名無し
1年以上前
第一巻あたりは、この漫画は本当に連載になるの、 本当にこんな題名でいいの、みたいな話。 第二巻では、これで連載続くの、単行本出るの売れるの、 第三巻では、もっと売れるのにはどうしたらいいの、みたいな。 そんな話を酒席で、くだをまきながら話す漫画。 この漫画は、あくまでもフィクションであり、欄外に 「実在の人物・団体・地名等とは一切関係ない事を祈る」 とか書かれていたりするフィクション作品なんだけれども、 出演キャストは相当に豪華、そしてリアル? 話の半分くらいに誰もが知る超大ヒット漫画 「北東の県」の原作者のV論尊先生が登場したりする(笑)。 そしてV論尊先生との名コンビ激画家で 夜9時半には寝てしまう劇画の大御所・池G先生も登場。 さらに直K賞とかED川乱P賞とか受賞している 超巨匠小説家・T橋K彦先生まで登場する。 漫画業界の超豪華大物を漫画的にギャグネタにしている のだけれども、それゆえにというかなんというか 全3巻での唐突な終わり方には 作品中ではギャグにしているけれども 洒落になったりならなかったりとか、 色々あったのかなーなどと想像してしまう。
第一巻あたりは、この漫画は本当に連載になるの、
本当にこんな題名でいいの、みたいな話。
第...
影絵が趣味
影絵が趣味
1年以上前
手塚治虫、本当に恐ろしいひとです。いちど迷い込んだがさいご、たぶん死ぬまでこの迷宮とお付き合いしなければならない。そもそも、手塚のライフワークだった『火の鳥』ひとつだけにしても壮大な迷宮なのに、周辺作品から辺境作品まで、なにしろ数が膨大すぎる。 私は『ブラック・ジャック』以降(劇画ブームに押されて人気を失っていた手塚がブラック・ジャックをきっかけに再評価される)の作品から手塚に入門したクチですけども、だいたい再評価とかそういうのは普通は本人が死んでから成されるものだと思いますが、手塚は稀有なことに生きているうちから古いものと見なされ、またしばらくして手塚はやっぱり凄かったと言われるわけです。その仕事ぶりから超人のように言われること数多ですが、じっさいに常人ではまず不可能なことに人生を二回転もしてしまっている。 私も後期の手塚からふらふらと迷宮に迷い込み、あるとき、ひょんな抜け穴から彼の初期作に触れたんですけども、まあ、腰を抜かすほど驚いた。それこそ人生を二回転して生まれ変わったような衝撃を受けたんです。まず『メトロポリス』もそうですけど、絵が驚くほど巧い。どのコマも一枚画として額に入れて飾りたくなるぐらい構図が精巧としていて、細部の曲線はペンの抜き差しひとつびとつに色気を感じるほどの。後期の手塚が物語の経済性と重層性を重視するためにやむなく捨てたものがここには宝石のように遺っていたんです。しかも、ただ巧いというだけではない。そこには苦渋の跡、困難の跡、混沌として不都合な現状をより良くして行こうとする軌跡がみられるんです。後期の手塚は自身の形作ったマンガの記号体系を経済的に活用して重層的な物語を量産していきましたが、初期の作品には新しい制度をイチから築いていこうとする、いままさに未知の何かが生まれようとするスリリングさがあります。それこそツルハシで洞窟を掘って探検していくかのような過酷さと冒険者的なロマンがある。 手塚治虫の迷宮に迷い込むことをオススメします。過酷で、それ故にやり甲斐があり、何よりめちゃくちゃ面白いのですから。
TKD@マンガの虫
TKD@マンガの虫
1年以上前
ドフトエフスキーの同名小説を手塚治虫が漫画化した作品ですが、まず驚くべきことは文庫本で約1000ページ以上ある原作を実験的なコマを使った省略方法や圧倒的な構成力でたった131ページにまとめ上げているという点です。 ストーリーや登場人物の役割などを一部アレンジはしていますがおおよその筋道は追えるようになっており、またストーリーを追うだけでなく登場人物たちの切迫感や物悲しさをあくまで子供に読んでもらうためのものなのでコミカルな描写も入れながら構図やセリフで見事に表現しています。 特にラストの見開きページでは、それまでの主人公ラスコルニコフの個人的な物語から視点が広がり世界全体の様子が描かれますが、これを絵の力のみで悲劇的にも喜劇的にも取れるように描いており、手塚治虫の表現者としての圧倒的な才能を垣間見ることができます。 私は先に原作を読んでから今作を読みましたが、未読の方でも全く問題はないと思います。また、原作を読んだという方にも手塚治虫が罪と罰をどのようにまとめあげたのかという点と原作とは違ったラストをどう読み解くかどういう点でも非常に興味深い作品になっています。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
1年以上前
中上健次は、戦後文学界に突出した小説家である。 漱石や鴎外、谷崎や三島に比肩するほどの、我らが時代の作家だ。 その中上が、漫画原作のためオリジナルに作品を書き下ろす。描き手は『迷走王 ボーダー』(原作:狩撫麻礼)のたなか亜希夫…このニュースに触れた時、心が震えた。「真正の小説家が、本気で漫画に立ち向かうのか。遂に漫画は“そこ”まで来たのか」と。 結果は、拍子抜けするような失敗であった。 だが、これ以降現在に至るまで、中上健次のような才能が、真っ向から「漫画」に挑んだことはない。 その意味で、本作は「伝説の失敗作」である。 作品内に乱反射するテーマを見れば、中上が本気であったことは間違いない。たなかも渾身の仕事で応えている。 しかし、マイク・タイソンまで繰り出したその「漫画」は、まるでこれまで存在した劇画のパロディのように上滑りした印象のまま、未完に終わった。 たなか亜希夫であるなら、盟友・狩撫麻礼との諸作は当然として、石井隆と組んだ『人が人を愛することのどうしようもなさ』や、ヒット作『軍鶏』(原作:橋本以蔵)のほうが、明らかにそのマリアージュは成功している。 なぜ中上健次ほどの巨大な才能がこんなにも不格好な空振りをしたのかを考えるのは、興味深い比較文学論になりえるだろう。 とにかく、これだけははっきり言える。 「漫画は“そこ”をとうに超えてしまっていたのだ」と。 アクション・コミックス版『南回帰船』1巻のあとがきに、中上は書いている。 “「南回帰船」はオデッセウスのように自己発見の旅に出るその少年の叙事詩である” 刊行当時、自分はこの一節を読んで、「おお、これは狩撫麻礼×谷口ジロー『LIVE!オデッセイ』へのオマージュ、あるいは挑戦なんだな」と思った。狩撫とのコンビで有名なたなかと組んで、「オデッセウス」とか「自己発見の旅」というなら、当然そうなんだろう、と…。 だが、それは間違っていたようだ。 中上健次は、たぶん『LIVE!オデッセイ』を知らなかったのだろう。 惜しい。 もう少し中上が、自らが挑むジャンルへの知識と執着を持っていれば、結果は違っていたかもしれなかったのに。 フォークナーがハワード・ホークスと組んで、ヘミングウェイの原作を映画化した『脱出』やチャンドラー原作の『三つ数えろ』が出来たような、そんな「伝説」になっていたかもしれないものとして、自分は今も『南回帰船』を忘れられずにいるのです。 以下は、余談として。 『南回帰船』の原作は、散逸していた中上の原稿を収集した「劇画原作小説」として単行本化されており、その監修者である大塚英志による「解説」もネット上にはある。中上が目指した「劇画」と大塚原作の資質は随分と異なるのだが、検索してみるのも一興だと思う。