4ページ目の端っこに「大人のみきおも、1989年に来ていた」となっていますので、そういうことだと思います。唐突ですけど。
燃やしているのはもしかして、あのノートなんでしょうか。この時間にはもういりませんし、もう一度1月に戻り直すつもりもないんだと思います。

殺人犯の息子が事件の真相を辿るクライムサスペンス にコメントする

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なおなお
1年以上前
作品のテーマが強調される回となった。 「存在の意味を問う物語」。 タイトルバックは物凄く哲学的な問いかけだけど、タイムスリップした人間にとっては他人事とは言えないだろうと思う。 冒頭これを大人、子供のふたりのみきおがやり取りする。彼もまた「1989年に来ていた」ことが明らかになると共に、(現代でもつぶやいていたが)彼らもまたそれを意識しているのは興味深いといえる。 佐野文吾もまた「もしこの事件を止めたら…心さんは」「別人になる?」というのは、同じ種類の疑問、不安だと思う。みきおが「面白い」と言っていたのとは対照的にこちらは「きっと上手くいく…絶対に」と言いつつ不安感を隠していない。家族が行方不明のなか、事件阻止に向かいつつのこの不安、物凄く共感できると思う。 我々もまたどういう結末が用意されているのか、不安ながら注目したい。 事件に向けて、佐野は「駅に来る加藤を…確保」、心は不審物、とボディーチェック、最終的には火災報知器を使って「お泊まり会を中心に持っていこう」という作戦。さつきにもチェックがいく。ただ本当に札幌にいて予告していた列車で来るのか、は疑問。警備を分散させたい狙いなら心ひとりに負担がかかる。 一方最後のページで和子が拉致されていることが明らかになった。明音の時のことがフラッシュバックしてしまう。同じ場所なんだろうか。お腹の子はとりあえず無事のよう。みきおの仕業の場合、もしかしたら交渉の材料に使って駆け引きしてくるかもしれない。ならば今現在生きているのは納得できる(一時はナイフを持って家まで来たので)。 鈴たちがどうなっているのかは不明のまま。ネーミングが「未来男」であるみきおに対してイソップの「猫に鈴」の鈴のように思えるので、これからの展開にもキーパーソンとしての活躍を期待したい。 「次号、罠にはまるのは誰か」は、とりあえずこちらがまず窮地に立たされるように思える。もう音臼事件を巡る攻防がすでに始まっていることを実感させられる。手に汗握りながら期待して待ちたい。

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なおなお
1年以上前
作者の東元さんも、ここで意見を交わしたすべての方々もお疲れ様、そしてありがとうございました! 今回はエピローグ回として、佐野家のみんながそろって仲良くしているのがやはりなによりもうれしいです。今回登場の心は我々の知っている心ではないので、「良かったね」は父の佐野文吾に言いたい。この微妙な違和感が心に関する「テセウスの船」なんだろうなと思うし、であれば心が89年で亡くなることは予定通りなのかもしれないです。もちろん「僕だけがいない街」のように、ドラマ版は違うエンディングというのもアリだと思います。 映画で言えば今回は主題歌がエンディングのテロップと一緒に流れる中でのストーリーのようなイメージを感じました。そして最後の最後、ご指摘のとおり、まるでホラー映画のエンディングのような終わり方になりました。 毎回現代で登場する週刊誌によればみきおは「都内某所」にいるようです。そして最後のページでは「さっぽろテレビ塔」のそばにいます。しかも佐野家の直前に描かれたテレビ塔は微妙に景色が違うように思うので、塔からみた方角は違うものの結構近くにいるし、一体何をする気だ?という気分になりますね。週刊誌の質問にもちゃんと答えてませんし。 単行本の6巻だったでしょうか、ほとんど9話で収まっているなか、10話押し込んだのがありました。もしかしたらこの頃に残りの話数でどう締めくくるか決められていたのかもしれないです。 「もう少し掘り下げて欲しかった登場人物」、同感ですし、はっきり言って心と文吾とみきお以外は、特定の活躍回以外はモブキャラに見えてしまいますし、ドラマ化の際にこれは課題だと思います。できればあまりいじくって欲しくはないです。 木村さつきは生きていたら、結局出所したみきおの面倒を見ようとするかもしれないので、可哀想ですがいなくて良かったのかもしれないです。 鈴は整形してないこっちのほうがやっぱりいいです。ただ眉毛を剃ったのはちょっとだけ残念です。 最後に、佐野文吾「クソ父」が書いたタイムカプセルのメッセージ、事実上これが作者からの作品を通じたメッセージだと思うので、重く受け止めたいと思います。この回の心は「は?」でしたが。。 本当に皆さんありがとうございました!
テセウスの船

どちらかというと『テセウスの船』というより『動的平衡』じゃない?

テセウスの船 東元俊也 東元俊哉
mampuku
mampuku

時間遡行をして人生をやり直したとしたら、それは本当に同一の自分といえるのか?という問いを有名なパラドックス「テセウスの船」になぞらえたタイトルだ。 ストーリーに関しては論理的整合性や感情的整合性においてやや粗い部分も感じられたもののサスペンスとして緊張感もあり、ラストは新海誠監督『君の名は。』のような美しい締め方だったし概ね面白かった。 ただ、タイトル『テセウスの船』がイマイチストーリーにハマっていない感じがした。 どちらかといえば「動的平衡」のほうが比喩としてしっくりくるのではないだろうか。 「動的平衡」とはシェーンハイマーの提唱した概念であり、日本では福岡伸一氏による著書『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』で有名になった言葉である。“生命”とは、取り込まれ代謝されていく物質、生まれ変わり続ける細胞どうしの相互作用によって現れる“現象”である、という考え方だ。 主人公の田村心は生まれる前の過去に遡り、そこで巻き起こる惨劇を阻止することで、その惨劇により自身に降りかかった不幸な運命を変えようと奮闘する。作品では、過去を改変して自らの人生を曲げようとする一連の試みをテセウスの船にたとえているが、やはりピンとこない。作中、田村心は殺人事件を未然に防ぐため凶器となった薬物を隠したり被害者に避難を呼びかけたりするが、その影響で心の知る未来とは異なる人物が命を落としたり、結果的に大量殺人を防げなかったばかりか予想だにしなかった事態を招くことになる。 この予測不可能性こそがまさに動的平衡そのものって感じなのだ。生命体は、船の部品のように壊れた部分を取り替えれば前と変わらず機能する、ということにはならない。ある重要なホルモンの分泌に作用する細胞を、遺伝子操作によってあらかじめ削除してしまったとしても、ほかの細胞がそのポジションを埋めることがある。これは心が殺人事件の阻止に何度も失敗したことに似ている。思わぬ不運や予想しない死者が出てしまったのも、脚のツボを押すと胃腸の働きが改善するなどの神経細胞の複雑さに似ている。 船は組み立てて積み上げれば完成するが、生命は時間という大きな流れの中で分子同士が複雑に相互作用しあうことで初めて現象する。『テセウスの船』での田村心の試みは人生あるいは歴史という動的平衡に翻弄されながらも抗う物語だったのかもしれない。

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