影絵が趣味
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1年以上前
狩撫麻礼の名義でもっとも世に知られる土屋ガロンが原作をつとめているのが『オールド・ボーイ』。韓国の名監督パク・チャヌクにより映画化され、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、さらには映画大国アメリカはハリウッドでもリメイクされ、その際、それら会社間での権利関係で色々と揉め事が発生したようである。 そんな作品のほうが勝手にひとり歩きしている状況は原作者冥利には違いないが、この原作者、狩撫麻礼という名義でもっとも知られている男はじつに変な男である。まず、狩撫麻礼という名はカリブ=マーレー、つまりレゲエ音楽家のボブ・マーリーと彼の生活の拠点であったカリブ海とを掛け合わせたものらしいが、土地や名前などの固定的なイメージをペンネームに使用していながら、当の本人、狩撫麻礼という名義でもっとも知られているこの男は、土地や名前などの固定化したイメージから浮遊して逃げさるかのように極めて無記名的な存在である。いくつものペンネームを使い分けるさまは言うまでもなく、そもそもマンガ原作者であるために絵柄は作画担当に委ねられ、ひとつのイメージに定まることはない。さらにはいっさいメディアに顔を現さないために誰も彼の姿形を知らず、狩撫麻礼は彼のマンガに出てくる登場人物たちのように部屋には冷蔵庫とサンドバッグだけがポツンと置いてある、冷蔵庫の中身はすべてビールで埋め尽くされている、なんていうような妙に信憑性のある伝説だけが勝手にひとり歩きしているのである。そう、作品だけではなく、彼の存在自体も"物語"となり勝手にひとり歩きしているのである。 そもそも物語とは何か。物語とは話し語ることであり、物語の起源とは伝承にほかならない。当然のことだが、物語の伝承には著作権などなければ固有性も何らそなわっておらず、しかし当の物語のほうは極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質をもっている。著作者という概念など人類のながい歴史において近代になってようやく発生したものにすぎない。では、物語の本質とは何か。著作者という概念が発生した近代以降は、それは著作者その本人に帰依するものと一般には言われているようだが、人類のながい歴史からみた物語の場合はそうはいかない。その物語の発話者を遡って探していこうにも、その先には深淵があるばかりである。あるいは都市伝説によくあるように、その物語伝承の起源を仔細に追っていった結果がじつに身も蓋もないことであることも往々にしてあるだろう。すなわち物語の本質とは、その発生の起源ではない。物語の本質とは、むしろ、著作者を置き去りにして、極めて匿名的に、希薄にも、希薄であるが故に霧や空気のように所かまわず浸透して、あらゆる隙間を縫って各方面へひろく拡大伝播していく性質のほうにあるのではないか。それはまさしく物語が勝手にひとり歩きするということである。 そして、まさしく『オールド・ボーイ』はそんな物語の本質を貫くかのように、狩撫麻礼の名を置き去りにして、マンガというジャンルを越えて日本から韓国へ漂流し、ヨーロッパへ渡り、とうとうアメリカ大陸にまで辿り着く。しかも、ひとつひとつ国を跨ぐごとに、その物語の中身は少しずつ改変されているのである。狩撫麻礼とは物語の本質を身に纏い、世界各地をさながら無記名の幽霊のように彷徨い歩く男の仮の名前ではないか。そして、そんな男が、わけもわからずに何十年も監禁されて、そのわけを探すために街を彷徨い歩く、さながら記憶喪失のような男の後ろ姿と妙にかぶさるのである。 ところで、幽霊で思い出したのがロシア文学の代表格ゴーゴリが書いた『外套』という小説である。極寒の地、ロシアで、アカーキイ・アカーキエウィッチというひとりの男が新調したての外套を追い剥ぎに奪われて死んでしまうという小説だが、アカーキイの死後、各地でアカーキイの幽霊が現れて外套を奪っていくという噂が流れはじめる。じっさいに幽霊をみたというひとが遠い街から現れたが、その幽霊の風貌はアカーキイの姿形とはまったく違っていたという。 カリブ=マーレ―から拝借したという狩撫麻礼の名をみるたびに、私にはそれがカリブ海の南国のイメージとはどうしても繋がってこない。むしろ、なぜだか、狩撫麻礼ときくと大陸を横断してはしる極寒のシベリア鉄道を思い浮かべるのである。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
1年以上前
矢萩貴子のクチコミを投稿しようと思い、マンバの作品一覧を見たら、そのあまりの猥雑さに、ほとんど感動した。 ご興味のあるかたは、この「矢萩貴子」の名前をクリックしてみてください。 そして、そこにズラズラと並ぶタイトル(?)やあらすじの、ド直球で明け透けで奥行きのない下品さに、言葉を失っていただきたい。 その後でぜひ、この『Dark Moon』の試し読みを開いてみて欲しいのだ。 オープニングのカラーから巻頭数ページだけで、この漫画家が持つ画力の精緻で凄絶なクオリティーの高さが、まざまざと分かると思うから。 かつて、レディースコミック誌というジャンルがあった。 当初は少女マンガを卒業した読者のための、男性向けでいう「ヤング誌・青年誌」のようなくくりを意味していたと思うが、やがて多様な進展を示して、主に短篇読み切りの成人女性向けエロをメインとする一群が隆盛し、そして、BLやTLの発展と入れ替わるように、急速に衰退していった。 多くのレディコミ漫画家は少女誌デビュー後にその発表の場を移してきており、作風自体は(少し古い)少女マンガのものだった。 一方で、牧美也子や川崎三枝子、あるいは森園みるくのように、(かなり古い)劇画テイストを手に入れた作家もいて、彼女たちはレディコミ界のケン月影とも言うべき無視できない漫画家たちである。 そして、それらとはまったく異なる光芒を放つ硬質の個性として、矢萩貴子は存在したのだ。 「東京芸術大学で油絵を専攻。卒業後、絵画教室の講師や高校の美術の非常勤講師をしながらSMを題材にした同人誌を作り、1987年(略)デビュー」(Wikipediaより)だそうだ。 まるで団鬼六ではないか。 つまり、矢萩貴子は、伊藤晴雨や喜多玲子と一直線に繋がる「闇の絵師」なのである。 エロを描くという志にその身を捧げた凄腕の絵師は、歴史上枚挙に暇がないが、レディコミというあだ花なジャンルにおいては、矢萩貴子こそが無比の存在だとつくづく感じる。 ただ、現在の読者にとって「面白い」作品かと問われれば、少し言葉を濁すことになるのだけれど。 彼女を心から賞賛するまでには、私たちの時代はまだ成熟していない。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
1年以上前
かつて文庫で刊行され、数年前に復刊ドットコムで再刊された『わたしたちができるまで』という本がある。 岩館真理子、大島弓子、小椋冬美という3人の女性漫画家へのインタビューをメインに構成された好著だ。ちなみに、それぞれのインタビュアーが実に豪華なのですが、それは実際に買ったかたのお楽しみとしておきましょう。 要するに、小椋冬美は、かつてそういう存在だった。 大島や岩館と並ぶ、極めて大きな漫画家だったのだ。 今、この人の作品が語られることが少ないのは、あまりに惜しいと思うのです。 優れた女性漫画家は、詩的な言葉の操り手であることが多い。だが小椋冬美は、無言や間を描くことに長けていた。世界観が神経質ではなく、ゆったりと大きい。 これも少女マンガには珍しい独特のふくよかな描線と合わせ、今に至るまでなかなか比べる者のない、とても稀有な才能であると思う。 本書『天のテラス』は、女性誌メインで活躍してきた著者が男性誌のモーニングで発表した連作集である。そのため、男性が主人公の作品が多く、小椋冬美の「間」の豊かさを少女マンガの読者以外も味わいやすい逸品だと、自信を持ってお薦めいたします。 こういう優れた作家の漫画を読むと、本当に、80年代というのは「漫画の黄金時代」だったのだなあ…と嘆息してしまいます。 (『天テラ』自体は90年代初頭の作品です。念為)