井の中の蛙
僕の通っていた、田舎の学校は学級新聞というもの自体がなく、そこに生徒が漫画を投稿できるという懐の深さもなかったのですが、絵の上手い子はジャポニカの自由帳(表紙が虫とかのやつ)で漫画を描いていたな。 漫画描かせたら1番の子がいきなり、自分より上手な人が現れて負けじと頑張るが・・・という話で、大人の社会にもある話。 自分よりも優秀な人が現れて、切磋琢磨するか?諦めるか? あなたはどちらですか?
学生新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートからは絶賛を受けていたが、ある日、不登校の同級生・京本の4コマを載せたいと先生から告げられるが…!?
日本中の漫画家や創作に携わる人に激震が走った143ページの読切。
この感想は、この作品以外にも引用元と思われる映画のネタバレも含まれるので、ご注意ください。
いまだかつて見たことがないタイプの漫画家マンガであり、ガールミーツガールで、話自体がめちゃくちゃ面白いのに加えて、細かく散りばめられた元ネタを考察するとさらに深いところまで仕掛けが考えられていることに驚きます。
あらすじ
小学4年生の少女・藤野が学年新聞の4コマを担当し、同級生たちから絶賛されていたある日、先生から4コマの枠を1つ不登校の京本に譲ってやってくれないかと打診される。
次に載った京本の4コマは、漫画にはなっていないが強烈な絵の上手さで藤野のやる気に火をつける。
藤野はそれ以来、友達とも遊ばず来る日も来る日も絵の練習をするが、なかなか追いつけず…。
読むと、まだここから展開するのか、という思いと、あっという間に終わってしまった、という思いが溢れました。
読み終わったあとは、涙が溢れていろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざって大変で、脳内をぐるぐる駆け巡り眠れなくなってその後は何も手につきませんでした。
様々な媒体で1年に数百本読切を読んでいますが、近年でこれ以上の読切作品は見たことがありません。
少女が天才に出会って挫折を経験し、ともに漫画家を目指していく話でありながら、それだけでは終わらないのがこの漫画の見どころ。雨の中、田んぼのあぜ道で踊る場面までですでに傑作です。
しかし、なんて感情をエグる漫画なんでしょう。
藤野は絵の上手さで京本という天才を努力を重ねても越えられず、挫折し筆を折りますが、その後彼女はどうあっても漫画を描いていた、ということが創作者の強さであり、そんなんじゃ創作の火は消せないよと言ってるようで強く背中を押されました。
何より、絵は京本より上手くなくても学年新聞のその4コマの内容がちゃんとすごく面白いのがまた説得力になっていて、同級生は絶賛するんですが、小さい一言の「京本の絵と並ぶと藤野の絵って普通だな」という否定の言葉が強く刺さるんですね。たくさんの賞賛より一つの否定がきついんです。
ところがどっこい、自分が勝てないと思った相手・京本は逆に、4コマの面白さの内容的に勝てない、自分のことを尊敬してい天才だと思ってくれていたファンだと分かるわけです!
こんなん雨の中だろうが踊らないわけにはいかないでしょう!すべての否定がぶっ飛びますよ!最高最高最高!
その後の展開は「追悼」であり、「フィクションで現実をぶっ倒す」という表現でもあるんですが、同時に「あり得たかもしれない現在、未来」という永遠のテーマを描いています。
昔からSF小説や映画、漫画、様々なメディアで使われてきた普遍的なテーマですが、藤本タツキ先生流に噛み砕いて提供するとこうなるのか、これがいま日本の漫画家の先頭を走る「背中」なのかと思わされます。
また、社会的な文脈や先生の過去作、映画などの前提知識無しで読んでもこれだけ面白いのに、細かな仕掛けを考察するとこんなにも思考が張り巡らされているとは…と驚かされます。
『チェンソーマン』でも使われた手法で事件を描く際の演出のリアリティと、その現実を乗り越える爽快なファンタジーの繋ぎ方が素晴らしかったです。
個人的に好きなのは139ページの、藤野が京本の部屋で、京本がずっと自分の「背中を見て」いてくれたことが分かり楽しかった過去がフラッシュバックしながら自分が描いた「シャークキック」11巻を泣きながら読むシーン。
泣きながら読んでるのでページにも涙が落ちているんですが、11巻のラストページに時間が経った涙のシミがあります。
これは、長時間そのページで手が止まっていたとも考えられますが、かつて京本がこのページを読んでいたときに流して染みこんだ涙だったのではないでしょうか。目指す道は違えども、ごく最近まで読んでいてくれてたんじゃないか。その前のセリフであるんですよ子どもの頃の。漫画を描くのは好きじゃない、楽しくないしめんどくさいし地味だし、描くもんじゃないよと。「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」に対する回答はセリフでは書かれません。そういうことなんですよね。そこからのページがすべてを物語っています。最高です。だから描いてるんです。
ラスト11ページはセリフはないのに雄弁に語ってくれているんですけど、こんな芸当ができる作家さんほとんどいないんじゃないでしょうか。
作品を読めば分かりますがタイトルである『ルックバック』にもたくさんの意味が込められています。
「過去を振り返っている」ことや、たくさんの場面で登場する印象的な彼女らの「背中」、また序盤から互いに意識し「背中を追う」構図になっていたり、漫画の「背景」だったり、あの4コマだったり。
ストーリー外でいうと、藤本タツキ先生の『ファイアパンチ』や『チェンソーマン』からの引用という自らの過去の「振り返り」の要素もあったんでしょう。藤野と京本という名前からすでに藤本先生の過去に二人を色濃く重ねているように感じます。
具体的には、67ページの「拝啓美術の世界」と、107ページの京本の絵の「扉」が分かりやすいです。
「背景」を描いたアシスタントへの敬意も感じます。
2019年7月18日、つまり2年前の昨日が京都アニメーション放火殺人の事件の日で、発表したタイミング的にも基本的にはその事件に捧げる鎮魂歌になっているんじゃないでしょうか。
どうやら藤本タツキ先生は京アニ作品が好きなのは、過去のインタビューからも分かります。
【アニメイトタイムズ】
「京本」が襲撃されるのも、そういうことでしょうか。
様々な仕掛けですが、まずは扉絵の次のページの黒板「Don’t 」、タイトルの『ルックバック』、ラストページの床に積まれた本の表紙タイトル「In Anger」
『Don't Look Back In Anger』
これはロックバンド「Oasis」の曲で、2017年イギリス・マンチェスターでのテロ事件のアンセム(合唱曲、シンボル曲)として本人たちに使用された楽曲です。
『Don't Look Back In Anger』は、
「思い出を怒りで塗りつぶさないで」
「怒りにまかせて思い出さないで」という意味。
この作品でも、過去の怒りや悲しみに囚われないで前を向いてほしいというメッセージが込められているんでしょうねきっと。
https://twitter.com/Kazuki17910/status/1416792788415303684?s=20
また内容的に、「あり得たかもしれない現在」で動く主人公を描く点からも映画『バタフライ・エフェクト』からの影響も濃厚かと思われますし、この映画のエンディング曲はOasisの他の曲『Stop Crying Your Heart Out』が使われています。
個人的に高校時代に何度も見た大好きな映画で、この曲も大好きです。
タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のパロディも分岐点以降全体の展開が重なっているのと、117~120ページの担架が運ばれるシーンが見受けられたり、ラストページの床に映画のDVDっぽいジャケットのものが転がっているところから分かります。
この映画は、実際に起こったハリウッド女優のシャロン・テートが、チャールズ・マンソンのカルト的信者によって惨殺された事件を入念に描き出して、最後の最後、犯人がシャロン・テートを殺そうとするところから犯人を爽快にぶっ倒して勝つという、クソみたいな現実をフィクションで殴り飛ばす、この事件へのカウンターであり鎮魂歌だった映画です。
4コマの切れ端が京本の部屋に入って「幽霊?」というシーンは映画『インターステラー』でしょうか。
この『ルックバック』内での美大での事件の場所のモデルは、藤本タツキ先生本人の出身校の「東北芸術工科大学」ですね。
建物もそうですし、ラストページの床に積まれているパンフレット?の「TUAD」からも分かります。
ネットに上がっている考察も含めて参考にしてここに書いてますが、まだまだ見つけられていない隠されたメッセージもあるかもしれません。
『ルックバック』はこの後の人生で何回も読み返すことになるでしょう。
本当にありがとうございました。
そして、『ルックバック』を含んだ短編集かな?がすでに9月3日(金)発売予定です。
自分の才能に絶対の自信を持つ藤野と、引きこもりの京本。田舎町に住む2人の少女を引き合わせ、結びつけたのは漫画を描くことへのひたむきな思いだった。月日は流れても、背中を支えてくれたのはいつだって──。唯一無二の筆致で放つ青春長編読切。