ラッキースケベと相反しながら共存する男の理想にコメントする

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名無し
1年以上前
漫画家の先生の中には、エロ漫画を描きたくて 描いている人もいると思う。 描きたくないけれど描いている人もいると思う。 色んな事情から。 勝手な推測だけれどもムラタコウジ先生は とにかく描きたい絵を描く先生なのではないだろうか? あんな構図、こんなシチュエーション、こういう展開、 エロ漫画であってもなくても、思いついたシーンを 「俺はこういうふうに漫画にしたい!」 と描かずにはいられなくなってしまう方なのでは ないだろうか? エロ漫画なんて、とかく 「エロけりゃいいんだろエロけりゃ」 となりがちで、 良い意味?でエロエロなシーンばかりになったり、 悪い意味ではエロ以外が絵もストーリーも手抜きになったり、 そういう作品が多いと思う。 ムラタコウジ先生の「てのひらにアイを!」は エロいシーンもエロくないシーンも 高校バレーボールなのに何故かそうなってしまう AKIRAかドラゴンボールかと思うような バトル・シーンも、それらほとんどから 「こういう展開になったら  こういう絵を描かなきゃ気がすまない」 というムラタコウジ先生のノリノリ感を感じてしまう。 そして 「たかがギャグ漫画たかがエロ漫画で、ここまで描くか!」 という面白さを生んでいる。 それはそこまで描きこむ努力と描きこんで完成させる 作画の実力がないと出来ないことだし、 多分、漫画家としての労力のかけ方は 効率としては悪いんじゃないかとか、 努力や画力に対して正当な評価を 得られているのだろうかとか、 そう考えると、凄く大変なんじゃないかとか 思ったりもする。
漫画家の先生の中には、エロ漫画を描きたくて
描いている人もいると思う。
描きたくないけれど...

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名無し
1年以上前
読者が見たいものを見せるのが漫画だとしたら、 さえない男が何故かモテたりスケベな展開に恵まれる、 そういう漫画が生まれるのは必然。 それこそ多くの男性の願望だから。 ありえなければありえない展開なほど、 夢の世界を体験させてくれる価値がある。 けれど、ありえない世界はリアリティに欠ける。 最初からありえなさを楽しむ気持ちで 頭を空っぽにして読むのなら問題はないが 中途半端に常識感や倫理観、論理的展開を 入れたり入れられたら 普通はその手の漫画は楽しめない。 「てのひらにアイを!」 は冒頭から 階段曲がり角で女子高生とぶつかってしまい 転がり落ちかけた女子高生を救う、 というベタベタな展開で始まる。 これはそういう漫画ですよ、という わかりやすい始まり方をする。 しかも女子高生のパンティが手すりに ひっかかってゆるんでしまうとか(笑)。 他にも露出狂でしかない格好で 学校内を歩きまくる美人恵体女教師がいたり。 登場人物は勘違い野郎か馬鹿野郎ばかり。 もう最初ッからこの漫画は 頭を空っぽにして楽しんでね、 と読者に宣言している。 ところがこの漫画は卑怯なんである。 「おっぱいは好きな人にしか    揉ませちゃいけないんだ!」 と主人公が叫ぶのだ。 (まあ3回揉んだあとに言うのもなんだが) 「スケベ」心とは真逆で相反するが 確実に存在する男の願望「純愛」。 その相反する男の理想が しっかりテーマになっている。 そして村田先生の高い画力で、 ラッキースケベ・シーンや それ以外のシーンで、魅せてくれる絵が チョイチョイ出てきたりする。 頭を空っぽにしてラッキースケベな世界を 楽しもうと読んでいくと、 ときどきそういうスケベではなかったり スケベだけれどちょっといいシーンを出してくる。 こっちはわざわざ頭を空っぽにして読んでいるのに そういう無防備状態のところにスケベ以外の いいシーンをぶっこんできたりする。 凄く卑怯な漫画だと思った。
読者が見たいものを見せるのが漫画だとしたら、
さえない男が何故かモテたりスケベな展開に恵まれ...

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名無し
1年以上前
漫画家の先生の中には、エロ漫画を描きたくて 描いている人もいると思う。 描きたくないけれど描いている人もいると思う。 色んな事情から。 勝手な推測だけれどもムラタコウジ先生は とにかく描きたい絵を描く先生なのではないだろうか? あんな構図、こんなシチュエーション、こういう展開、 エロ漫画であってもなくても、思いついたシーンを 「俺はこういうふうに漫画にしたい!」 と描かずにはいられなくなってしまう方なのでは ないだろうか? エロ漫画なんて、とかく 「エロけりゃいいんだろエロけりゃ」 となりがちで、 良い意味?でエロエロなシーンばかりになったり、 悪い意味ではエロ以外が絵もストーリーも手抜きになったり、 そういう作品が多いと思う。 ムラタコウジ先生の「てのひらにアイを!」は エロいシーンもエロくないシーンも 高校バレーボールなのに何故かそうなってしまう AKIRAかドラゴンボールかと思うような バトル・シーンも、それらほとんどから 「こういう展開になったら  こういう絵を描かなきゃ気がすまない」 というムラタコウジ先生のノリノリ感を感じてしまう。 そして 「たかがギャグ漫画たかがエロ漫画で、ここまで描くか!」 という面白さを生んでいる。 それはそこまで描きこむ努力と描きこんで完成させる 作画の実力がないと出来ないことだし、 多分、漫画家としての労力のかけ方は 効率としては悪いんじゃないかとか、 努力や画力に対して正当な評価を 得られているのだろうかとか、 そう考えると、凄く大変なんじゃないかとか 思ったりもする。
漫画家の先生の中には、エロ漫画を描きたくて
描いている人もいると思う。
描きたくないけれど...
名無し
1年以上前
読者が見たいものを見せるのが漫画だとしたら、 さえない男が何故かモテたりスケベな展開に恵まれる、 そういう漫画が生まれるのは必然。 それこそ多くの男性の願望だから。 ありえなければありえない展開なほど、 夢の世界を体験させてくれる価値がある。 けれど、ありえない世界はリアリティに欠ける。 最初からありえなさを楽しむ気持ちで 頭を空っぽにして読むのなら問題はないが 中途半端に常識感や倫理観、論理的展開を 入れたり入れられたら 普通はその手の漫画は楽しめない。 「てのひらにアイを!」 は冒頭から 階段曲がり角で女子高生とぶつかってしまい 転がり落ちかけた女子高生を救う、 というベタベタな展開で始まる。 これはそういう漫画ですよ、という わかりやすい始まり方をする。 しかも女子高生のパンティが手すりに ひっかかってゆるんでしまうとか(笑)。 他にも露出狂でしかない格好で 学校内を歩きまくる美人恵体女教師がいたり。 登場人物は勘違い野郎か馬鹿野郎ばかり。 もう最初ッからこの漫画は 頭を空っぽにして楽しんでね、 と読者に宣言している。 ところがこの漫画は卑怯なんである。 「おっぱいは好きな人にしか    揉ませちゃいけないんだ!」 と主人公が叫ぶのだ。 (まあ3回揉んだあとに言うのもなんだが) 「スケベ」心とは真逆で相反するが 確実に存在する男の願望「純愛」。 その相反する男の理想が しっかりテーマになっている。 そして村田先生の高い画力で、 ラッキースケベ・シーンや それ以外のシーンで、魅せてくれる絵が チョイチョイ出てきたりする。 頭を空っぽにしてラッキースケベな世界を 楽しもうと読んでいくと、 ときどきそういうスケベではなかったり スケベだけれどちょっといいシーンを出してくる。 こっちはわざわざ頭を空っぽにして読んでいるのに そういう無防備状態のところにスケベ以外の いいシーンをぶっこんできたりする。 凄く卑怯な漫画だと思った。
読者が見たいものを見せるのが漫画だとしたら、
さえない男が何故かモテたりスケベな展開に恵まれ...
名無し
1年以上前
エロのない愛か、愛のないエロか。 そして愛のあるエロか。 もちろん愛のあるエロが一番(理想論として)。 けれども愛だけでエロが無い「純愛」を 神聖視する風潮は強い。 一方で愛のないエロにも逆説的に価値観はある (性欲的に)。 これが文学とか芸術なら「純愛こそ至高」な 方向でいいし、性欲は人間の本質だとするなら 「エロこそ最高」でもいいかも。 けれど連載漫画として人気を博すためなら エロが第一なほうが受け入れられやすい。 とくに、たまたまその漫画を見た人には。 なので エロを前面に出す漫画が生まれるのは当然だし、 エロエロを競いあうようになるのは漫画界の 競争として必然だし、 エロエロエロを読者もより求めるようになるし、 エロエロエロエロだけな漫画も当然に出てくる。 エロエロエロエロエロな展開だけで話を進めて 最期はエロこそ全て、で締めても文句をいう読者も いないだろうし、逆に一転して エロよりはやはり純愛だ、で締めても それなりに納まりはつくだろう。 ただ、一応の納まりはついても、 エロ抜きで漫画作品として面白い形で完成して 終わる漫画は少ないと思う。 てのひらにアイを!は、 エロ抜きでも面白く、エロ漫画としても面白い。 そしてエロ漫画であるからこその面白さが弾けまくっている。 最終巻の第5巻で、それまでのエロがエスカレートして 伏線として怒涛のように展開される。 そこに単行本書下ろしの特別漫画がダメ押しする。 結果、エロと純愛が成就している。 第5巻の最期でムラタ先生自身がこの作品を 「暴走青春列車」と評しているけれど、 暴走列車が定刻に終着駅に着いて、 でも止まれないぜ(笑)という、 突き抜けちゃっている良いオ馬鹿エロ漫画だと思う。
エロのない愛か、愛のないエロか。
そして愛のあるエロか。
もちろん愛のあるエロが一番(理想...
え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?(コミック)
コスプレをして働く人がフロアにいたら
え、社内システム全てワンオペしている私を解雇ですか?(コミック)
ゆゆゆ
ゆゆゆ
めちゃくちゃな仕事環境と業務量のなか、主人公の心を守ったコスプレの完成度はさっぱりわからないのだけど、作中でそのコスプレ&振る舞いに対し「解釈違い」と言われているのを見て、神は三物も四物も与えないのねと思ってしまった。 プログラミングも裁縫も、人間関係を円滑に進めるコツもよく知っている主人公。 さらにガチのコスプレ衣装姿を会社の人に見られても、普通に仕事ができる心の強さをもっている。 美容室で髪をサラサラにして、エステでお肌ツヤツヤにして、ネイルをサロンでバチッと決めて…が彼女にとってのコスプレらしい。 ものすごく優秀な人とは言え、職場のコスプレはどうなの?TPOは?と思ったものの、それなら和装ならOKかとふと疑問が湧いてきて。 さらにおかしな環境のせいで、おかしなことをし始めた(服装以外はおかしくない)なら、そもそも、おかしな環境を提供したブラック企業がおかしいわけで…と考え始め、混乱してきてしまった。 プログラマ向け塾がメインの舞台となるが、プログラミング知識は不要。 大変な状況にある方への処方箋というか予防薬というか、スカッとするというか、誰かと生活するうえでの心構えというか、そういうかんじの漫画だった。
くまみこ
女子中学生巫女と、神の使いのクマ
くまみこ
ゆゆゆ
ゆゆゆ
『江戸前エルフ』が好きな方は『くまみこ』も好きかもしれないなと思った。 連載もアニメ化もこちらが先みたいなんですが、知った順番が逆だったので…。 こちらは女子中学生巫女とクマ。 神の使いである、人語を話すクマのナツと祖母と一緒に暮らしている女子中学生のマチは、高校は都会へ出たいと思っている。 でも家電は使うと即壊すほど苦手(冷蔵庫は使用可)、パソコンは少し操作すればブルーどころか黒画面。 Suicaもヒートテックも知らず、クマのナツに都会クイズを出される始末。 薪割りやら、かまどで飯炊きするマチをみているとこれはどのくらい前の漫画なんだろうと思ったのだけど、ナツを見ると現代に戻される。 ナツはパソコン・タブレット・インターネット等々に詳しく、操作も問題なく、テレビも見るし、村には携帯電話の電波が届かないことも知っている。 マチ以外のムラの人たちはナツと同じくらいの知識量にみえるので、もしかしたらマチだけおかしいのかもしれない。 第一話を読んで、そんなマチが都会の高校へ進学して、都会生活をやいのやい過ごす物語かと思いきや…。 村からほぼ出ない。 出るのはナツが与える都会慣れ試練か、村おこしを望む従兄弟の手伝い(なかば強制)。 慣れ親しんだ人以外と会話は苦手で、服も巫女服・制服・ジャージくらいしか持っておらず「服を買いに行くための服がいる」状態。 なんなら村につながる橋が、割とよく崩れ落ちているように見える。村から出られない。 よく考えたらまだ中学生なんだし、そこまでして、ひとりで街なかのイオンやらなんやら行かなくても…と思うのは私が地方の田舎出身だからだろうか。 マチとナツ、二人のやり取りが楽しい。あっという間に読み進めてしまう。
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