あひるの空

昨今のきれいごと主義に一石を投じる刹那的青春ドラマ

あひるの空 日向武史
mampuku
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 スラムダンク以後のバスケットボール漫画で最高傑作はと聞かれたら、未完ではあるものの多くの人がこの作品を挙げると思います。バスケットボールという競技だけでなく、青春を、人生を、人生で最も濃密で輝きに満ちた三年間をテーマに描き、その意味を50巻以上にわたる長い物語の中で常に問い続け、キャラクターたちは思い悩み抜いた先に彼らの信じた道をひた走っていきます。そしてその道は永遠につづいていくものでは必ずしもなく、明日には終わってしまうかもしれない、という刹那性こそがこの作品の裏のテーマであることは間違いないと思われます。  ちなみに表のテーマは挫折や逆境からの再生みたいな感じでしょうか。低身長で馬鹿にされ活躍の場が得られなかった主人公が、正確無比の3Pシュートを武器に、不良や虚弱体質といった「逆境仲間」とともに下馬評を覆しライバルたちをなぎ倒していく…のがまぁ普通のスポーツ漫画だと思うんですが(そういうカタルシスが無いわけではないですが)挫折や苦悩、恋慕、失恋、嫉妬、確執…などなど、ジ○ンプではとてもとても味わえないようなビター&スパイスたっぷりなところが「あひるの空」の心揺さぶられるところなんですね。  作者があとがきで語っていますが、以前にも何度か映像化のオファーがあったもののそのいずれも「空(主人公)がNBAの舞台に…!」というラストを提案されたそうで、そのたび作者は「あひるの空という作品をわかってもらえていない」と落胆したそうです。  主人公の空を含め九頭竜高校メンバーは多分エースのトビを除いて誰もプロにはならないでしょうし、他校の強敵も進学せずインターハイ敗退=バスケット引退となる選手が少なくないはずです。そこに「キセキの世代」みたいなドリーミングさはなく、全日本に選ばれた流川やそれを追いかける天才もおらず、現実的だからこそ何よりもドラマチックな生々しい青春物語があるだけです。  膝を痛めながら奮闘するエース・トビは、彼の膝の具合を案じた先生にこう言い放ちました。 「自分たちに未来があると思わないでくれ」  これには色々な意味が込められています。無名ながら快進撃を続けるクズ高だが全国を狙えるのは今年しかない(だから怪我を押してでも出場させてくれ)というトビの意図とは別に、物語においても「ここで燃え尽きてもかまわない」というキャプテン・百春の発言や、空の大活躍は成長途中の色々な条件が重なったことによる偶発的なものであるという監督の見解などともリンクしてきます。彼らは「未来」なんてもののために青春をかけているのではないのです。それでも彼らの将来を案じて怪我などから守ることが大人の役目です。クズ高の監督も勝利と生徒の将来との両天秤に悩まされることになります。 「甲子園は暑すぎるので別会場でやるべき」「選手の将来を考えて球数制限をすべき」  というような昨今の風潮に抗うかのように「あひるの空」の登場人物たちはスポコンにのめり込んでいきます。  もちろん高校野球のマネージャーが熱中症で亡くなったりそれを美談仕立てで報じたりする今のスポーツ界の在り方は議論の余地なく「悪い」ですし、スパルタ的練習法の効率性がスポーツ科学の観点から疑問視されているこのご時世ではあるものの、一方で、最大限安全への考慮をした上でという条件つきですがぶったおれるまで足がつるまで灰になるまで走り切った先にしか見られない景色があって、その刹那の輝きが後の人生において掛け替えのない宝になるであろうことを信じて疑わない、ある意味宗教みたいなものかもしれませんが…そういう世界があること自体は否定されるべきではないのではないかなと思うのです。  私事ですが学生時代はバンドに打ち込んでいたので、その刹那の輝き教の信者たる彼らの気持ちはよくわかります。一方でスポーツに青春をかけていた人たちを眩しい目で見ていたというのも事実なので、彼らをやっかんで「高校野球なんて危険だやめちまえ」みたいに言っちゃう人の気持ちもまったくわからないでもないわけです。「あひるの空」はそういう複雑でないまぜの感情をリアルに感じられる稀有な漫画です。多感なあの頃がよみがえる…色んな意味で心のリフレッシュになる作品かもしれません。

そしてボクは外道マンになる

古き良きの出版業界の熱量を感じる

そしてボクは外道マンになる 平松伸二
六文銭
六文銭

「今でこそ出版業界は新卒人気も高く、いわゆる育ちの良い高学歴出身が多いが、昔はどこも就職できない与太モンの集まりだった」 と、その昔、出版社に勤務していた時、60近いベテラン編集者に聞いたことがある。 そんな社会のはみ出しものたちで、同じように当時、社会に認められていない漫画市場をこじあけていったのだと思うと、感慨深いものがある。 本作は、特にジャンプ黄金時代の少し前、まさに生き馬の目を抜く激動の漫画時代に活躍した平松伸二の自叙伝的作品。 「ドーベルマン刑事」「ブラック・エンジェルズ」などの名作たちが、どのようにして産まれたのか、これを読むとよくわかります。 こうした平松伸二ファンはもちろんですが(おそらく、この層が多いと思いますが)あの当時の漫画業界の熱狂を知りたいという人にとっても非常に興味深い作品だったりします。 担当編集者との、口汚く罵りあうようなやりとり、時には蹴る殴るの暴行、今だったらありえないような状況を、熱量たっぷりに描いています。 あの時代の、編集者と創作者のいわゆる魂のやりとりともいえる行為は、昭和の良き時代のように感じるんですよね。 だから、必然的に内容も濃くなるのかなぁとか。 そんな濃厚な編集者たちと、今だったらハラスメントの嵐みたいなやりとりも多々ありますが、そうした中で良いものがうまれ、売上も上がりバブルとも言える出版業界の華やかな感じも描かれております。 特に、かの有名な編集者「鳥嶋和彦」(鳥山明などの担当)も出でてきて、その慧眼というか着眼点の鋭さに、後の大物ぶりを見せつけてくれます。 ジャンプ黄金期の手前という全体的に漫画市場が上り調子の時代。 歴史を知るもののとしては、これから起きるカンブリア爆発のような名作たちが産まれてくる胎動を感じずにはいられません。 平松伸二先生を知り尽くしたいだけでなく、漫画の歴史的な観点からも楽しめる1冊になると思います。

水は海に向かって流れる

特殊な人が集まり関係を構築する下宿漫画

水は海に向かって流れる 田島列島
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)

『子供はわかってあげない』の田島列島先生4年ぶり新連載、別マガで『水は海に向かって流れる』 受験で入学した高校へ通うにはおじさんの家の方が便利だったため実家を離れそこで暮らし始めるが、行ってみるとおじさんの家は空き部屋を複数人に貸している下宿だったので、個性的な住人と交流をすることになるのだった。 という感じのいわゆる下宿ものの話かな?とまだまだどう転ぶか分からない1,2話目。 でも待ちに待った新連載で嬉しい。 同居人である26歳OLの榊さんが、過去にすこし関係していて不穏さが漂ってたり、主人公の少年が絵を描いてたけど受験でやめたっぽいような軽いフリがされているので、部活でどうなっていくのか気になるところ。 ちょいちょい挟まれる小ネタのようなものがいい。 「ポトラッチ」なんて文化初めて知った。 またほんのちょっとした人物の所作が美しくて愛おしい。 主人公もわりとのんびりしているようなのでゆったりとした気持ちで読めるのがうれしい。 どうやら次号3話目で下宿の登場人物が勢揃いするっぽいのでそれも楽しみにしつつ、猫の話で可愛い子と簡単に話せてしまった少年の学園生活やいろんな大人に囲まれた下宿生活がどう人間関係や成長に関わってくるのか、思わぬ事実を突きつけられたときどう反応するのか、楽しみ。 タイトルからして、なんでも最終的にはいくとこにいく、なるようになるという暖かく緩い感じなのか。 下宿とか寮のような共同生活を描いた漫画は好きなのがちょいちょいある。 『めぞん一刻』、『ツルモク独身寮』、『僕らはみんな河合荘』、『椿荘101号室』、『公園兄弟』、『ゆうべはお楽しみでしたね』などなど。 最近出たものだと『コノマチキネマ』とか。 やはりどれでも描かれるのは個性的な住人との交流とその悩み、絆、助け合い。 かつての昭和的な下宿ではそういったことが当たり前であったわけだけど、現代において下宿というものは果たしてそこまで機能しているのか。 というのも、僕は何年か前まで、風呂無しトイレ共同の古い下宿のようなところに住んでいて、1階が大家さんで2階に4世帯しか入っていない古き良き木造の家だった。 住民同士の季節の変わり目などのイベントでの交流を期待したりもしたがそういったことは全くなく、男女の出会いを期待するも住んでいたのはずっとむさい男ばかり。 壁が薄いので、隣のおじさんがトイレに立ってじょぼじょぼーっとおしっこの響きで目が覚めることなどしょっちゅうだったけど、常に何か音が聞こえることもあって一人で寂しいという感覚はずっとなかった。 住み始めて約5年で、夏にエアコンが無いから暑くて死にそうという理由から退居したが、結局最後まで共同の靴箱がある玄関にはあった大きい黒板が使われることはなかった。 こういった漫画の、ある種、下宿や共同生活の理想像を描いてくれるのは嬉しいし大好きだが、現実とは微妙に乖離した神話だよなーという諦めもあります。 下宿生活ファンの方は、実践にはぜひお気をつけ下さい。 漫画と全然違うことばかり書いてしまった・・。

そんな家族なら捨てちゃえば?

モラハラ夫ならぬモラハラ妻?から家族再生の話

そんな家族なら捨てちゃえば? 村山渉
六文銭
六文銭

夫婦と娘の3人家族が登場人物。 だけど、その家には廊下にテープが引かれて、夫はここを超えてはいけない。 食事は一緒にしない、挨拶もしない。 ドアの音をたててはいけないし、風呂は良いがトイレはだめというルール。 主人公は、そんな生活を強いられながら生活している。 え、なにこれ? と率直な感情とともに、怒りがわいてきた。 妻と夫両方に。 よくこんな状況になってまで一緒にいられるなと、よく我慢していられるなと。 この状態になったのは、つわりで苦しんんでいたときに夫に言われた言葉が原因だという。(ここはまだ全て出ていない?) 夫の性格上優しすぎるというか、現実を直視できない弱さのせいで、その場シノギで不用意に何か言ってしまったと推測するが、それにしても酷いと思う。 そういう言葉を吐き出させる側にも問題があると自分は思うんですよね。 妻は言葉で伝えて欲しいとかいうけど、 結局自分の価値観や先入観で曲解して、夫(というか、周囲の人間)の言葉なんて歪んで伝わっているのをみるとなおのことそう思います。 そんな夫のところに、謎の未亡人が現れて彼を救おうとするのですが、これはこれで非現実的で(今の御時世で、なんの接点もない他人をこんなに気にかけることあるか?と)正直、胸糞悪かったのですが、2巻の娘のシーン(添付画像)を読んでグッときました。 1巻までは、崩壊した家庭とそこから夫を奪おうとする、いわゆるドロドロ的な話かと思っていましたが、2巻のこの娘のセリフを読んで、 家族とは何か? を伝えてくれる話なのでは?と思うようになり、俄然面白くなってきました。 違う人間だから、完全にわかりあうことは難しいかもしれないけれど、それでも思い合うことはできる。少なくとも赤の他人よりは。 それが家族だと思うんですよね。 娘がキーになって、今後この家庭がどうなっていくのか楽しみです。