清野とおるが好きになる
その「おこだわり」、俺にもくれよ!! 清野とおる
清野とおる漫画は本当落ち込んだ時に読めと言いたい! 以上なほどこだわりがある人物にインタビューし、それを漫画化するというもの。 どの「こだわり」もわかるとは思いつつも異常では?と思ってしまうもので面白い。 一番ふふっと笑ってしまったのはベランダのこだわりエピソード。 ベランダにこだわりすぎて最終的にベランダで寝た男の話w 人の「こだわり」というのは面白いものですね!
私的に密かに静かに拘って楽しんでいる趣味や嗜好。
そういう趣味を持っている人は、オタクだの根暗だの
世間からは批判もされがちだが、
モラルに反さず周りに迷惑をかけない趣味であれば
本来なら許容されてよいことだろう。
誰が何を好きで何にこだわりを持とうが、
周りの人間は、そういうことには触れないでおけばいいこと。
黙認とか見守る・・というのも高飛車になってしまうし、
そしらぬそぶりをする、くらいが世間の、大人の、
正しい対応だろう。
だが、他人が何かに拘っているなら、それを知りたいと
思うのもまた当然の感情。
まして「これだけは拘らずにいられない」
「実は凄く楽しい」という世界があるらしいとなれば、
実態を知らずにはいられなくなるのもまた人間の心理。
そうはいっても、教えてと迫るのも野暮。それも真理。
作者の清野先生は、その辺の欲望がおさえられない。
だから中途半端に相手を気遣ったりしない。
野暮だよ俺は野暮!ゲスの勘ぐりで聞きたいんだよ、
話せよ、お前のこだわりについて!と真正面から叫ぶ。
自分が知りたがりの野次馬だと確信犯として堂々と、
その「おこだわり」俺にもくれよ!と怒鳴るのだ。
御教授下さい、みたいに下手に出ない。
それどころじゃなくツッコミを入れ捲る。
その「おこだわり」が理解不能ならディスり捲って罵倒する。
そのあげく、彼ら彼女らの孤高にして至福の拘りに圧倒され、
泣いて帰って自宅で自分も「おこだわり」を試し検証する。
ある意味、漢(おとこ)だぜ清野先生。
私なんかは「ツナ缶」「アイスミルク」くらいなら
共感できる範囲だし「ポテサラと金麦」あたりは
肯定して尊重して自分も試してみたくなる。
「白湯」とかになると軽く皮肉なツッコミを入れるくらいか。
しかし「ベランドしちゃう」人とか「帰る」人の話なんか聞いたら
戸惑い無反応になるのがせいぜいだろう。
とてもじゃないが清野先生みたいにツッコメない。
しかし清野先生は私とは違う。
興味があることでも無駄にモラルを意識して聞けない、
あきれても失礼だからとツッコメない、
常識外の話には言葉を失って会話が止まる、
そんな私のような小市民に成り代わって、清野先生は
果敢にも相手の「おこだわり」に踏み込み、
聞きたいことを聞き、ツッコミ、打ちのめされてくれる。
もう一度言わせて貰う。漢(おとこ)だぜ、清野先生。
現実の「おこだわり人」との対談時には、
相手にそれほどには真正面からツッコンでも
いないでしょうけれど、心の中ではテンション高く
ツッコミまくっているんでしょうね(笑)。
インタビュアーとしてもストーリーテラーとしても、
そして「おこだわり人」を発見する臭覚がある人としても、
凄い人だと思います、清野先生。
『その「おこだわり」、俺にもくれよ!!』――それは日常の退屈と喜びを描いたノンフィクション漫画の白眉である。著者の清野は、あたたかい眼差しで我々の生活を見つめ、日常に潜む「おこだわり」を抽出する。「僕は貧乏な人は格好がいいと思う」と清貧に生きる人々を賛歌したのは、劇作家の山田太一だったか。清野もまた、ツナ缶、ポテトサラダ、白湯、さけるチーズなど、ゼニのかからぬ喜びを賛歌して余りない。実にタマラン。
『その「おこだわり」、俺にもくれよ!!』――それは日常の退屈と喜びを描いたノンフィクション漫画の白眉である。著者の清野は、あたたかい眼差しで我々の生活を見つめ、日常に潜む「おこだわり」を抽出する。「僕は貧乏な人は格好がいいと思う」と清貧に生きる人々を賛歌したのは、劇作家の山田太一だったか。清野もまた、ツナ缶、ポテトサラダ、白湯、さけるチーズなど、ゼニのかからぬ喜びを賛歌して余りない。実にタマラン。