三味線弾いていい?存在賭けて鳴らす音
大切な誰かに教わった物。最早分かち難く身についた行為。大好きなそれを、奪われるとしたら……。 ♫♫♫♫♫ バンド活動に飽きていた高校生・伊賀は、小さな年上の女の子・なずなの津軽三味線の音に触れる。 そのとんでもない音に魅了された伊賀は、なずなに三味線を教わろうとするが、なずなはやると言ったりやらないと言ってみたり……。 伊賀が頑なななずなの心の殻を、少しずつ優しく剥いで行くたびに見えてくる、なずなの心の傷は痛々しい。 全3巻中2巻を費やして、なずなが三味線を「弾きたい」と「弾けない」を行き来する物語は余りに繊細で、苦しい。しかし、なずながそのドラマの重さから解放され、自分らしく三味線を鳴らす時、物凄いカタルシスに満たされる。 ♫♫♫♫♫ 自分の三味線の音は血であり、過去であり、自己であるなずなにとって、三味線を奪われる事は、己の存在を否定される事だった。 例えば同じ津軽三味線漫画『ましろのおと』で、祖父の音を捨てて、自分の音=自分の存在証明を得るべく迷走する主人公の澤村雪と、苦しむポイントは違うが「自分の音=自己を鳴らす」という命題は共通している。 むしろ澤村雪の姿は、なずなの姉を神格化し、なずなの姉の様になりたくても叶わなかった、伊賀と同学年の橘ハルコの方に重なる。 『ましろのおと』に興味のある方は、2008年に同様の命題にチャレンジした『なずなのねいろ』も是非、読んでみていただきたい。
ナヲコ先生の作品を読んでくださる方がいて、本当に嬉しいです!
音に関しては仰るとおりで、漫画で音は表現できなくて、その代わり音=自分・自分の好きなもの・解放された自分らしさという事を徹頭徹尾表現するので、ブレなく強い表現になっているのだと思います。
容姿に関しても驚きの内容ですよね。でもああいった設定の発想は、成人誌で「実用的でない」作品を発表されていた先生ならではなのかもしれません(『からだのきもち』に纏まってます)
演奏シーンよりも、なずなの心の動きをじっくりたっぷり描くことで逆に音楽が見えてくるのが本当にすごいなと思いました。なずなの容姿に意味を持たせたのもすごい…漫画だからできる表現が存分に詰め込まれているなあと驚きました!
他の作品も読んでみようと思います、あうしぃさんのクチコミきっかけなので感謝です☺️