マンガトリツカレ男1年以上前「田舎刑事」懐かしい... アフタヌーンの創刊当時あたりに掲載されていましたね。 「瞬発力はあるけれど持久力がなさそう」で思い出しましたが、湯浅ひとし名義の「B級探偵」の主人公がその設定だった。けずり武士食い物の蘊蓄が細かくていい1わかる
マンガトリツカレ男1年以上前世直しをしつつ1話に一度ちゃんと当時の江戸末期の食事事情を含んだ蘊蓄が入るマンガ この作者のマンガあんまり見かけないけどどれも面白くて読んでる気がしてるけずり武士食い物の蘊蓄が細かくていい3わかる
名無し1年以上前絵を見て 「あれ、田舎刑事の作者?」と思って 調べてみたら 湯浅ひとし、として「田舎刑事」その他を描いていらして 湯浅ヒトシ、で「けずり武士」その他を描いていらっしゃるのですね。 田舎刑事は面白かったから、けずり武士も読んでみたいと思います。 イメージとしては瞬発力はあるけれど持久力がなさそうな 作家先生という感じではありましたが。けずり武士食い物の蘊蓄が細かくていい3わかる
書肆喫茶mori店主1年以上前表紙も美しいですが、中身もメチャクチャ素敵なので、ぜひぜひ手に入れて堪能してください!!星々の城 1869年:宇宙の征服ジブリやスチームパンクファンにも読んでもらいたい19世紀SF少年活劇!2わかる
名無し1年以上前いきなりGOING STEADYとフジファブリックが流れてきてびっくりした! これはエモすぎる選曲 聴きながら読むと泣いちゃうんですけど ちなみにGOING STEADY(今は銀杏BOYS)の峯田くんは山形出身 Gino0808先生は分かってやってくれてるんだろうな ぶち上がりました!ありがとうございます!雪女と蟹を食う目指せ北海道!死ぬ前に人妻と蟹を食う6わかる
マウナケア1年以上前ある日、テレビを観ていたら都市伝説系の番組で「悪魔に魂を売ったミュージシャン」といった内容をやってました。出るかな、と思ってましたがやっぱり出ましたね、ロバート・ジョンソンの名前。彼が十字路で魂を悪魔に売り、引き換えに超人的技術を身に付けたという通説はその筋ではわりと有名。で、この話に興味を持った方にはこちらをどうぞ。この「クロスロード伝説」が真実だったら、という視点で描かれたのが本作。モノローグから入り、主人公のRJをブルーズの悪魔が迎えにいくまでの冒頭部が意味深。タイトルにもなっている「Me And The Devil Blues」の歌詞をひっくり返したような展開(歌詞は悪魔に「出かけよう」と声をかける)で、これは意識的にやっているのかな? 農夫・RJの性格も小心者として描かれ、R・ジョンソンとはイメージが違う印象。そして彼は悪魔と白人と旅に出る、というのですからあえて通説を変えていこうとしているのでしょう。著者は「アゴなしゲンとオレ物語」で有名。様々な意味で著者の違う一面が見られます。完結していないのが残念ですが…。俺と悪魔のブルーズMe And The Devil Blues11わかる
干し芋1年以上前小学校3年生の妹、千春を甘やかせないように立派な大人になれるように、 お兄ちゃんは頑張っているのです。 千春が、生まれる前に両親から『お兄ちゃんになるんだからね。』と言われそれを全うするために、お兄ちゃんは頑張っているのです。 とっても、子供らしい千春が時折すごく難しい言葉を使ったり、がんばりやさんになったりするのは、お兄ちゃんが頑張っているからなのです。 ほのぼのして、ジーンとして、心が解けます。お兄ちゃんは今日も少し浮いてるお兄ちゃんは今日も少し浮いてる10わかる
名無し1年以上前いわゆるコンティンジェンシープランとか500年経っても枕元の水が飲めるとか設定がガバガバなのが残念。 未来設定の物語は難しいものなんだな。望郷太郎氷河期世界でイラク→日本を目指す!!【モーニング最新話感想】3わかる
影絵が趣味1年以上前まず『望郷太郎』というタイトルからは望月峯太郎の名前を思い起こさせずにはいられない。いまでは望月ミネタロウとして活動している、あの望月峯太郎である。彼はやはり『ドラゴンヘッド』を境に名前をあらためたのだと思う。次の連載作の『万祝』は望月峯太郎名義ではあるが、内実は峯太郎→ミネタロウへの過渡期、もしくはミネタロウ名義の作品と位置づけられると思われる。というのは『ドラゴンヘッド』を境にして、動的で黒いコマ作りが、静的で白いコマ作りに変貌しているからである。これはマンガ家としての作家性を追求するための"閉じた"姿勢であると思う。逆にいえば、それ以前の望月峯太郎は"開いて"いた。開いて世間の荒波に揉まれる方向から、閉じて自らの作家性を研磨する方向へシフトしたともいえるかもしれない。 ところで『ドラゴンヘッド』をはじめ、あるいは岡崎京子の『リバーズ・エッジ』や『ヘルタースケルター』、新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』など、90年代~2000年代初頭のある種のマンガには、いわゆる世紀末感というか、何かが崩壊してゆく感覚、良くも悪くもそういうような時代的なスペクタクルがあった。あの時代からもうすぐ20年が経ち、来年には、なんとも荒唐無稽なことに、大友克洋の霊感まったくその通りに東京オリンピックが開催されることとなったが、辺りを見渡せば、大友が描いた雑多でゴタゴタしたサイバーパンク感あふれる近未来はどこにもなく、奇妙なまでに画一的でのっぺりとした嘘明るい光景は、本来のミニマリズムが追求する引き算的な美学における完成度の高さとはまるで無縁の心身共の貧しさからくる単なる経費削減であるし、おもてなしの心を履き違えてボランティアでオリンピックを運営しようなどと寝言をいう。ようするに世界の崩壊などは起こらずに、ただずるずると地盤だけが沈下してゆき、見てくれだけはどうにかそれっぽく体裁をととのえながらも、ただ確実に豊かさは随所から消え去っている。いっそのこと世紀末に世界を崩壊させて仕切り直したほうが良かったのではと思うほど、当時からすでに黄昏といわれていたのが、いつまでも沈みきらない夏の夕日のようにいまだ延命を続けている。あの時代には崩壊させるに足る世界がまだあった。しかし、いまではそんな舞台さえ、なにもなくなってしまった。無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、無駄を省いていたら、ほんとうになにもなくなってしまったのである。いまや望月ミネタロウのように独自の作家性を発揮する高踏派のマンガ家も安心とはいえないのではないだろうか、何しろ地盤の沈下がいちじるしい。マンガも所詮はいち産業なので、地盤がどこまでも沈下してゆけば、独自の作家性もいつしか個人の趣味と見分けがつかなくなろう。 いま、山田芳裕の『望郷太郎』は、この"なにもない"ところから新たな一歩を踏み出そうとしている稀有なマンガであると思う。キャリアを重ねて閉じてゆく作家が多いなかであえて開いてみせた山田芳裕の冒険者的な勇気に敬礼を捧げたい。マンガ表現の限界を探求する閉じた作家が重要ないっぽうで、また彼らは開いた作家によってもその地盤を支えられているのである。望郷太郎"なにもない"ところから…9わかる