竜三がラッキー勝利を否定したとき、
竜三に惚れた(笑)。
かつてビリヤード・ブームがあった。
バブルの時代の象徴的なオシャレというか
トレンディというか。
プール・バー(ビリヤード場)がアチコチに
できた時代があった。
映画の「ハスラーⅡ」や「道頓堀川」なんてのもあったし。
残念ながらビリヤードはメジャーな娯楽になり
世間に定着するまでにはいたらず、
むしろバブル時代の蜃気楼と化している感もあるが。
ヤクザもバブルの時には地上げだなんだと話題になった。
この漫画では、目的のために球を弾く、避ける、落とす、
などのビリヤードの競技性が絶妙にヤクザの生き方と
クロスしてなんともいえない味わいになっている。
バブルの時代の狂熱と、その後の凋落を
今となっては暗示的に象徴し感じさせる漫画、
それが「獣のように」だ。
途中からはビリヤード色が薄くなって
ヤクザ漫画になるけれど、それはそれで
ヤクザという男の行き方「色気」が
メチャクチャに弾けまくる。
まさにビリヤードでセットアップから
球を弾くゲーム・スタートの興奮のように。
いまとなってはともに絶滅危惧種になりつつある
「ビリヤード」と「ヤクザ」が、
省みると、バブルとその後の時代を舞台に
絶妙に偶然に?マッチングした
かわぐちかいじ適でいて奇跡的な
ビリヤード・ヤクザ漫画だ。
竜三がラッキー勝利を否定したとき、
竜三に惚れた(笑)。
かわぐちかいじ先生の作品の登場人物は
野生的なタイプと理知的なタイプがライバルとして
登場するパターンが多いような印象がある。
泥臭いタイプとスマートなタイプ、ともいえるかも。
「沈黙の艦隊」とか「ジバング」「バッテリー」など。
「獣のように」では
兄貴分の竜三が野生的タイプ、弟分の健次が理知的タイプ。
供に認め合い、馴れ合ってもいるような面もあるが、
互いの違いを理解しており尊重している感じ。
相手に、自分には無い物があることを認識しているというか。
そして竜三は健次を気遣い、
健次は竜三を慕い尊敬しつつも恐れつつ、
それでも近づき超えたいと思っているように感じた。
ビリヤードは基本的に相手を排除して生き残る競技だと思う。
対戦相手がともに勝利者になることはない。
どちらかはポケットに落とされる。
そして実力勝負ではあるがそれだけで落とされるほうが
決まるわけではない。
時により運や流れやその他の要素も絡んでくる。
しかしどちらかは確実に落とされる。
獣のようにでは、野生と理知のどちらが勝って
どちらが優れているかという結論が描かれているかと
言えば、描かれているようで描かれていないと思う。
それはビリヤードが確実に勝者と敗者が決まりながら
どこか強弱とか優劣が決まったとは言い難い競技で
あることと、ヤクザ社会との類似のようにも感じる。
どちらかが落とされることも。
「ヤクザはミエで生きている。負けてカッコつかなくなったら、そいつはもう終わりだ」都会の片隅に置き去りにされた玉突き屋で、倦んだような時間を送る二人のヤクザ・竜三と健次。その二人の前に、竜三のかつての兄貴分の妹・桃子が現れたことから、凪いでいた男たちの心に『獣』の牙が生え始める……!!
「ヤクザはミエで生きている。負けてカッコつかなくなったら、そいつはもう終わりだ」都会の片隅に置き去りにされた玉突き屋で、倦んだような時間を送る二人のヤクザ・竜三と健次。その二人の前に、竜三のかつての兄貴分の妹・桃子が現れたことから、凪いでいた男たちの心に『獣』の牙が生え始める……!!