感じを体感できる。 この漫画を読んでいると、読んでいる自分も映像研の活動に参加している気分になってくるし、その気分になれて初めて合格をいただけてるような気持ちになる。 この世界では僕たちはただの傍観者にはなれない。 どれだけ読者自身を作品に巻き込んでくれるか、という点において突き抜けているものがある。 特に、彼女らの妄想が、イメージが、恐ろしいほどスムーズにシームレスに現実を侵食してくるその快感たるや! その自由な想像力こそが彼女らの遊び場であり友達だったのだと伝わってくる。 誰だって計画段階、準備段階が一番楽しくて本番や完成品になるとあれ?こんなんだっけ?のやつは経験したことがあると思う。 それはイメージと完成品に誤差があるからだ。 作っていくうちに様々な要因で思い描いていたものからいたものから離れていってしまうことはよくある。 この映像研では、それが妄想・イメージした瞬間に即その場に疑似的に出現しイメージを全員で五感で共有できてその世界にどっぷり浸っている、もしくは少なくともそう見えるほどには深い部分で全員が共有できているのだ。 こんなに幸せなことはない。 読者はその幸せをおすそ分けされている。 嬉しいのは、その世界を強化してくれるポイントが作者のこだわりによっていくつもあることだ。 例えば吹き出し一つとっても、セリフの文字に角度、パースがついていることで空間の立体感、キャラの実在感が目に見えてくるし、そのセリフの吹き出しのレイヤー上に人物が重なってセリフを見えなくすることで実際にセリフの音を妨げている感が視覚的に分かるような演出が素晴らしい。 デジタルで描かれているいい点として奥行の演出のための背景のぼかしがあったりする。 とにかく作者はこの世界の独裁者として細部に至るまで思う存分こだわりという名の権力を振るっているので、完璧に作り上げらえた世界であるディズニーランドと根本的に変わりはないのだ。 あとはそのディズニーランドに僕たち読者が遊びに行って参加し楽しむことで初めて完成される。 客がいないディズニーランドはディズニーランドではない、ただの土地だ。 3巻を読み終わって、次はこの世界にまたいつ遊びにいこうかなという気分でワクワクしている。 十年後、二十年後にこの作者が描く漫画がどこまで進化しているのか、どこまで成熟しているのか楽しみでならない。

シュート! ~新たなる伝説~

W杯なのでサッカー漫画史上屈指の名作を

シュート! ~新たなる伝説~ 大島司
mampuku
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 キャプテン翼と双璧を成す少年誌サッカー漫画の金字塔『シュート!』シリーズの最終章です。  これまで久保嘉晴や田仲俊彦を中心とした静岡の掛川高校が高校サッカーの頂点を目指すストーリーが描かれてきたが、ここへきて掛川のライバルとして神奈川県の久里浜高校と、もう一人の主人公・伊東宏が登場する。  突然の主役交代に面食らった読者も多かったと思われます(当初は結構賛否両論だった気がします…)しかしながら少年誌らしい真似したくなるようなダイナミックな試合描写だけでなく、現在でいうポジショナルプレーにも似た戦術論、デュエルの重要性、インテンシティの高い試合、身体的ハンディキャップにたいする理解の先進性、などなど15年以上前の漫画とはいえ今なおトップクラスに面白いと思える名作であることは間違いありません。  現代サッカー漫画との大きな違いは、Jリーグ発足前から続くシリーズだから仕方ない面もあるかもしれませんが、クラブユースの存在が全く無視されている点でしょうか。(※ただしこれはシュート!に限らずDAYSやエリアの騎士でも同様の傾向が。マガジン?樹林?)  現在の日本代表の攻撃陣は、香川・武藤はクラブユース出身、乾・岡崎は高校サッカーですね。ユース内での競争を描いた「アオアシ」、高円宮杯でクラブチームとの死闘を演じる「BeBlues」、ACミランの下部組織から昇格を目指す「ファンタジスタ」、ジュニアユース時代のライバルと天皇杯で激突する「フットボールネーション」…今や10代のサッカーを描くのに避けては通れないクラブユースをちゃんと絡めて描いて、且つマガジンらしい熱いサッカー漫画が読んでみたいですね。

うつヌケ

ムーピーのような

うつヌケ 田中圭一
影絵が趣味
影絵が趣味

手塚治虫キャラを使ったパロディギャグ漫画で世に出た田中圭一が手塚治虫文化賞を受賞してしまったという皮肉はひとまず置いておいて、それどころか、この『うつヌケ』という漫画の主題である鬱という病気のこともひとまず置いておきたいと思います。 というのは、この漫画が単なる鬱病のひとの処方箋となるべく手に取ってもらいたい本という以上に、もっと普遍的に感動的なストーリー漫画であるからだと思うからです。ストーリー漫画というのは、手塚治虫いらい数々の漫画家によって描かれ、無数の大人子供を熱中させてきた、あのストーリー漫画に他なりません。 この漫画は単なる病気への処置を促す書物という以上に、もっと肯定的で出鱈目なパワーに満ち溢れた感動的なストーリー漫画であると思うのです。田中圭一のストーリー漫画としての資質は前作の漫画家2世をインタビューする『ペンと箸』のときからすでにあらわれていたと思います、あの連載に涙したひとは少なくないのではないでしょうか。そして今作、あの忌々しい鬱という病気が、手塚治虫の『火の鳥』にでてくるムーピーを彷彿とさせるキャラとして描かれている。しかも、それぞれの短編の主人公が鬱を抜けるとき、あの丸っこいキャラとして描かれた鬱なるものを抱いたり突いたりして愛ででやるのです。そのときどきに、鬱でもないじぶんもつい目頭が熱くなってしまうのです。