コミックスの第9巻を読んで思ったこと。 「林ちゃんは最後の最後まで  殺す人生かす人を見定めようとしていた?」 林ちゃんが最初ッから猿の仲間だったことは 間違いないみたい。 けれども疑問に思うことは 猿の仲間だとしたら先々週号でカミングアウトするまで 体を張り過ぎだってこと。 普通に、それまでに林ちゃん自身が死んでも おかしくないリスクを侵しすぎている。 矢野口落しでも転落死していたかもしれない。 カニ歩き付近でも凍死していたかもしれない。 もっと安全確実に過ごすのが普通だと思う。 だからこそここまで林ちゃんを猿仲間だと疑わなかった のだけれども。 また、藤柴が死んで、衣服をはがして投げ落とすあたりで 演技とは覆えないほど苦しみ悲しんでいる。 そのあたりから考えると、林ちゃんは一行ど同行することで 「殺すべき人間と殺さなくてもいい人間を  同行しながら選択していたのではないか?」 と思った。 殺すべき人間(安斉・氷室)と 殺さなくてもいい人間(早乙女、宮田、佐藤)を 区別すべく同行していたのではないだろうか。 そうなると思い当たるのが、たびたび林ちゃんが 言っていた 「生きていることには意味がある」 という感じのセリフ。 もしかしたら林ちゃんは自分も含めて 極限状態で誰がどう行動するかを見て 生きているべき人、死ぬべき人を リアルに判断選別するために ここまで藤谷一行と同行してきたのではないだろうか? その結果、 「殺すべきは安斉と氷室だな」 と結論を出したので、カミングアウトを したのではないだろうか?
@名無し

その人選は原因が薬害だからだと思うよ

モンキーピークについて語ろうにコメントする
※ご自身のコメントに返信しようとしていますが、よろしいですか?最近、自作自演行為に関する報告が増えておりますため、訂正や補足コメントを除き、そのような行為はお控えいただくようお願いしております。
※コミュニティ運営およびシステム負荷の制限のため、1日の投稿数を制限しております。ご理解とご協力をお願いいたします。また、複数の環境からの制限以上の投稿も禁止しており、確認次第ブロック対応を行いますので、ご了承ください。
創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊

なぜ人は物語を綴るんだろう?

創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊
toyoneko
toyoneko

「今年読んでよかったマンガリスト」を作ったときに、今年読んだ読み切りで何が良かったかな…と思いだす中で、真っ先に思い出したのが本作だったんですよね というか、「ゼロ災でいこうっ」のシーンが思い浮かんだ(添付) 衝撃的なシーンでした 大人になっていく中で、飛行機事故を契機に、自分の「核」が創作ではなくなっていたということ(又は、自分の「核」は最初からそんなところにはなかったということ)、そして、現実を前に情熱は失われてしまっていたこと、そのことを自覚する物語 それが、本作に対する私の印象でした …が、読み返してみると、実はそうではなかった だって、主人公は、そのことを自覚しながら、それでも、創作をやめられないから 「他の選択肢がない」という理由で、やはり創作を辞めることができない 別の人生を歩めるなら歩みたいと泣くのに、それでも辞めることができない それどころか、キャロット通信は解散し、仲間もいなくなり、 誰も読んでくれない、読者すらいないのに、辞めることができない 「にもかかわらず…私は…懲りもせず」 「また繰り返す…どうして?」 「なぜ??」 たぶん、このセリフこそが、この作品の核心なのでしょう 主人公にとって、創作は、苦痛なのでしょう でも、主人公の救いは、もはや創作しかない だから、主人公は、創作に向き合い続ける 「赤羽」に登場するペイティさんが、 「やはり創らないと気が狂いそうだから創るってコトですね…」 と言ってました(増補改訂版4巻、ボーナストラック9話)、 「創作」というのは、もともと、そういうものなのかもしれないです あ、ところで、そんなふうに「創作」をやめることのできない綿本おふとん先生ですが、トーチwebで新連載とのこと!みんなで応援しようね! https://x.com/offton_w/status/1873197901478019149

本棚に追加
本棚から外す
読みたい
積読
読んでる
読んだ
フォローする
メモを登録
メモ(非公開)
保存する
お気に入り度を登録
また読みたい
※本棚・フォローなどの各アクションメニューはこちらへ移動しました(またはフローティングメニューをご利用ください)