秋山さんのとりライフ

鳥撮影のカメラ話 #1巻応援

秋山さんのとりライフ 津田七節
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

『カメラ、はじめてもいいですか?』に続き、本格的カメラ漫画が来ましたねぇ〜。 本作のテーマは鳥撮影!作者の津田七節先生はかなりガッツリ鳥撮影されているようで、内容が本格的なのが嬉しいので、ここでは本作に出てくる機材を推測したいと思います(私は花&きのこ専門なので間違ってたらスミマセン)。鳥の専門性やストーリーについては、どなたかお願いします。 ●カメラについて 主人公の初心者・秋山さんと、彼女の部下で師匠・高崎君のカメラは、いずれもNIKONのDXフォーマット。所謂APS-Cという、センサーが少し小さめのもの。小さいとはいえ、コンパクトデジカメのセンサーよりは全然大きく画質が良いので、軽さと画質を両立させたい場合は、こちらを選ぶと良いでしょう。 因みに上司の秋山さんのカメラD7000番台は、高崎君のD5000番台の上位機種。 ●レンズと望遠について 鳥撮影はいかに焦点距離を稼ぐかの戦い。ズームで500〜600mmの廉価なサードパーティー製品はありますが、それだって10万円台前半はします。秋山さんが思い切って買ったレンズは、200-500mmf5.6とのことで、こちらもニコン製品「NIKKORレンズ」の模様。ズーム全域f5.6という明るさ故に若干高価。やっぱり純正は良いのかなぁ……(遠い目)。 ちなみにDXフォーマットは、センサーサイズの大きいFXフォーマットより焦点距離を1.5倍稼げる特性があります。500mmと書いてあるレンズなら750mmになるのです。こういう点でも、鳥撮影する人はDX(APS-C)を選ぶメリットがあります。 そして高崎君のレンズは、BORGという望遠鏡ブランドから出ているレンズ。マニアック〜!絞り・オートフォーカス(AF)といった基本的機能すらなく、その代わり望遠鏡技術を取り入れた極上の写りと軽さを実現。独特なマニュアルフォーカス(MF)については本編を。あと5話で高崎君が買い足したレンズは小ささと、広角から望遠までカバーしていることから、NIKKORのDX専用高倍率ズーム18-300mmと想像します。のびるのびる! ●撮影について 鳥撮影の独特さが全編にわたって描かれていて、本当にマニアックだし、望遠のコツとか色々勉強になりました。初心者のステップアップとして「MFに挑戦するか」という点に1巻にして踏み込んでおり、秋山さんの向上心と好奇心が見てとれ、今後の成長が楽しみ。 鳥撮影の機材は珍しいものも多く、例えばコンパクトデジカメとフィールドスコープを組み合わせて、安価でそれなりの高画質を得る「デジスコ」というシステムもあり、次巻以降その辺にも触れないかな……とか、カメラの話題的にも今後、期待したいです。 以上、TAMRON150-600mmを持ってるけど一回しか使っていない、あうしぃでした。 NIKONラブ!

甲子園の空に笑え!

攻撃のない野球 ~その涙のゆくえ~

甲子園の空に笑え! 川原泉
影絵が趣味
影絵が趣味

2018年の夏の甲子園といえば、金農旋風が世を席巻しましたが、農業高校が9人の固定メンバーで県予選から甲子園の決勝まで勝ち進んだことが、川原泉の『甲子園の空に笑え!』とまったく同じだと密かに話題になっていました。偶然って、本当におそろしいですね。まさか、川原泉も自分の描いた嘘でたらめのようなマンガの物語が現実に起ころうとは夢にも思わなかったことでしょう。決勝戦で春も制した優勝候補の大本命に負けてしまうところまで同じですからね。 さて、この季節になると、もともとが涙もろい性格なのに、それにさらに拍車がかかります。今年は春夏ともに甲子園はありませんでしたけど、それでも、地方大会や交流試合の中継をみて涙をこぼしてしまう。それだけでは済まなくて、ネットのニュース記事を読んだだけで泣けてきてしまうから困ったものです。それで、まあ、『甲子園の空に笑え!』を読んだら、これまたボロボロに泣いてしまい、今に至るというわけです。こんなに泣けてしまって、自分ってもしかして何かの病気なのかなって思い立ち、色々と調べはじめるぐらいですからね。悲しくて泣いたことっていうのは、たぶん人生で一度もなくて、何かを美しいと思ったときとか、人の懸命な頑張りの軌跡みたいなものを感じとったときにとにかく弱い。つまり、受け身で泣くということはなくて、自分がそこに何かを見出したときに涙が出るみたいなんです。じゃあ、そこに何を見出したのかといって、球児たちの美しさを見出しましたなんていまさら言えるはずもなく、仕方がないので人が泣くことについて調べてみる。 ふむふむ、近年の心理学的見地では「無力感の認知」と泣くことの関連性が言われているらしい。例えば、人が予期せぬ朗報を受け取った時に泣くのは、表向きには、起こっている事態に対して無力である、影響を与えることができないと感じるためである、と。 閑話休題。 野球というスポーツの特異点は、まず何と言っても攻撃と守備の時間が明確に分かれている点にあると思います。攻撃と守備がまったく無関係に独立している、とまでは言いませんが、ルールの上では無関係に徹している。表と裏と言いますけども、表裏一体なんて言葉もありますけども、野球にかぎっては表裏がたがいに独立している。もっといえば、表と裏をひとつの単位にした回というものも、1回から9回までそれぞれに独立しています。三者凡退の回もあれば、ビッグイニングの回もある。さらにもっといえば、各バッターの打席ごとに独立していますし、ピッチャーの投げる一球ごとに独立しています。こうしたひとつびとつのプレイには全て判定があり、名前が付けられています。ストライク/ボール、アウト/セーフ、三振/四球/死球、犠打/単打/長打/本塁打、盗塁/盗塁刺、刺殺/併殺/失策/捕逸、挙げていけばきりがないですね。もちろん記録に残らないプレイというのもあるにはあるんですけども、基本的には全てのプレイに名前があり、記録として残されます。こうしたプレイのひとつびとつが一回一回を進め、野球という時間をつくっていきます。ここらへんがサッカーやバスケといったスポーツと大きく異なる点で、野球は時間のなかで行われるのではなく、ひとつびとつのプレイが野球という時間をつくってゆく。プロ野球のナイターでは、18時に始まって、24時過ぎに終わった試合まであるそうですからね、なんと6時間! ちなみに最短は55分だそうです、短! ちょっと話が逸れましたが、野球というスポーツは、ひとつびとつのプレイ、ひとつびとつに名前があって、それぞれに独立しているプレイのひとつびとつが時間をつくってゆく、尚且つ、それらは記録として残される。良い記録も、悪い記録も、勝敗を分ける点数に結びつく記録も、結びつかない記録も、それぞれに独立していて、それら全てに名前があり、記録として残されるのです。 これは野球にかぎった話ではありませんが、よく失敗を挽回するなんてことが言われます。でも、どんなに次の機会に頑張ったとしても、失敗は失敗としてそこにあるわけで、あったことを無かったことにはできません。失敗は失敗としてあり、挽回は挽回としてあり、それらは表裏一体のような体をなしておらず、あくまでも、それぞれに無関係に独立していると思います。こういった考えは残酷と思われるかもしれませんが、あったことを無かったことにできるというのなら、その逆もまた然りというわけで、成功もまた失敗によって無かったことになってしまう。そんなことが許されますか、めっちゃ頑張っていい球を投げられるようになったのに、たった一球の失投をホームランにされて、それまでの好投は無かったことになる、そんなことが許されてたまるもんですか。でも、試合は試合ですし、相手だってこの一球を逃さないための練習を重ねてきていたからのホームランです。 コロナで春のセンバツが中止になったとき、頻りに救済案ということが言われました。結果として春夏ともに甲子園大会は中止になりましたけど、仮になにか救済案があったとして、それでもセンバツを戦えなかった選手たちの無念は残ると思うんです。救済は救済としてあるかもしれない、でも、それは選手たちの無念とは無関係にすれ違ったままだと思うんです。数学ではマイナス1にプラス1をすれば0になりますけど、人の心はそんなふうにはできていなくて、マイナス1も、プラス1も、ともにそこに変わらずにあり続けると思うんです。 ある意味でこのことは、いっぽうからしてみれば、もういっぽうに影響を及ぼすことができない「無力感の認知」ということにもなり得ます。とくに攻撃と守備が相互に独立している野球というスポーツにおいて、この「無力感の認知」はよりいっそう顕在化されると思います。夏の甲子園の球史に深く刻まれた一試合に「日本文理の夏はまだ終わらない」でよく知られる、中京大中京vs日本文理の決勝戦があります。10-4と大差をつけられた日本文理が9回裏二死から怒涛の追い上げで1点差まで詰め寄ったところで、最後の快音が三塁手のグローブに吸い込まれて終わるのですが、負けた日本文理は負けたのに晴れやかな顔をしていて、勝った中京が悲愴な顔をしている。しかも、優勝インタビューを受けた四番でピッチャーの堂林が帽子で顔を隠して泣いているんです、ほんとうに情けなくて悔しいです、と。このことを書きながら自分もまた泣いてしまっているんですけど、この試合で堂林はホームランを含めた三安打で得点のほとんどに絡んでいるのにもかかわらず、9回裏の情けない自分を悔いて泣いているんです。しかも、10点をとられて負けた日本文理のピッチャーの伊藤、9回裏二死が続いて、なんということか偶然にも彼の打席で満塁となり、三遊間を破るヒットで走者を二人還して二点差まで詰め寄ります。このとき、二塁まで到達した伊藤のガッツポーズもまた忘れられない、さらに次の代打のヒットで伊藤はホームベースを踏んでついに一点差まで! また、このことを書きながらボロボロに泣いてしまっているんですけど。 そして、広岡監督の率いる豆の木高校は守備のチームです。というのも、赴任してきた広岡先生はドライでクールな生物の教師として、何故かやりたくもない野球部の監督を押し付けられ、そもそも汗と涙の高校野球なんてキモチワルイとすら思っている。それで、まあ、ストレス発散にノックで生徒たちをいびっていたら、いつのまにかチームの守備力が向上していたという能天気ぶりなんですけど、そんなドライでクールな広岡先生が不純な動機とは無関係にいつのまにか高校野球にのめりこんでいくんですよ。 守備だけをひたすら鍛えたチームですから、点なんかとれやしない。広岡監督は選手たちに言います「うちのとりえは守備だけなんだから、たとえこっちが0点でも、相手に一点もやらなけりゃ、少なくとも負けることはないのさ」そして、自分自身にも心の中で言うのです「そーだ、守るんだ、それしか生きる道はない」。となれば、攻撃はもはや神頼みしかない、祈ることしかできないわけです。まさに自分たちの守備に誇りを抱いて、人事を尽くして天命を待つですよ。 ところで、甲子園交流試合の鶴岡東5-3日本航空石川では、5-3の9回裏、追いかける航空石川が2アウト1・2塁と逆転のチャンスをつくって、勝利目前の鶴岡東は最後の打者を打ちとったと思ったんですが、それまで投手のピンチを何度も救ってきた遊撃手がエラーしてしまい、満塁の大ピンチを招いてしまいます。結果としては次のセカンドの好守備に助けられて鶴岡東が逃げ切ったんですけど、自分があの遊撃手なら高校最後のエラーを忘れられないと思うんです。だからといって高校最後の試合を勝利でおさめたことが消えてなくなるわけでもない。どちらとも、ともに、それぞれに無関係に独立にして、そこにあり続けると思うんです。 それはちょうど、恋人にフラれてしまっても、かつて恋人と過ごしたきらきらした日々が消えてなくなることのないように、いつか見た川のせせらぎのきらきらが消えてなくなることのないように、全てのあったことは、ネガティブなことでも、ポジティブなことでも、どちらでもないことでも、あったこととして、そこに変わらずにあり続けると思うんです。自分さえそう信じていれば。 思えば、人生なんてどんな人でも負け戦だと思います。あの清原が見事に体現してくれているように、裕福な家に生まれようが生まれまいが、才能があろうがなかろうが、努力で這い上がろうが這い上がるまいが、多かれ少なかれどんな人生もひとしく負け戦だと思います。攻撃のない野球みたいなものです。誰も彼もボコスカに打たれまくって肩で息をしているピッチャーみたいなものだと思います。攻撃のない野球ですから、どんなに上手く守ってもゼロ、最高のパフォーマンスを発揮してもゼロ、ゼロじゃあ試合には勝てません。たぶん、生きるということは大洪水の川のなかにいるのにひとしくて、流されないように辛抱するのがせいぜいで、進むことなんてできやしない。でも、それでも、と信じさえすれば、守備とは無関係のどこかできっと攻撃が繰り広げられていると思うんです。どんなに清原が落ちぶれようとも、かつて清原が打ったホームランは消えてなくならないように、かつて清原が日本シリーズで流した涙がぜったいに消えてなくならないように。 豆の木高校の豆っ子たちが点をとれなくてもあの手この手で(自分たちの手には負えないやり方で、でも、守備だけは懸命に頑張った!)決勝まで勝ち進んだように、今日もどこかで日本文理の終わらない夏が9回裏の奇跡のような猛攻をどこかで繰り広げていると思うんです、すくなくとも自分がそう信じさえすれば!!!!

HUMANITAS ヒューマニタス

人や国や時代によって違う生死や闘いの意味

HUMANITAS ヒューマニタス 山本亜季
名無し

日本人なら何度かは 「武士道とは死ぬこととみつけたり」 という言葉を聴いたことはあるだろう。 武士道の心得を記述した書「葉隠」の一節だ。 武士とは何か、生きるとは死ぬとは何か。 死を覚悟して生きるのが武士道。 生きるために闘うがそれだけではない。 もしも今の時代の日本人に「葉隠」を漫画化して 読ませたらどう感じるだろうか? (実際に、そういう漫画はあるみたいだが) 日本人の魂を見出す人も居れば、 単なる精神論の一つとみなしたり、 ただの武家社会の建前論と評する人もいるだろう。 どちらかというと現代日本ではありえない、 ある種の異文化・異世界の話と感じる人が多いと思う。 「HUMANITASU」は 世界各地で似て異なるように存在した 葉隠的な文化を描いていると思う。 人類は過去から現代まで連綿と、 地球上の世界各地で生き抜いてきた。 そして生き抜くために戦ってきた。 それぞれ独特なコミュニティを作り、 独特な文化・風習を産み育て、 それらを作るため守るために闘い、 ときに己の意思に従い、 ときに意思に反しながらも闘い、 自身や他者の生殺与奪すらも行ってきた。 それぞれの独自な文化や価値感のもとに。 「HUMANITASU」ではそれぞれ3つの短編で、 アメリカやソ連や北極圏など地球上の各所での 色々な時代での人や国家体制や大自然を相手にしての 生きるための闘いを描き、意味を問うている。 もしかしたらそれらは外国人が日本の時代劇を見て 「ワオ!ホワッツ、ハラキーリ!」 と驚いているような種類なだけの話なのかもしれない。 結局は今ではなくなった時代の話に過ぎないのかもしれないし、 もしかしたら誤解や虚構も混じっているかもしれない。 だが自分は読んで胸を撃たれたし、 日本にある「葉隠」のような文化や風習、 生きるための戦いを、人類は それぞれの異文化の中でそれぞれの形で 行っていたのだろうな、と思わせてくれた。 その闘いという行為の意味や価値については、 読む人それぞれに違う思いを感じるだろうけれど。

SHOP自分

変わるものと変わらないもの

SHOP自分 柳沢きみお
野愛
野愛

いいところも悪いところも納得できないところも含めてこの漫画がとても好きです。 どの側面も全部大好きな人間なんていないし、何を選んでも苦しみや痛みがなくなることなんてきっとない。 会社が倒産し恋人に振られ全てを失った青年・チョクがとある出会いから古着屋を経営し、出会いやわかれを繰り返し成長していく物語。 このチョクという青年がなかなか憎めないヤツなんですね。 愚直だけど優柔不断、優しすぎるけど妙にドライなところもあるし、流されやすいし小心者。でもいいヤツすぎるくらいにいいヤツなんです。心の隙間を抱えてる人たちが、チョクに集まってくる理由はなんとなくわかる気がします。 そしてこの漫画の1番好きなところは、チョクが古着屋をやりたいわけじゃないというところ!! 「古着屋だったらできるかも」と周囲の人から服を集めたりアドバイスを受けてなんとか店を開き、様々な困難を乗り越えてもなお、チョクは別に服を好きにならないのです。ギターをはじめたり、ビールの美味しさに目覚めたり、魅力的な女性と出会ったりしながら自分のやりたいことを探していくのです。 脱サラしてお店を経営するだなんて、夢でしかない憧れでしかないと思うけれど、そりゃ悩みは尽きないよね…って現実を見せてくれます。 悩んで流されて苦しんで、そんな日々の中で自分を突き詰めていくのが人生なのかもしれません。 最終話はめちゃくちゃ駆け足すぎるし、チョクの仕事や恋愛のその後が知りたくて仕方がないけど…人生死ぬまでどうなるかわかんないもんね、と自分を納得させています。 そして大市民シリーズと同じくブレないギャル批判がすげえ。とんでもねえ。 茶髪ガングロ厚底厚化粧へのヘイトスピーチがとんでもないですけどこれは柳沢きみお先生の一貫した主張なので、もうなんとも思わなくなりました。 そういう個人的な主義主張を抜いたらとても好きな漫画です。そういう主義主張がやばいなと思える世の中になったのはよかったと思います。 時代は変わったなあ と 時代が変わっても変わらないなあ 両方を味わえる作品だと思いました。わたしは好きです。

今日から未来

心理誘導テクとエモい恋心 #1巻応援

今日から未来 吉富昭仁
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

幼馴染女子から告白された女子が、恋心と共に告げられるのは「私を貴方の好きにして」という言葉だった。 思いもよらない同性の、幼馴染との恋愛という選択肢に戸惑う主人公。それに対して幼馴染は、「こんなことしてもいいんだよ」という具体的提示をして、主人公に想像させ、恋愛の実現可能性に誘導していく。 自分と恋愛することのメリットと、しないことの損失を選ばせようとする、見事な誘導テクニックで幼馴染は「自分との恋愛」を主人公の心に植え付ける。 しかしそれは、単なるテクニックではない。長年の恋心、いつも共にいながらずっと秘めてきた想いや欲望が、選択肢の中に重く込められつつ、時に我慢できないという風に行動に出る。どこまで計算で、どこまで衝動なのか……分かる様で分からない。 幼馴染の明るさと、内に秘めた重い恋情のギャップが……エモいとしか言いようがない!主人公には是非応えてやってくれよ、と言いたくなるが、まだ受け止め切れていない彼女に、幼馴染は1巻の最後でさらに仕掛ける。次は……当て馬!?(それあかん奴や、一歩間違えれば壊れる劇薬やでぇ〜)

未来人カオス

ふたりの男の友情の行く末を描くスペースオペラ

未来人カオス 手塚治虫
一日一手塚

近未来。須波光二と大郷錠は互いに銀河総合アカデミーへの入学を志す親友でした。しかし優秀な須波へ密かな嫉妬心を抱く大郷はとある陰謀に利用され、なんと須波を殺害する計画に加担します。謎の存在オパスの力によって姿を変えて蘇生した須波は、宇宙移民局の局長となっていた大郷に見つかり流刑星へ放逐され、カオスと名を変えて新たな人生を送る…という怒涛の冒頭部が読み応え抜群でした。 物語は宇宙の果てでさまざまな異星人と交流しながら生き延びるカオスと、地球で陰謀に巻き込まれながら立身を図る大郷の視点で進んでいきます。 大郷も一見救いようのない邪悪に思えますが、決して強い人間ではなく、心の弱さから人を恐れ、悪事に手を染めています。生き返った須波を殺さず流刑にしたことからも、彼がどんな男なのかよくわかります。きっと2度は親友を殺せなかったからでしょう。常に後悔・不安・罪の意識に苛まれながらも、生きていくためにギリギリの選択として悪を為しているのが大郷なのです。 須波との友情を手放し、他人を拒絶し続けた孤独な大郷。広大な宇宙に放逐されながらも生に執着し、多様な宇宙人と信頼関係を築き上げたカオス。 ふたりのあいだにあった友情と信頼は一見消え失せてしまったように見えます。互いに憎しみ合い、スキあらば殺そうとする中盤の展開は壮絶そのもの。 だからこそクライマックスでカオスと大郷が最後に見せる表情には目頭が熱くなります。最終ページには「第一部完」とありますが、その後続編などは描かれなかったよう。 友情とは何なのか。ふたりの関係性がどこに着地するのか。壮大なテーマと世界観、もっと見ていたかったと思わされました。

聖骸の魔女

キレーな魔女のおねーさんに翻弄されたいひと向けファンタジー

聖骸の魔女 田中ほさな
ANAGUMA
ANAGUMA

主人公のニコラは「浄会」に奉仕する修道士(童貞)。ひょんなことから人類の仇敵である魔女と次々契りを結んでいき(重婚)、悪しき魔女を魔女の力によって打ち倒す旅に出ます。 ちなみに彼女たちはニコラの体液を摂取することで真の力を開放する変身、「女神変成(アドベント)」ができるのです。最高ですね?どんな体液かは読んで確かめてほしい。 魔女の力を使うアクションのカッコよさはもちろん、魔女たちとニコラの愛の行方も物語の重要な焦点です。 ニコラと契りを結ぶ魔女3人は高飛車お嬢のエゼル、男勝りのウプスラ、根暗気味のミュリッタとみな個性的。禁欲生活を送るニコラは常に振り回されていますが魔女という割にはみなピュアなところがあってギャップがかわいいです。 中世ヨーロッパの世界観も作り込まれていて読み応えがあります。歴史上の慣習や社会情勢の描写はリアリティ抜群。 個人的にツボだったのが用語解説のコーナーで、本格的な解説かと思いきやネタに全振りしたものもあって笑っちゃいます。イチオシは「魔女ガチャ」の項目。業が深いね。 アクション、ロマンス、世界観。三拍子揃ったファンタジーが楽しめますよ!

九段坂下クロニクル

日本沈没チームによるオムニバス短編

九段坂下クロニクル 一色登希彦 元町夏央 大瑛ユキオ 朱戸アオ
ひさぴよ
ひさぴよ

2011年をきっかけに取り壊された神保町にかつて存在した九段下ビル。築80年の歴史ある建築物を舞台に、4人の作家が、それぞれの時代の人間ドラマを描いていく作品です。ビルの場所は神保町ということもあり、漫画家とも少なからず縁のあったビルだったことが伺えます。 執筆している4名の作家さんですが、一色登希彦さんがスピリッツで「日本沈没」を連載していた時のスタッフが、元町夏央さん(元夫婦)、大瑛ユキオさん、朱戸アオさん、という繋がりがあります。(私は勝手に日本沈没チームと呼んでますが) 収録作 『スクリュードライブ らせんですすむ』一色登希彦 『ごはんの匂い、帰り道』元町夏央 『此処へ』朱戸アオ 『ガール・ミーツ・ボーイズ』大瑛ユキオ いずれの作品もそれぞれの作家さんの持ち味が感じられる短編です。なんだかんだ一色節が好きなんですけど、やはり今オススメするとすれば朱戸アオ先生でしょうか。朱戸アオさん目当てで、この本を手に取る人も少なくないと思いますが、インハンドやFinal Phaseより以前の作品も読みたい、という方は読んで損はありません。この本の中で最も大きなドラマを描いてましたし、ひときわ記憶に残る作品でした。