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ある奴隷少女に起こった出来事

今こそ考えたい人種差別問題

ある奴隷少女に起こった出来事 あらい・まりこ ハリエット・A・ジェイコブズ
兎来栄寿
兎来栄寿

元来、奴隷問題に関する歴史的な資料や記述は大半が奴隷を扱う側の視点に立ったものでした。そもそも奴隷はまともな教育も受けられないことが多いため当然です。そうした意味で稀有なのが、この『ある奴隷少女に起こった出来事』です。 本書は元々1861年に刊行され、当時はあくまで白人著者が書いたフィクションとして受け止められていました。しかし、1987年になって歴史学者により筆者ハリエット・アン・ジェイコブズの直筆の手紙が発見され、その文章の相似から『ある奴隷少女に起こった出来事』はフィクションではなく、実際に黒人奴隷だった筆者が書いたものであることが証明されました。 「歴史とは勝者によって作られる」といわれますが、本書は弱者の立場から書かれた極めて貴重な記録なのです。 そうして100年以上の時を経て本書はベストセラーとなり、日本では2013年にハードカバー版が、2017年に文庫版が発刊されました。そして2020年8月になって、このコミカライズ版が刊行されたのです。 本作では、フリント家の「所有物」となった筆者や同様の境遇にいる人たちが人間としての尊厳を踏みにじられ続ける様が描かれます。その過酷さは筆舌に尽くし難いものです。 現代の日本人が当たり前に享受しているものが、人類史においては極めて稀有で得難いものであるということを私たちは往々にして忘れてしまいがちです。しかし、中世などではなくほんの最近まで人類はこうしたことをしてきたということは忘れてはならないでしょう。 『ある奴隷少女に起こった出来事』は日本人に読まれ始めてからの歴史はまだ浅いですが、『アンネの日記』や『夜と霧』のように読み継がれていくであろう、いくべき名著です。コロナ禍に伴って人種差別問題が取り沙汰されることが増えた今こそ読まれるべきです。 先人の偉大な努力によって築かれたこの恵まれた環境にもっと感謝しながら日々を大事に、より良いものにするべく生きていきたいと襟を正したくなる、社会的意義が非常に大きい作品です。

佐武と市捕物控 【石ノ森章太郎デジタル大全】

天よ、私を自由にしてください。嘲笑われない為に、脅かさない為に。誰かの支配からではなく己の底から行えるように。

佐武と市捕物控 【石ノ森章太郎デジタル大全】
阿房門 王仁太郎(アボカド ワニタロウ)
阿房門 王仁太郎(アボカド ワニタロウ)

 江戸時代は遥かに自由な時代だった。下手人は指紋やDNA、目に見えない血痕や油脂、デジタルデータのような生理的、物理的な物証からすら自由だった、取りも直さず、犯行の証拠の所在は現代に比べると(拷問などは有れど)ずっと内心の自由に委ねられていた。  そして、その自由は放置と表裏一体だった。『佐武と市捕物控』に於いては多くの身障者、精神的な苦悩を抱えた下手人が出てくるが、彼らが福祉や行政に救われる事は殆ど無く、それ故に犯罪に追い込まれる様が一種同情するように描かれている。殺人者らの境遇は人間の業に纏わる必然として江戸の花鳥風月と混然一体と物として映る。  然し、主人公の一人、(松の)市はそのような状況における盲人でありながら剣技、頭脳、人柄、どれをとっても申し分無い傑物として終始活躍し続けている、ある意味迫害や無理解により憎悪と貧窮を募らせ零落するという「自然」に逆らうような人物だ。では、何故他の犯罪者と違って市は差別する社会に対する憎しみなどを乗り越え、あれほどの人物と成れたのか。  この答えは市の心理を追った一遍「刻の祭り」にあるように思える。詰り、粗筋の紹介はここでは省くが、残虐な盗賊として集う身体障碍者に対する叱咤「盗みや人殺しが悪いことじゃない……?笑わせるな!!(中略)あたしだって…、目が見えないことを、笑われたことは何度もある。そりゃあその時はくやしい そいつも盲人にしてやりたいとも思った。し、しかし、…いちいちそんなことをしていたら……、世のなかに五体満足はいなくなっちまう……。苦しむのはあたしたちだけでたくさんだ」に隠されてる。  ここで市は率直に世の中への憎悪を語る。しかるに、その憎悪の炎を自然生成され、自然に他人を傷つけるべき物と彼は捉えていない。即ち、それが自然である以上に「盗みや人殺しはどんな場合でも正義にはなり得ない」と言う社会の掟こそを優先すべきと見做している節があり、それで己を律する事で憎悪の炎と向き合わせる。  そしてその格率が彼の憎悪のはけ口に単なる暴力や略奪ではないより高度な技法や思想に彼を追いやっている、それが市の人格の秘密である(余談であるが、このような精神のプロセスをフロイトは防衛機制の内の昇華と定義した)。これはある意味では精神の枷であるが、昇華により市の身心は飛躍し、憎悪と貧窮と言う自然の漆喰から自由になる事が許されたと言う側面もある、パラドキシカルな物言いだが、人を憎まないと言う倫理的な枷が寧ろ彼を自然のままの運命から解き放ったのだろう。  私はそこに「自由主義者」石ノ森章太郎の姿を見た。彼は、どの作品でも身体の桎梏を抱えながらも自由を希求する主人公を何度も描いてきた。そして彼にとって自由は単に与えられる物ではない、寧ろ人間を縛っているのは環境が影響することは有れその人間の憎悪や強迫観念であり、自由はそれとの内なる煩悶の繰り返しでしかないと言う事を、石ノ森は描いてきたのだ。  然し、それは何処までも己で闘い勝ち取ると言う世界観の称揚な以上、ややもすると現代的な福祉への批判に結び付きかねない。実際『仮面ライダー』では国家と言う概念≒ショッカーと言う公式がこそがライダーより弱者を生存させ得たかもしれないと言うアイロニーで幕を閉じている。そのような描写は常に存在し、『仮面ライダーBlack』でそれは極北に達した。その作品はゴルゴムと言う無形で無限大の、グロテスクなオカルトとナーバスな陰謀論の沼にヒーローを引きずり込んでいった。そこにある種の苛烈さを見出さない事は許されない。  上記を踏まえて幾らか不謹慎な発想をするならば、石ノ森の自由主義は戦後日本のリベラルを超えて、どこか今のシリコンバレーの大物に通底するより徹底した自由主義と一脈通じているのではないか?石ノ森章太郎が政府の調整効果を強く敵視していた訳はないだろうが、作品に於いてはそれに近い不信感や抵抗が見られない事の方がむしろ少ないように感じられる。それは市のような確固とした自己を形作るが、同時に『仮面ライダーBlack』の魔王のような存在に人を変えかねない。そのような可能性の光と影が石ノ森の作品には渦巻いており、その二元論的な世界観が彼の作品の基調となっている部分もあるように思える。尤も、単なる自由主義的なヒーロー像だけでは彼の作品が今でも注目を浴びることは無かっただろう、そのような自由の希求と危惧の狭間でそれでも善を求めて戦い、己を擲つ事さえ時には厭わずが欲を否定せず認める、そのストイックさがあって初めてヒーローが暴力的なイデオロギーの奴隷の身分から解放されること事を石ノ森は知っていた筈だ。  そぞろな文章を長々と書いたが、江戸に仮託した人間の自然状態からの脱却による自由を希求した『佐武と市捕物控』は正しくその自由の希求により確かに石ノ森章太郎的なのだと繰り返してこのレビューを閉じさせていただく。 余談: ・実際読んだのは90年代に出た小学館文庫版と笠倉から出た『縄と石捕物控』の文庫版だ。文庫をかなり探し回り、最終的に通販を使った都合上こっちの方が入手自体は簡単だと鑑み、このバージョンでレビューさせてもらった ・『佐武と市捕物控』に関しては、夏目房之介の文章(「『佐武と市捕物控』―青年マンガの革命児」-『別冊NHK 100分de名著 果てしなき石ノ森章太郎』収録)が大変すばらしかったので一読をお勧めします。正直、「刻の祭り」に着目したのは夏目に倣ったからです。私は同じ主題の描かれた珠玉の掌編として「北風のみち」もおすすめします。 ・このレビューのタイトルは吉田拓郎の『今日までそして明日から』の一節のパロディですが、今気に入ってると言うだけで、大した意味は無いです

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