足摺り水族館

言葉で説明しづらい、不思議な読後感に浸れる

足摺り水族館 panpanya
鳥人間
鳥人間

panpanya先生の作品は、不定期だけど繰り返しパラパラと読み直したくなる、アナログで手元に置いておきたいマンガのひとつ。 その商業第1作『足摺り水族館』。 個人作品を再構成しつつ、未収録作品を追加されたもの。この雑多な感じが魅力だなーと思う。panpanya先生といえば現実と非現実をフワフワと漂いながら行ったり来たりするような、不思議な世界観が魅力。 表題作「足摺り水族館」は作中で3編に分かれて描かれている。古めかしい栞に誘われて不可思議な空間へ向かう。中編は写真と文章で日記みたいな感じ。後編はなんだかもう集大成といった雰囲気。 他にも様々なテイストの作品があって面白い。 お母さんからのメモに全く読めない謎の言語で書かれた品物が一つあり、それをなんとかして買いに行こうとする「完全商店街」。木炭絵?っぽい画風の「イノセントタワー」(2つ目の京都タワーに向かうお話)。不可思議な空間を少年が歩いていく描写で台詞が一切ない「無題」。喋るし動く自動販売機のお話「マシン時代の動物たち」などなど多種多様。 これ以降の作品も、もちろん素晴らしいけれど、本作はとくに各作品個性が際立っている気がする。まさに混沌。中には合わない作品もあるかもしれないが、「読んでよかったなー」と思うエピソードがきっとみつかる、はず。 そして「無題」がさっぱりわからないので誰か教えてほしい……(笑)

なお先生は怒らない

漫画家になりたいすべての凡人が読むべき漫画

なお先生は怒らない 大塚志郎
mampuku
mampuku

 20代後半にして漫画家志望の悩める青年、受賞に至るために彼に何が足りないのか? 「漫画家家庭教師」を名乗る謎の人物(なお先生・主人公)による分析と指導で目からウロコがぽろぽろな漫画です。漫画家志望に限らずすべてのクリエーターにとっても勉強になるのではないかと。 https://mochicomi.net/productions/311 ・5年周期で一周するジェネレーションギャップ(音楽だと7年くらいと言われてます) ・幅広いジャンルをインプットすることで「バレにくくパクる」 など本当にそのとおりで頷きっぱなし。  狂言回しの漫画家志望青年は、ボカロやアニソン、'00年代初頭のJpopばかりを聴き、またその頃の大ヒット漫画ばかりを好んで読む典型的な20代後半のクリエイター志望として描かれています。現実世界でいうと、ナルトやブリーチ、ハガレン、宇多田ヒカルやポルノグラフィティのような世代でしょうか。(当方、異業種ですが確かに体感的に多いです)  かの宮崎駿も「アニメだけを見てアニメを作るな」と言っていました。  忘れてはならないのは、全オタク人口のうち、コンテンツを生み出す側のオタクはほんの2%程度(要出典)しかいないということです。それだけ一握りの、クリエイティブを志す者が、凡百の自称オタクと同レベルの消費行動をしていては成功など夢のまた夢ということです。自戒を込めて、毎日読み返したい漫画です。

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

移民、青春、そして故郷

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語 ビルギット・ヴァイエ 山口侑紀
たか
たか

1980年代、内戦の続くモザンビークから東ドイツへ渡った3人の若者たちが主人公。 東ドイツで青春時代を過ごした経験がそれぞれの「故郷」との関係を変えることになる。 党に理想を抱く真面目なジョゼ 未来がないことを理解し遊びを大切にするバジリオ 残された家族のために働くアナベラ 本文によると、この3人は作者がインタビューを行った実在のドイツ移民たちを「結晶」したものなのだそう。 彼らの東ドイツ生活は、先進社会主義国の雰囲気・先のない単純労働・移民差別で窮屈なんだけれど、決してそれだけではなかったというのがとても印象的だった。 女の子と遊んだり、恋人に出会ったり、勉強を頑張ったり、映画・小説・ファッションを楽しんだりしっかり青春もしていた。 (東ドイツで出会った絵本や映画、アイスクリームのラベルなどが、フォトコラージュのように描かれるページがとても素敵) 鬱屈した遠い異国の地で、彼らなりに日々に楽しみを見出し生きている姿は読んでいてとても眩しい。 だからこそ、移民であるために訪れた残酷な青春の終わりには強い喪失感を覚えた。 それぞれが迎えたその後の人生は、日本でずっと暮らしている自分の想像も及ばない深い怒りと悲しみに満ちていて、彼らの感じた激しい想いが、ページにぶつけられたインクの色と形とリンクして訴えかけてくるのが壮絶。 故郷を離れたことがある人も、ない人も。 この本は故郷とは何かを見つめ直すきっかけになる本だと思います。

わたしが「軽さ」を取り戻すまで  “シャルリ・エブド”を生き残って

テロを生き延びたマンガ家が示す「描く」ことの意味

わたしが「軽さ」を取り戻すまで “シャルリ・エブド”を生き残って 大西愛子 カトリーヌ・ムリス
ANAGUMA
ANAGUMA

ここ10年くらいのあいだに、自伝やエッセイぽいバンドデシネのスタイルが、フランス語圏を中心に広く市民権を得ています。 ヨーロッパのマンガといえばメビウスやエンキ・ビラルのような、ゴツめのSFのイメージがいまだ根強い気もしますが、もっと生活に身近なテーマで軽く読める作品が近年増えているんですね。 そのなかでもダントツに「重い」実話マンガが本作。 新聞社シャルリ・エブドで風刺マンガ家として仕事をしていたカトリーヌは、打ち合わせに遅刻したことで偶然ISのテロリストの襲撃から逃れ「生き延びる」ことに。 その日から彼女の苦しみが始まります。 昨日まで一緒に机を囲んでいた仲間のマンガ家たちがみな殺されてしまったというのに、これまで通り世の中を笑い飛ばす作品を描くという、それこそ冗談のような状況で仕事をしなければならないのです。 さらに当事者のカトリーヌの心は置き去りのままに、「JE SUIS CHARLIE(わたしはシャルリ)」の鬨の声が各国であがり、いち風刺新聞であったシャルリがテロとの戦いの急先鋒に祭り上げられ世界デビューする始末。(これも悪い冗談!) そしてカトリーヌは記憶を失ってしまいます。 シャルリ・エブドがなぜ差別行為とも取れるようなドギツイ風刺を行うのか、どんな存在なのか、なぜISがターゲットにしたのかなど日本ではなかなか想像しづらい部分がありますし、いい/悪い、被害者/加害者といった単純な構造で説明できる問題ではないと思います。 僕が心を打たれたのは、彼女が再びペンを取って本作に描いたのが、犠牲となった同僚のマンガ家たちが、生きて、誠実に表現をしていた姿だったことです。 シャルブやヴォランスキといったレジェンド作家たちが築き上げてきた、シャルリというマンガの牙城に自分も加わっていたという誇らしさが表明されているのです。 壮絶な境遇におかれた彼女にしか、この「描くこと」への誇りを「重さ」をもって、世の中に投げかけることは出来ないように思います。 手塚治虫先生は『マンガの描き方』のなかで差別を行うことの卑劣さと、創作することの尊さの両方を説いています。 カトリーヌはその混沌の渦中で命を拾い、創作の手綱と仲間を失いました。 彼女は今も立ち直れていないといいます。 それでも立ち上がるために「軽く」あろうと、描くことをやめず、「美なるもの」を求める彼女の精神は、この世界で間違いなく尊ばれるべきもののように思えるのです。

愛がなくても喰ってゆけます。

食道楽「YながFみ先生」の日常!

愛がなくても喰ってゆけます。 よしながふみ
たか
たか

 よしながふみ先生の描く漫画は、念入りに食事・調理シーンが描写されていることが多い。  西洋骨董洋菓子店、きのう何食べた?は料理をメインテーマにしているから、描写が細かいのはもちろんのこと、法律がメインテーマの1限めはやる気の民法でも藤堂が田宮のために朝食を作ったり、しっぽりした居酒屋で誕生日を祝うなど表現が際立っていて、「ああ、この人は本当に好きで食事シーンを描いているんだな〜」と、こだわりぶりに感心していた。  だからこそ、よしながふみの描く食事をテーマにした「半エッセイ的漫画」があると知った瞬間、Amazonで即注文…!(※紙しか出てない)  「こんな細かい食事描写を描く人は、いったいどんな食生活を送っているのか」。その理由を知ることができるとワクワクしながら読んだ。  読んでみると、よしなが先生はご自分で料理もされるし、お付き合いする相手については、「食事についてアレコレ感想を共有できる。美味しい食事をするためにわざわざ足を伸ばすことができる相手じゃなきゃ無理」というエピソードがあり、「ああ、やっぱりね。食へのこだわりの強い人なんだ…!」と、バッチリ腑に落ちた。 (回らないお寿司屋さんでの注文の仕方は、ぜひ真似しようと思います!)  主人公は「YながFみ先生」であり、「よしながふみ先生」ではない非実在漫画家と理解しつつも、いち読者としてはいったいどこまでが本当の話なのか興味が尽きない作品。