少女マンガにとってブサイク女子とはなんなのかを考え続け、気づいたら2年の歳月が経っていた。けっこう長い。
これまで紹介してきた作品は全部で26。連載を開始したばかりの頃は、すぐにネタ切れしてしまうのではないかと思っていたが、その心配はなかった。また、仮に作品が見つかっても、似たり寄ったりのストーリーだったら意味ないなあとも思っていたが、完全に杞憂だった。少女マンガが描く美醜の問題系には、奥行きと広がり、つまり、多様性がある。
ただ、多様性があると言いながらも、ある種の「傾向」は存在する。作品中で美醜の問題が深刻化する場合、登場人物たちは思春期以降の年齢であることが多い。大人の入り口に立っているか、すでに大人であるか、そのどちらかであることが多いのだ。この世には美醜というものが存在しており、それによって自分がジャッジされ、ときに人生が大きく変わる——といった「大人界の不文律」を登場人物たちがきちんと理解しているからこそ、美醜モノは成立する。
逆に言えば、社会的に馴致されきっていない子どもたちが、この不文律を理解するかは未知数だ。子どもゆえ軽く受け止めるかもしれないし、子どもゆえ苛烈さを増すかもしれない。あるいは、もっと別の反応があるかも。それが「子ども×美醜」のおもしろいところと言えるかもしれない。
そのことを考えるため、今回は久保キリコ『シニカル・ヒステリー・アワー』を取り上げたい。
本作は小学生の日常を描いたコメディで、のっけから美醜の話が出てくる。第1話で、主人公格の「キリコ」ちゃんと「ツネコ」ちゃんが昔の写真を見ながら、お互いをけなし合うのだ。
ツ「あ/ねえねえ見て/シーちゃんて昔は丸顔だったんだね」
キ「あほんとだ/ツン太君もヘアスタイルがちょっと違う」
ツ「ぎょわはは/おっかしー」
キ「そーいうツネコちゃんだって昔の方が顔が長い/かわいくなーい」
ツ「むっ/そーいうキリコちゃんだって/人のことゆえるのっ」
ツ「ひえええ」
ツ「私たち…変わったわよね」
キ「うん/当時に比べて数段…いや数倍は美しく成長したと思う」
ツ&キ「そうよね」
子どもは成長する生き物だから見た目も変わるよね、という話をしたいのかと思いきや、ちょっと違う。ここに出てくる「昔の写真」とは、作者の久保キリコが過去に描いたふたりのカットであり、彼女たちの成長は、久保の画力の変遷と重ねられているのである。
回を追うごとに、作者の手が慣れていくことで、やや心許なかった線が確信を持った線になり、キャラが垢抜けていく。この現象は「マンガあるある」のひとつだと思うが、キリコちゃんたちは、それを自ら作中に持ち込み、「美醜とは属人的なものである」という見方をぶち壊してみせる。この時点で、美醜の捉え方が凡百の少女マンガとは違っている。すごい。
ちなみに、第一話は、もっとも古い時期に描かれた自分たちを見たふたりが「すっごいブス」と言い放つシーンで終わっている。すでに確認した通り、彼女たちがブサイクなのは作画のせいなので、ブサイク宣言もまたカラッと明るいものになっている。ブサイク女子マンガお得意の「私なんてどうせ」が全くない。
この開き直りにも近い明るさは、第2話以降も順調にキープされていく。例えばツネコちゃんは、ブサイクキャラとして描かれているにもかかわらず、自分をお姫様扱いするよう周囲に強要しまくっている。妙に面長で、キツネ目で、度を超したワガママ娘で、優雅なお姫様とは似ても似つかないが、そんなこと知ったこっちゃないとばかりにツネコちゃんは己のお姫様道を突き進んでいくのだ。
一方、どう見てもお姫様キャラである「のの」ちゃんが、そこまでチヤホヤされもせず、気の弱い女の子として描かれているのも興味深い。彼女は、街でモデルにスカウトされてもすぐやめてしまう。目立つことが苦手で、自宅で赤ちゃんのお世話をする方がよっぽど性に合っているようだ。
ここに大人界の不文律が介入すれば、気の強すぎるブサイク女子であるツネコちゃんは「勘違いするな!」と教室の隅に追いやられるだろうし、ののちゃんはどんなに根暗のインドア派でも、芸能界に引きずり出される。しかし、ここはあくまで子どもの世界だ。自分の美醜を客観的に判断し、それに合わせた人生を歩む必要はない。つまり、大人の不文律なんてシカトである。
このように、『シニカル』はブサイクがブサイクらしく、美人が美人らしく振る舞う必要がない世界を描いている。が、思い起こしてみれば、わたし自身もある程度大きくなるまで、男でも女でも美人でもブスでもない、ただの子どもだったことがあるような気がする。自分を客観視して、身の程をわきまえたりしなくてもよかった時代があったような。というか実際、小学1年生の私は学芸会で桃太郎をやる自分になんの疑問も抱いていなかった。お姫様になれると思っているツネコちゃんと同じで、女だろうと余裕で桃太郎になれると思っていた(根拠なき自信)。『シニカル』を読んでいると、そんな無敵時代を思い出す。
人生の無敵時代はとても短い。人によっては、赤ちゃん時代で終わってしまう場合もある。ツネコちゃんのように、とことんふてぶてしいブサイク女子でいられるのは、ある意味とても幸福なことなのだ(それゆえ、歌手になりたいのに言い出せずにいる、謙虚な学級委員長「シー」ちゃんがとても不憫に見える。いいんだよ、もっと欲望をダダ漏れさせても!)。本作を読んでいて、ツネコちゃんのワガママに心底ムカついても、なんだかんだで許せてしまうのは、彼女がいかに幸福な女の子かを知っているからなのかもしれない。
——この論考をもって、本連載は終了となります。これまでお付き合いいただいたみなさま、本当にありがとうございました。今後、書き下ろしなどを加えて、一冊の本にまとめる予定です(まだ取り上げたい作品があるんですよ)。完成まで少々お時間いただきますが、何卒よろしくお願い致します!