少年アシベ

少年アシベ

いつも元気な男の子・アシベが、ある日、道で拾ったでっかい魚は、アザラシの赤ちゃんだった!ゴマちゃんを迎えたアシベ一家と個性的な仲間たちが繰り広げる愉快な毎日。なんども読み返したくなるほのぼのワールド、第1巻です。
同棲時代

同棲時代

売れないイラストレーターの次郎と、小さな広告会社に勤める今日子は、デザイン学校の同級生。初めてデートをした夜から3日後、同じ屋根の下で暮らし始めた。毎日をのほほんと暮らす二人は、仕事も家庭も性も曖昧にしていられるのは同棲しかないと思っている。次郎23歳、今日子21歳――。このままでいいのだろうか…。
妖怪風土記

妖怪風土記

妖怪が元気だった奈良時代、優しくて可愛い少女・置染鯛女(おきそめ・たいめ)ちゃんは、大蛇に食べられそうなカエルを助けるために、大蛇と結婚する約束をしてしまう。そして家にやってきた大蛇を、戸締まりして回避した鯛女ちゃんは、その翌日、おじいさんに捕まったカニを、お金や着物を差し出して助ける。その夜、再びやってきた大蛇が、屋根を突き破って家に侵入し、鯛女ちゃんは大ピンチに……!?
ハニー・ハニーのすてきな冒険

ハニー・ハニーのすてきな冒険

ハニー・ハニーの飼っている子猫のミミーが、フローレル姫の指輪を食べちゃった!おかげでハニー・ハニーはみんなに追いかけられることに。だって、フローレル姫はその指輪を持ってきた人と結婚するって言うんだもの。ミミーの指輪をめぐってキュートな女の子、ハニー・ハニーの大冒険がはじまった!!
たか
たか
2020/11/26
やっぱり笠太郎先生はいい…!
camera花板虹子がすごく良かったのでこちらも読んでみたのですが、全3巻で浪人が蕎麦屋として生きていくまでの道のりがしっかりまとまってて面白かったです。 侍としてのプライドを捨てきれない井左衛門は、金を工面するあてがなくなり妻に妾の真似事をさせるや否や…という段階になってようやく蕎麦屋として働くことを決意する。 始めのうちこそプライドが邪魔して「こんなんやってられるか!」といきり立っていたものの、あるきっかけで髷を町人で流行りの型に変えてからは一転して謙虚で実直な男として町人の世界に馴染んでいくところが笠太郎先生らしくて好き。 井左衛門が蕎麦屋として道を歩んで行く傍らで、侍の子として育った息子の丁稚奉公先での試練や、同じく侍で士官先を失った義弟の末路、今際の際の実の母に会いに行く話などがたっぷり盛り込まれていて、本当に全3巻なのかという読み応え。すごい…! 井左衛門が独り立ちの面倒を見ることになった、元小普請で不器用で楽天的すぎる水森のエピソードは脱サラの成功パターンを見ているようで楽しかった。 奥さんが用立てた最後の4両でなんとか食っていくため、家族総出で奥さん自慢のお稲荷さんを作るシーンはグッとくる。(水森は調理の腕はダメダメだけど商人としての才能があったというのも良い) そして最終話で井左衛門は新たな士官先からのオファーを断り蕎麦屋として生きていくことを選ぶ、まさに「侍やめます」のタイトル通りのエンディングが鮮やか。 銀平飯科帳といい、なんで江戸のご飯ってあんなに美味そうなんだろう…とりあえず今日は富士そばです。
かつみ

かつみ

高校1年の森田かつみ。厳しい自然の中で逞しく、活動的なオテンバ娘。かつみの家は奥羽山脈の山間にある小さな村で、冬には2メートルもの積雪にみまわれる豪雪地帯。ほとんどの家が農家で、冬の間、男たちは都会へ出稼ぎに出る…。そんな習慣のもと、東京へと出ていたかつみの父親が、正月休みで帰省するのだが、東京で知り合った青年・北川育夫という男を伴っていて…?
侍やめます

侍やめます

元侍、町人修行奮闘記!父親として、夫として、人間として、熱い涙を流した時、支えあう確かな家族の姿があった──。真面目にコツコツと努めて、剣術指南役にまでなった鮎川井左衛門。順風満帆……のはずが、突然の藩お取り潰しで無職の浪人に。なんとかもう一度仕官して、侍としての矜持を保たねば!息子に父親の威厳を示さねば!焦り苛立つ井左衛門だったが……。※小池書院刊行のコミックスを分冊しています。
新編 性悪猫

新編 性悪猫

「性悪猫がおりまするそろそろ恋に慣れた年頃なので恋を手柄と勘定します」――日々生きる中、湧き起こりぶつかり合う感情たちを、猫の体、猫の目を通して詩的に描いた傑作――。

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たか
たか
2020/11/26
やっぱり笠太郎先生はいい…!
camera花板虹子がすごく良かったのでこちらも読んでみたのですが、全3巻で浪人が蕎麦屋として生きていくまでの道のりがしっかりまとまってて面白かったです。 侍としてのプライドを捨てきれない井左衛門は、金を工面するあてがなくなり妻に妾の真似事をさせるや否や…という段階になってようやく蕎麦屋として働くことを決意する。 始めのうちこそプライドが邪魔して「こんなんやってられるか!」といきり立っていたものの、あるきっかけで髷を町人で流行りの型に変えてからは一転して謙虚で実直な男として町人の世界に馴染んでいくところが笠太郎先生らしくて好き。 井左衛門が蕎麦屋として道を歩んで行く傍らで、侍の子として育った息子の丁稚奉公先での試練や、同じく侍で士官先を失った義弟の末路、今際の際の実の母に会いに行く話などがたっぷり盛り込まれていて、本当に全3巻なのかという読み応え。すごい…! 井左衛門が独り立ちの面倒を見ることになった、元小普請で不器用で楽天的すぎる水森のエピソードは脱サラの成功パターンを見ているようで楽しかった。 奥さんが用立てた最後の4両でなんとか食っていくため、家族総出で奥さん自慢のお稲荷さんを作るシーンはグッとくる。(水森は調理の腕はダメダメだけど商人としての才能があったというのも良い) そして最終話で井左衛門は新たな士官先からのオファーを断り蕎麦屋として生きていくことを選ぶ、まさに「侍やめます」のタイトル通りのエンディングが鮮やか。 銀平飯科帳といい、なんで江戸のご飯ってあんなに美味そうなんだろう…とりあえず今日は富士そばです。
影絵が趣味
影絵が趣味
2019/01/19
ほんとうの優しさとは何か。
壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。 森敦『意味の変容』より ショージ秋山の『アシュラ』が人肉食などの過激な描写により世間からの非難が殺到して有害図書指定を受けてから、もうずいぶんとながい月日が経った。有害図書とはじつにセンセーショナルな言葉である。事実、ジョージ秋山は有害図書指定を受けて一躍時の人となったようである。けっして『アシュラ』という作品そのものが話題にされたのではなく、導入の人肉食の挿話と有害図書ということばかりが人目に浮上して晒されてざわついたようである。まさにセンセーショナルな言葉が問題を生じさせ、そうして生じさせられた問題がまたセンセーショナルを呼ぶ、むなしい言葉の空転である。そもそも問題など初めからどこにもなかったのである、誰も『アシュラ』など読んではいなかったのだから。読んだという人が仮にいれば、その人は、そおっと、その本を慈しむように閉じるだけである。 ほんとうの優しさとは、いったい何であろうか。たとえば、困っている人がいたら助けてあげることだろうか。それとも、子供の心の成長に害を与えそうな本を予め取り除くことだろうか。私はそのどちらともをひとしくほんとうの優しさだとは思わない、それらがまったくもって善行のひとつに数え挙げられ得ないとは言わないが、私はそれらをひとしく一時的な対処であると思う。あるいは、困っている人が目の前にいて、助けてあげたい気持ちはあるのだが、自分にはそんな余裕のない場合はどうなるのか、それはけっして優しさではないと言うのか。もしくは、けっきょくは共倒れになるのを承知で人助けにでる場合はどうなるのか、それはほんとうに優しさであると言えるのか。そもそも、私たちにとって困っている人とはいったい何なのか、子供にとって害になるものとはいったい何なのか、なにか仮にも定められた平均値のようなものがあり、そこから陥没しているものを平均値にならしてあげることはほんとうの優しさなのだろうか。 こうまでして、まわりくどく優しさというものについて言及してみるのは、私は他でもない、この有害図書に指定された『アシュラ』からたいへんな優しさを感じたからです。この有害と言われた『アシュラ』から滲みでる優しさとはいったい何なのだろうと思うのです。もしかすると私の頭が狂っているのかもしれません。 アシュラはまさに世上の謂うところの崇高なもの美麗なものからはかけはなれた怪異なもの頽廃したものとしてまず私たちの前に姿を現します。それは仮に平均値というものを設定すれば陥没した存在としてあることになるでしょう。それからアシュラは人をも殺める壮絶な人生を経て、さいごには法師に導かれて仏門に入り、「命」という名前をはじめて授かることになる予定だったのですが、その結末は連載の中止により叶わないものとなりました。しかし、アシュラが導かれることになる仏門とは、宗教とは、私たち人間にとってひとつ崇高なものであるでしょう。つまり、アシュラは怪異なもの頽廃したものを経て、奇遇ながら、その反対概念であるところの崇高なものに辿り着く。しかし、それでは、壮麗なものとはいったい何なのか。怪異なものも、頽廃したものも、崇高なものも、美麗なものも、どれもひとしく壮麗なものとは似ても似つかないのです。私には壮麗とは「命」そのものであると思います。あるいは怪異であったり、あるいは頽廃していたり、あるいは崇高であったり、あるいは美麗であったり、あるいは怪異から崇高に転じたりする人生の奇遇さそのもの、もっといえば、地球の奇遇さそのもの、この宇宙の奇遇さそのものであると思うのです。怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉は壮麗な「命」そのものを測るために仮に定められた単位でしかないと思うのです。そして、アシュラは「命」と名付けれらたとき、怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉から解き放たれて自由になり、言葉や概念や単位のベールを介してではない壮麗な「命」そのものとしてはじめて見られるようになったのではないかと思うのです。 『アシュラ』から滲みでる優しさとは、この壮麗な「命」そのものを言葉や概念や単位のベールを介してではなく、じかに直接直視しようとする試みにあるのではないかというような気がしています。それは平均値も陥没点もありえない、底の最底から、すべて有象無象の「命」そのものがいっせいに自然に盛り上がり膨張して炸裂していくかのような凄まじいまでの肯定の姿勢であると思います。そこにはあるいは自然があらゆる「命」に強いる死すらも含まれる凄まじいまでの肯定の姿勢。私はこの肯定の姿勢をほんとうの優しさと言いたい。あるいはその肯定の姿勢とは、ありとあらゆるものは、何かの枠組み(言葉や概念や単位といったもの)に括られることなどあり得ず、すべてがそれぞれにちがっているということだけにおいてはひとしく肯定されうるということでもあるかもしれません。 ところで、とうとうアシュラには与えられなかった「命」という名前をジョージ秋山は自身の息子に与えることになります。そのことについては、『アシュラ』とは違った観点でまた素晴らしいマンガといいたい漫画家二世をインタビューする田中圭一の『ペンと箸』 http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1742 によく描かれています。寡黙で厳しい印象であった父親ジョージ秋山に、大人になった息子さんはある日いうのです。 「オレの名前の由来、命を大切に、じゃないよね」 「じゃないよ」 「命がけで生きろ、だよね」 「ああ、そうだ」 私はここを読んだとき、もう、涙が止まらなくなって大変なことになりました。その後、息子の命さんは『アシュラ』をアニメ映画化することになります。そのキャッチコピーが「眼を、そむけるな」であったことにも涙したことを付け添えておきます。ほんとうの優しさとは、まさに、何事からも眼をそむけないよう試みることであると思うのです。
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