電波オデッセイ

自殺する前に読んで下さい。傷ついた魂に寄り添う『電波オデッセイ』

電波オデッセイ 永野のりこ
兎来栄寿
兎来栄寿

死にたい人、いますか? もしいるのであれば、聞いて下さい。 今あなたがどんな状況に置かれているのか、私は知りません。 先の見えない人生に絶望しているかもしれない。 いじめを受けて苦しい思いをしているかもしれない。 あるいは、死の直前であるかもしれない。 そんな、全部の人に、私は言います。 生きて下さい。そして、『電波オデッセイ』を、読んで下さい。 そこまで深刻でなくとも、生きる苦しさに喘いでいる全ての人に、あるいはそんな人が身近にいる人に、この優しい電波が届いて欲しいと願います。真に、人間は、世界は美しいと思えるマンガです。 **若者の自殺率が高い日本** 内閣府の共生社会政策の自殺対策白書によると、日本国内では平成9年まで増加の一途を辿り、平成21年まで年間3万人を超えていた自殺者。ただ、ここ数年は3万人を割り、減少傾向にあります。それ自体は素晴らしいことです。 しかし、これを年代別に見てみると別の側面が浮き彫りになってきます。少子高齢化社会の中で減っていく若者の自殺が増えているのです。何と、20~39歳の死因第1位は自殺。先進国の15~34歳の死亡原因第1位が自殺となっているのは日本だけであり、更に全体の死亡原因における自殺が占める割合についても突出して高いという深刻なデータがあります。若者が未来に希望を持てず自ら死を選ぶ社会。これは何としても是正していかねばならない所です。 自殺に至るのにも様々な原因があるでしょう。家庭や家族の問題、いじめ、人間関係、過酷な労働環境……生きていれば、死にたくなることも沢山あります。私自身、死にたいと思ったことは百回や二百回ではありません。人並みに複雑な環境の中で小学一年生の頃には不登校だった時期があり、小学三年生の頃には「人は何故生きているのか、生きねばならないのか」「死とは何か、絶対的な終わりは救いなのか」といったことを暗闇の中で延々と黙考し続けていました。 **とりあえず生きて下さい** 生きていると素晴らしいこともありますが、同時に絶望的な理不尽に晒されることもままあります。素晴らしいことに触れている内は世界の美しさを感じ賛美したくなりますが、この世の闇はそれをいとも容易く蝕んできます。自分を好きになることなど有り得ないないまま、存在するに足る意義を問い求め続けて薄氷を踏むように生きて来ました。 世界中の賢人たちの思惟思想に答を求め続けた私が最終的に出した結論は、エポケー(判断停止)でした。身も蓋もない言い方ですが、あらゆる意味や価値は人間が便宜的に付与しているだけで、幻想に過ぎません。それ故、生きるためにはそれを突き詰めることを止めねばならないと考え、脳天気になることにしました。思考が暗澹たる領域に踏み込みそうになったら強制的に考えるのを止めるように脳に条件反射を植え付けて、この世にある好きな物や、素敵なことを考えるようにしました。 更に、肩の力を抜いて辛い時は頑張り過ぎず、人に頼ることを自分に許しました。とりわけ日本では我慢や忍耐が美徳とされ、また自分の背負った苦労と同じ苦労を他人にも強いて、楽をすることを悪だとする風潮があります。それが自分を鍛えてくれるものならまだ良いのです。が、いたずらに疲弊し摩耗するだけのものならば話は別です。人生には「逃げちゃダメ」な時もありますが、闘っても不毛な理不尽な外圧からはむしろどんどん逃げるべきです。 「いじめられる方にも原因がある」「鬱は甘え」「どんな親でも親は親なので敬うべき」といった無思慮な言葉が、どれだけの人を苦しめて来たことか。人はそれぞれ千差万別の事情を抱えています。「俺は大丈夫だったからお前も大丈夫な筈だ」などという、たまたま運が良かった強者の論理に付き合う義理はありません。逃げても良い。少しくらい誰かに迷惑を掛けてもいい。だから、自分から命を断つという選択だけは、その選択肢ごとなくしておいて欲しいです。 そう言う私もまた、相対的に運が良かった人間だと思いますので、もう絶対に死んだ方がマシだ、という人を強く引き止める程の言葉は持ちあわせていません。それでも、人生というのは予想できないもので、今現在の自分が持っている物差しを遥かに超えたことが未来に容易く起こるものだとは伝えたいです。私は、生きていて良かったと思える瞬間を運良く幾度も持てて、今は楽しく生きています。 辛く苦しくて当然の人生。自分の幸不幸だけを天秤に載せては、死にたくなるのも当然です。なればこそ、その中で人は自分の力で誰かを笑顔にすること、楽しませること、快適に過ごせること、そういった自分でない誰かのために何かをするべきなのでしょう。それが結果的に充足感をもたらし、自分に還って来ます。それは難しいことではありません。特別な家族や友人や恋人のためでなくとも、普通に勉強をし、普通に仕事をし、普通に消費をして生きているだけでも、社会を通じて間接的に人のためになっているのです。だから、まずは生きて下さい。 こうした態度は、『電波オデッセイ』の主人公たちが至ったものと同じでした。 **世界で一番優しい電波** 元々、永野のりこ先生は破天荒な、それこそ「電波」と形容するのが相応しいギャグマンガを多くお描きになっている方です。しかし、その中にも明滅するシリアスな輝きを結晶化して、至高の純度で最高に美しく磨き上げた特異点とも呼べる作品がこの『電波オデッセイ』です。 主人公の中学二年生の女の子、原さんはネグレクトを受けており、この世での居場所を失っていました。学校にも行かず引き篭もる彼女の下に、オデッセイと名乗る男が現れます。そして、彼はこう言います。「君は地球への観光に来ている旅行者なんだよ」と。そして、「"ここ"への観光はとてもラッキーなことだから、帰る前に後悔のないよう"ここ"をよく観ておくといい」、と。更に、「地球への旅行者は物を持って帰ることはできないけれど、人の心1コ分に入るだけの"いいもの"、"素敵なもの"、つまりは楽しい思い出や幸せの記憶をおみやげとして持ち帰れるのだ」と。 そんなオデッセイの言葉によって吹っ切った原さんは、騒々しいほど元気に振る舞うようになり、学校にも"観光"として行くようになります。勿論完全に吹っ切れた訳ではなく、同級生には相変わらず腫れ物扱いをされますし、親がいない中で家賃も水道光熱費も払えず、毛布に包まってひもじい想いもします。うずくまり動けなくなる時とてあるのですが、それでも人前で気丈に空元気を出して生きて行くこの中学生の女の子の姿は、多くの人を大変勇気付けてくれるものです。 自己を一回彼方から俯瞰してみる、というのはとても意義深いことです。ブッダも言っているように、悩みや苦しさには外的な要因でどうしようもないものもありますが、一方で多くは自分の心の持ちよう一つで解消していけるのです。自分が宇宙からの観光者であると仮定することによって多少なりとも心が楽になるのであれば、命が救われるのであれば、それをしない手はありません。逆に、まともなコミニュケーションが到底取れない相手を「宇宙人なのだから仕方ない」と考えて諦める、というのも私が実践した思考法です。筋だけ聞くと滑稽かもしれませんが、永野先生の筆致によって宿る言葉では言い表せない機微があり、読めば沁みる内容となっています。 宇宙的な観点からみたり、長い人類史的な観点に立ったり、「爆弾が落ちてこないだけでもラッキー」と超絶なポジティブさを発揮して、必死に生きて行く原さん。なかなか完全に彼女のように立ち振る舞うのは難しいですが、きっと思う所、励まされる部分があるでしょう。 ちなみに、今作では上記のシーンのように、聖書、夜と霧、ブレードランナー、バッタと鈴虫、宮沢賢治、ディボネゴロ、コルチャックなど、古今の様々な名作や人名、名言が至る所にちりばめられています。破天荒な言動に巧妙に紛れて子供の頃に読んでも解らなかったものが、改めて読み返すとそのシーンの心情と重なって伝わって来て、更に心に沁みる……そんな再読する度に発見のある作品でもあります。そして、読む度に生きるための魂の栄養を貰えます。 **少年少女の傷と再生** 今作では、主人公以外も皆それぞれに心の傷を抱え、上手く生きることができないでいます。 体が弱く、幼い頃に死に瀕したこともある野川さんは、一年留年してしまっていることを内緒にしながら学校に通う中、ある日起きたできごとに深く傷付きます。また、友人たちや先生に心配される、その心配がまた心の負担となっていきます。 トモ子は、太っていることをからかわれ「トン子」と仇名されて拒食症になり、太っている親にも憎しみを覚え、学校に行けなくなってしまいます。すれ違った人の一言一句すらも自分を攻撃しているのではないかと過敏に反応してしまい、消えてなくなりたいと願います。 皆それぞれ持つ痛み。その痛みが、原さんを始めとする周囲の人と人との交流の中で和らぎ、癒されていく様が丁寧に丁寧に、繊細なモノローグを伴って描かれていきます。持ち前のハイテンションさも伴った中で、それらのシーンは非常に感動的に描かれ、心を強く強く打ちます。 この作品の中には幾つも名言や名シーンがあるのですが、その中から一節を引用します。 たすけは人からくるんです 人の仕打ちに打ちひしがれて うずくまる人をたすけるのもまた 人なんです 「アホか」と思っても ダメもとでも 「体育すわりでうずくまってる人」は 言ってみるといいかもしれませんね 「ボクはココにイルよ」って 人は人のためにつくられていて 人と出会うために生まれてくるんですから 誰かがあなたのために あなたに会うために生まれているんです この世界に だから 「こんな世界どーなったってシラネーわ  ってかとっととコイや黙示録  ものっそいづれーわこのクソ世界」 って思う日がたとえあっても 今がそうでも 世界にユウヨをあげてください 「出会う」その日まで 彼ら彼女らが、痛みやその根本と向き合い、決別し、前に進んでいく姿は掛け値なく美しいものです。そして、それを可能にする人と人との営みも、また素晴らしいものです。その神聖なる瞬間に立ち会った時、自然と涙すら零れます。 若山牧水が「白鳥は かなしからずや 空のあお 海のあおにも 染まずただよう」と詠ったその鳥は、その後その海の上で何を想ったのか? それについて原さんが持ち前の自由な想像力で解釈するシーン、そして激動の最終巻のラストシーンなどは、私の心の中で永遠に褪せずに刻まれ続ける名シーンです。 あなたが持っているここにいるためのチケットは、あなたが自ら手放さない限り誰にも奪われることのない。 あなたは既に一度祝福されたからこそ今ここに在る。 『電波オデッセイ』は優しく教えてくれます。 願わくば、この作品を読んだあなたがどうか良い旅(オデッセイ)を送り、何か一つでも素敵な「おみやげ」を持って行けますように。

ウルトラヘヴン

現実世界に揺さぶりをかける

ウルトラヘヴン 小池桂一
影絵が趣味
影絵が趣味

たとえば、いまここに会議室があり、黒いスーツを着た男が6人、大きな四角いテーブルを囲んで、やれ何が正解だ、これが正解だ、いやそれは違う、と不毛な言い争いをしているとする。6人の意見はまるで嚙み合わず、それぞれの手元に置かれたコーヒーカップの中身もなくなろうとしている。 それはもしかすると、ありふれた光景なのかもしれない。 しかしウルトラヘヴンを読んでいると、そんなありふれた光景がなにか異様なものに思えてくる。いや、一周まわって、かえってありふれた光景にもどるというべきか。 6人の意見が嚙み合わないのは、それぞれが違ったものの見方をしているからとみて、たぶん間違いはないだろうと思う。そう、6人が6人とも違った見方で世界を捉えている。 さて、言い争いがヒートアップしてきたようである。ひとりの男が椅子から立ち上がり、テーブルを両の手のひらバンッと叩いた。向かいの男も立ち上がり、手振り身振りをまじえながら、喧しく声を荒立てる。隣の男が宥めにかかるが、それがかえって火に油を注いだようである。その手を乱暴に振り払った。その拍子、コーヒーカップが床に落ち、パリンッと音をたてて粉々に割れた。 手を振り払った瞬間、男にはコーヒーカップが見えていなかったと言わざるを得ない。コーヒーカップは確かにそこにあったのに……。なにもドラッグで視界がグニャグニャに歪まなくても、在るものが無かったり、無いもの在ったりするのは日常茶飯事のことなのだ。各々が(それは人間であっても動物であっても虫であっても地球外生命体であってもいいのだが)各々の目で、脳みそとかそれに準じた器官を通して、世界をみているにすぎないのだ。 いまここに会議室があり、黒いスーツを着た男が6人、大きな四角いテーブルを囲んで、やれ何が正解だ、これが正解だ、いやそれは違う、と不毛な言い争いをしているとする。6人の意見はまるで嚙み合わず、それぞれの手元に置かれたコーヒーカップの中身もなくなろうとしている。 はたしてそれは本当に目のまえに存在しているのだろうか。少なくとも人間である私たちにそれを確かめる手段はない。それは神のみぞ知るところである。

空也上人がいた

現代社会への絶望の最果て。あなたの最大の後悔は何ですか?『空也上人がいた』

空也上人がいた 新井英樹 山田太一
兎来栄寿
兎来栄寿

何たることでしょうか。
新井英樹先生が絶望しておられる……! 新井英樹という作家は、「漫画で、俺のペン一つで、世の中を変えてやる!」という気概が紙面から迸っている、極めて稀少な描き手です。その卓抜した筆勢は、『キーチ!!』やその続編『キーチVS』、『ザ・ワールド・イズ・マイン』、『SCATTER』などを是非読んで頂きたい所です。 いずれも圧倒的な作品であり、今世紀で好きなマンガを十作品選ぶなら、『ザ・ワールド・イズ・マイン』と『キーチVS』の二つ新井英樹先生の作品は入ります。必然的に私の中で新井英樹先生は現代でも最も注目度の高い作家となっています。 その新井英樹先生の最新作が、山田太一先生の小説を原作とするこの『空也上人がいた』です。この単行本を手にとって、私は大きな驚愕に包まれました。
最初のページを捲ると、何と上記の作品群を引用しながら9・11や3・11を経た世界への絶望に暮れる新井英樹先生自身がプロローグとして描かれているではありませんか! > 狂気が世の中への「反撃(カウンター)」として存在できたのはまだ世の中が少しは正常と思えたからで、今の狂気の世の中に喰らわす「反撃」を捜すと倫理、道> 徳ぐらいしかない!!
> そう…思ってたんですけどねえ。本気で。あったまわるいから。
> 「世のため」なんて旗ふったつもりで、期待しすぎてこのザマですよ。
> 絶望っ だね 絶望…
> 別に使命感とかじゃなくなんか嫌で嫌で…
> オレなんかよりずっと売れて影響力ある人が描いてくれてりゃって思ってたんだけどね
> 「ファンタジーなんて描いてる場合じゃない」ってアニメの巨匠だって言ってるじゃん
> グローバリズム コーポラティズム カネカネカネ
> 世界は金持ったキ●ガイと飼われたいブタだけ
> そうだよオレあれもこれも全部嫌いだよ
> 世界なんか滅べ!! もう知るか!! あんなに政治家の汚職を、検察の腐敗を、大企業の卑劣を、米国への従属を、クロスオーナーシップを、新聞特殊指定を、ありとあらゆるタブーを恐れず踏み込んで批判して来た新井英樹先生が! 文字通り、大切な「云」うべく敢えて「鬼」と化して絶大な魂を紙面に落とし込んで来た新井英樹先生が! 怒ることを忘れた日本人に喝を入れ、怒りを思い出させようとして来た新井英樹先生が! こともあろうに、あまりにも深い諦観に駆られている……!  現代社会における良心、希望の篝火のような存在が、遂にこの世の巨悪と狂気、弱さと同調圧力の奔流に屈してしまう時が訪れてしまったのか……そんな悲しいことはありませんでした。
大多数の人が見て見ぬ振りをしてやり過ごすことを処世術とする中で、自らへの不利益を省みなずに声を上げる勇猛さ。真っ当であれ、という極めて純度の高いメッセージ。それらが全て敗北してしまったとなると、私自身も絶望の深淵に沈まざるを得ません。 しかし、そんな魂を賭した長きに亘る闘いの果てに至った絶望、その先に描かれた本書もまた圧倒的に素晴らしかったのです。 **介護に携わる若者、キレる** 今作は、タイトルだけ聞くと歴史物のような印象を受けるかもしれませんが、現代社会の問題を描いた一冊完結の現代モノです。 特別養護老人ホームで働いていた27歳のヘルパー青年・草介は、毎晩叫び狂う老婆に対しある日キレて車椅子から突き落としてしまいます。そして、その6日後にその老婆は死亡。自責の念に駆られ職場を辞めた草介は、同僚の46歳ケアマネージャーから紹介された81歳の独居老人の在宅介護を始める、というのが今作冒頭の筋書きです。スーパーのレジ打ち並の収入で280円の牛丼を食べながら、人の命を預かる過酷な仕事、金持ちの老人の世話を行う若者像というのは、現代社会の様々な物の象徴です。 2014年現在、介護職員は150万人。少子高齢化社会の日本では、2025年までには職員数が250万人必要、つまり100万人の介護職員を増やさねばならない、という試算もあります。しかし、激務であり責任も重大な仕事内容でありながらも、その待遇は恵まれているとは言い難い状況です。一刻も早くこの現状を打破せねばならない、。現場で働く末端の介護職員の給与を増やし、負担を減じる方向に持って行かねばならない、ということは多くの人が痛感しながらも、決定的な方策を打つことができていない状況です。一方で、お金を持った老人相手のビジネスとして介護を認識し、食い物にして巨利を得る悪質な輩も跋扈しており、闇は深いです。 介護の大変さは、私も多少解ります。私自身、祖父の介護を数年にわたって行っていました。祖父は、私がこの世で一番尊敬する人物でした。聡明で、物腰が柔らかく何があっても決して怒らず、優しく諭してくれる人でした。70歳を超えても毎日二時間の散歩と運動を欠かさず、自炊によりバランスの取れた食事で健康を保ち、そしてあらゆる物事への好奇心が旺盛でした。触ったこともないTVゲームにも付き合ってくれて「何事も経験。何でも積極的にやってみること」と幾度となく教えられたことも、私の中で血肉となっています。 しかし、そんな祖父も認知症を患ってしまうと、深遠な知識も高潔な人格も、全てを失って行きました。下の世話などはまだ全然良いのです。それより何よりも、話をしても何をしても意思を通わせることができない虚無感・絶望感というのは凄まじいものです。その中で生じる負の感情に、介護をしている自分の不寛容さを曝け出され突き付けられることも伴って、自分自身も精神を苛まれ、蝕まれ、病んで行きます。悪意が無いと解ってはいても、繰り返される様々な蛮行に、苛立ちや憎しみすら抱く瞬間が全く無かったと言い切るのは難しい程です。生涯で最も尊敬する人物をしてこんな感情を抱いてしまうのですから、赤の他人である老人の介護をしている方々の心的ストレスはいかばかりかと思ってしまいます。 作中で、女性ケアマネージャーが > 介護やってれば気持じゃ何百遍もほうり出してるよ。 と語る通りでしょう。 日々、心身を傷付け抉られながら、一方で命を預かっているという緊張感。その状態が何年、何十年と続くのか全く先の見えない状態。その抑圧を、原作者の山田太一先生は「キレないはずがないというのもちょっとひどい言い方だけれども、キレても不思議はない」と実際の取材で感じた体験を元に、この作品を著したそうです。今後の社会で重要なテーマであるにも関わらず、こういったことを描いてくれている作品は寡少なので、私はよくぞ描いてくれたものだと思います。 「後悔」と「他者の眼差し」 今作はノンフィクションの介護小説としてでなく、老人が後悔に苛まれる傷付いた青年を救う物語として描かれたことで、介護というテーマは勿論ですが、それに留まらない普遍性を獲得しています。その軸となっているのは、「後悔」。きっと、誰しも人生の中での最大の後悔というものがあるはずです。その後悔と、人はどう付き合い、どう向き合っていけば良いのか……。 主人公の27歳の草介は、おばあさんを一時の激情に駆られ、それが原因かどうかははっきりとは判らないものの、人を死に至らしめてしまったという罪悪感に囚われます。一方で、彼が出会う81歳の老人もまた、長い人生の中にある一つの大きなわだかまりを抱いています。 そこで、一つの象徴として登場するのが、タイトルとなっている空也上人です。踊り念仏や六斎念仏の始祖であり、疫病で多くの死体がその辺りに転がっている時代の中で、様々な公共事業に勤しんだ聖人。その空也上人の立像というのは、他の多くの彫刻や仏像と違い、顎を上げかすかな声で「南無阿弥陀仏」を唱えながら、前を見て歩いている。それは、罪を許してくれるのではなく、同じようにへこたれて共に歩んでくれるものなのだ、と。 そのようにして、自身が大きな感銘を受けた空也上人立像を、老人は青年に見せようとします。そして、六波羅蜜寺で青年が空也上人立像と対面した時の描写は、小説版でも漫画版でも一つのクライマックスとなっており、必見です。その眼差しは、草介を通して読者をも刺し貫いてきます。 思うに、この世界で生きる際に「他者からの眼差しに晒されている」という意識があるのとないのとでは全く違う次元に存在するようなものです。それは、世界の多くの国々では宗教と呼ばれるものでもあります。日本人は宗教性は薄い民族ではありますが、「お天道様が見ている」とか、「壁に耳あり障子に目あり」といった言葉にそういった精神性は散見されます。 誰も見ていないからといって、不善をなす。多くの人は経験していることでしょう。しかし、その犯した罪は消えることはありません。何らかの他者性を内在させることでその罪の芽をあらかじめ摘み取ることができるなら、それは現実的に推奨されるアティテュードなのではないでしょうか。眼差しを投げかけ、共に歩んでくれる、あなたの「空也上人」を。 そうして生きて行った先には、予想もしなかった新しい展開が開け、そこは想像もできない心地良い場所になっているのかもしれません。そんなことを思わせてくれる物語です。ラストは、表紙を一見した時のような何とも言えない優しさに彩られています。 ある意味で、これはドストエフスキー『罪と罰』の現代日本版であり、一つの返歌と言える作品かもしれません。 **結び** モンやキーチのような圧倒的カリスマは、この物語には出て来ません。ここには普通の人の、普通の現代社会の生活の中での有り触れた想いがあるのみです。しかし、それが静かに深く胸の奥底を叩き、貫いて行きます。それは言うなれば高級料亭で食べるシメの雑炊のように。見た目は地味でありながらも、それまでのあらゆる豊潤な食材のエキスを吸収して生み出される余りにも豊かな旨味に溢れていたのです。山田太一先生の原作に忠実でありながらも、確かに新井英樹作品としての生命の鼓動を感じます。私の中では今年の作品の中でも確実にベスト10に入ります。 今作の巻末に収録された、原作者山田太一先生と新井英樹先生の一万字対談には、こんな注釈もありました。 
> 『キーチVS』については、漫画に主義や思想はいらないというご批判を多々受けました。そんなこと言ってるから、漫画は3・11や原発で、映画や小説の後塵を拝したじゃないか。 この一文に込められた気概に、私は喝采を送りたいです。
今作を描くに至った新井先生が、現在とんでもないことになっている『SCATTER』をどう着地させるのか。そして、その次は一体どんな作品を生み出すのか。今後も新井英樹先生の漫画表現による社会・世界との鬩ぎ合いを、心から応援していきます。