なずなのねいろ

三味線弾いていい?存在賭けて鳴らす音

なずなのねいろ ナヲコ
あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ

大切な誰かに教わった物。最早分かち難く身についた行為。大好きなそれを、奪われるとしたら……。 ♫♫♫♫♫ バンド活動に飽きていた高校生・伊賀は、小さな年上の女の子・なずなの津軽三味線の音に触れる。 そのとんでもない音に魅了された伊賀は、なずなに三味線を教わろうとするが、なずなはやると言ったりやらないと言ってみたり……。 伊賀が頑なななずなの心の殻を、少しずつ優しく剥いで行くたびに見えてくる、なずなの心の傷は痛々しい。 全3巻中2巻を費やして、なずなが三味線を「弾きたい」と「弾けない」を行き来する物語は余りに繊細で、苦しい。しかし、なずながそのドラマの重さから解放され、自分らしく三味線を鳴らす時、物凄いカタルシスに満たされる。 ♫♫♫♫♫ 自分の三味線の音は血であり、過去であり、自己であるなずなにとって、三味線を奪われる事は、己の存在を否定される事だった。 例えば同じ津軽三味線漫画『ましろのおと』で、祖父の音を捨てて、自分の音=自分の存在証明を得るべく迷走する主人公の澤村雪と、苦しむポイントは違うが「自分の音=自己を鳴らす」という命題は共通している。 むしろ澤村雪の姿は、なずなの姉を神格化し、なずなの姉の様になりたくても叶わなかった、伊賀と同学年の橘ハルコの方に重なる。 『ましろのおと』に興味のある方は、2008年に同様の命題にチャレンジした『なずなのねいろ』も是非、読んでみていただきたい。

家族のそれから

泣虫のピッチャーではなくて、泣虫のお父さん!?

家族のそれから ひぐちアサ
影絵が趣味
影絵が趣味

ひぐちアサが『おおきく振りかぶって』という大仕事に取り掛かるまえの貴重なラインナップのうちのひとつです。併録はアフタヌーンへの投稿作の『ゆくところ』。そして、表題の『家族のそれから』は初めての連載作になると思います。最初期の作品だけあって、たしかに絵が拙かったり、読みにくいところが見られます。だけど、すでに光り輝いている、完全にひぐちアサなんですね。私はこれを、ある冬の日のスーパー銭湯の休憩所でたまたま読んだんですけど、読み終わって、胸がいっぱいになって、すぐに買いに行きました。 さて、表題の『家族のそれから』は、お母さんがインフルエンザで急死してしまい、遺されたのは高校生の兄妹と父。で、この父というのが結婚したての26歳の義父なんですね。ここにぎこちない共同生活がはじまるわけです。インフルエンザですから、季節は冬から春にかけて。ページをめくるたびに裸木の描写がみられ、さらにそれが徐々に芽吹いてゆくのが物語とは直接関係はなしに丹念に描かれています。そうした隅々に空気感というか魂が宿っています。とくに兄が新聞配達から帰ってくるときの早朝の空気感なんかは言うに謂われぬものがある。 『おおきく振りかぶって』の西浦高校にメントレが導入されてから、練習前の早朝の空気をみんなでイメージしてリラックスする描写がありましたけど、そういう物語とは直接関係はないけれど、不思議と印象に残っているワンシーンは、ひぐちアサの最初期から得意とする描写なんだと思います。 で、物語的には、ぎくしゃくした三人は三人とも胸に抱えるものはありながら、とにかく行動しようとする。若い義父は兄妹の父になろうとして、兄はお荷物にならないために新聞配達のバイトをして、妹は家事に専念する。優しさや強さを見せようと頑張るんです。でも、やっぱり、ぎくしゃくしているし、三人とも胸に抱えるものはあるわけです。このことは『おおきく振りかぶって』にも書きましたけど、つくづく、ひぐちアサという作家は、たとえば、強さと弱さという二律背反っぽいものを背反させるのでもなければ、向かい合わせるのでもなく、ともに前を向いていこうとする。あるいは、強さが弱さを抱いてあげるというのでもない。強さも弱さも単体でそこにあって、それぞれで、ともに前を向いていこうとする。この揺るぎない姿勢にはほんとうに感服します。 ちなみにあとがきにこんなことを買いていました。 「ワタシのマンガはワタシだけのモノですが、読む人は、その人だけのモノを構築するんだぞ~~~と実感しました」