黒真珠そだち【単行本版】

すべての狂えなかったひとたちへ

黒真珠そだち【単行本版】 意志強ナツ子
野愛
野愛

こういうのから解放されるのっていつなんだろうか。 はやく狂ってしまいたくて、新しい世界を開いてしまいたくて、アブノーマルに傾倒していく気持ちは正直わかる。溺れることで自分の精度が高まっていくような気がするのだ。 でも振り切れてるひとなんて滅多にいない。乳首にピアスを開けて女装AVに出てそらに見られながらワカマツとセックスをしたところでユウキは振り切れていない。側から見たら狂っている部類のひとかもしれないけど、ユウキは結局そっち側に行けない人間だ。おそらくそらも。 だからこそユウキはそらに見たいものを押しつけ、そらはワカマツに見たいものを押しつけ、都合よく崇拝するみたいに恋をしたんだろう。 あの人のようになりたい、あの人に受け入れられたい。それが実際のあの人とは違うものだったとしても。 自分の見たいものだけを見て、恋い焦がれることは間違っているのだろうか? ずっと、狂って振り切れて突き抜けてしまえば楽になれるんじゃないかって思っていた。 私は、おそらく多くのひとは、ユウキのところにすら届かない。狂えないことに気がついて、溺れるのを諦めて、うまく泳ぐしかない。 狂おしい日々に若気の至りとか青春とか名前をつけて忘れる日を待っている。 でも、忘れる日なんてくるんだろうか? そんな日々のことを「僕は今からでも輝けるのだろうか?」なんて眩しく思っているうちはきっと忘れることなんてできないんだろうな。 狂えないまま大人にもなりきれないひとに読んでほしい。

その「おこだわり」、俺にもくれよ!!

話しを聞かせろよ!ツッコませろよ!という男らしさ

その「おこだわり」、俺にもくれよ!! 清野とおる
名無し

私的に密かに静かに拘って楽しんでいる趣味や嗜好。 そういう趣味を持っている人は、オタクだの根暗だの 世間からは批判もされがちだが、 モラルに反さず周りに迷惑をかけない趣味であれば 本来なら許容されてよいことだろう。 誰が何を好きで何にこだわりを持とうが、 周りの人間は、そういうことには触れないでおけばいいこと。 黙認とか見守る・・というのも高飛車になってしまうし、 そしらぬそぶりをする、くらいが世間の、大人の、 正しい対応だろう。 だが、他人が何かに拘っているなら、それを知りたいと 思うのもまた当然の感情。 まして「これだけは拘らずにいられない」 「実は凄く楽しい」という世界があるらしいとなれば、 実態を知らずにはいられなくなるのもまた人間の心理。 そうはいっても、教えてと迫るのも野暮。それも真理。 作者の清野先生は、その辺の欲望がおさえられない。 だから中途半端に相手を気遣ったりしない。 野暮だよ俺は野暮!ゲスの勘ぐりで聞きたいんだよ、 話せよ、お前のこだわりについて!と真正面から叫ぶ。 自分が知りたがりの野次馬だと確信犯として堂々と、 その「おこだわり」俺にもくれよ!と怒鳴るのだ。 御教授下さい、みたいに下手に出ない。 それどころじゃなくツッコミを入れ捲る。 その「おこだわり」が理解不能ならディスり捲って罵倒する。 そのあげく、彼ら彼女らの孤高にして至福の拘りに圧倒され、 泣いて帰って自宅で自分も「おこだわり」を試し検証する。 ある意味、漢(おとこ)だぜ清野先生。 私なんかは「ツナ缶」「アイスミルク」くらいなら 共感できる範囲だし「ポテサラと金麦」あたりは 肯定して尊重して自分も試してみたくなる。 「白湯」とかになると軽く皮肉なツッコミを入れるくらいか。 しかし「ベランドしちゃう」人とか「帰る」人の話なんか聞いたら 戸惑い無反応になるのがせいぜいだろう。 とてもじゃないが清野先生みたいにツッコメない。 しかし清野先生は私とは違う。 興味があることでも無駄にモラルを意識して聞けない、 あきれても失礼だからとツッコメない、 常識外の話には言葉を失って会話が止まる、 そんな私のような小市民に成り代わって、清野先生は 果敢にも相手の「おこだわり」に踏み込み、 聞きたいことを聞き、ツッコミ、打ちのめされてくれる。 もう一度言わせて貰う。漢(おとこ)だぜ、清野先生。 現実の「おこだわり人」との対談時には、 相手にそれほどには真正面からツッコンでも いないでしょうけれど、心の中ではテンション高く ツッコミまくっているんでしょうね(笑)。 インタビュアーとしてもストーリーテラーとしても、 そして「おこだわり人」を発見する臭覚がある人としても、 凄い人だと思います、清野先生。

ケントの方舟

環境問題への意識が突き抜けている

ケントの方舟 毛利甚八 魚戸おさむ
ひさぴよ
ひさぴよ

オゾンホール問題やダイオキシン問題など、日本において環境問題への意識が最高潮に高まっていた90年代。その最中に連載されていたのがこの「ケントの方舟」です。 私の好きな「家栽の人」毛利甚八&魚戸おさむコンビなので、”良い漫画”として紹介をしたいのけど…いやいやこの漫画、なかなかの過激な思想を持つ漫画でした。 ゴリラの研究をしているサル学者・森野賢人が区議会議員選挙へ打って出て、型破りなやり方で環境保護政策を進めていくというのが基本ストーリーです。 森野の穏やかな表情とは裏腹に、突拍子もない構想を抱いている事が次第に判ってきます。 例えば、ゴリラのために東京都内に森を作り、森の壁で分断しようとする案。 さらにはゴリラと人間をかけあわせて森と人間の融合を図る案など、どう考えてもヤバい思想です。 環境問題に熱心な人ですら同意困難なレベル。 そういった考えを公に発信しているわけではないものの、ふとした時に本音が漏れ出てくるというか。もちろん漫画の中では肯定されています。 おそらく森野の中で優先順位は、自然>ゴリラ>人間なんです。 環境問題が加熱していた時代特有の狂気を感じました。 おもわず「マッド・エコロジスト」という言葉が頭に浮かんだので、ここに書き残しておくことにします。

哭きの竜

あンた、背中が煤けてるぜ

哭きの竜 能條純一
さいろく
さいろく

麻雀を打つ人はきっと「哭きの竜」という名前ぐらいは聞いたことあるでしょう。 麻雀打ちにとって神のような無敵の麻雀打ちの代名詞のようなものです。 でも意外と読んだことある人は多くないのかも? 著者の能條純一先生は今現在は「昭和天皇物語」を描いておられますが、「月下の棋士」も超有名な作品です。絵柄や間の使い方が独特で、読者を魅了する作品を残しています。 本作の主人公は「哭きの竜」と呼ばれる雀ゴロ。 竜自身はめちゃくちゃ口数が少なく、たまに喋ったと思うとヤクザの親分達相手にも怯まずズバッとコケにしちゃうという恐れ知らずにも程がある性分。 ただ、ヤクザの親分になる器が私にはないのだと思うのですが、親分さん達には「神のヒキ」と言わんばかりの竜の持つ「強運」が魅力的に映るようで、テッペンを目指す親分がたは、こぞって竜の強運を欲しがります。 しかし彼らに対して竜は 「あンた、背中が煤けてるぜ」と言います。 背中が煤けてるってどういう意味?という議論が割とあったようなのだけど私の解釈だと「死相が出てる」ってことかと思ってます。 死相が出ている、今やろうとしてるソレはやめときなよ、と言ってあげているのではないかと。 事実、それを言われた人たちはその後大体死んじゃうんですよね。 死神ってわけじゃないんだけど。 触るもの皆傷つける的な、ギザギザハートの子守唄のような存在。 竜は最初こそヤクザの代打ちで稼いでいたものの、気づけば各方面の組長達からのラブコールで引っ張りだこ。 で、仕方ないからついてって麻雀打てというから打ってあげて、勝ったら相手が激おこで死ぬ。 そりゃー竜も嫌になりますわ。 「ふっ」って嘲笑に近い感じでよく笑うんですが、親分からすりゃ「いい度胸だ」と思われて逆に気に入られちゃうっていう悪循環。 竜本人は根無し草をヨシとしているとこもあるんですが、最初の"甲斐の正三"親分から充てがわれた女をしっかり家で待たせてたりと、人情っぽいものも無くはない。ミステリアスというと安っぽいですが、不思議な魅力の持ち主。 漫画としてはどうなのかというと、抽象的な表現が多く、ヤクザ屋さん達の意地や任侠の在り方がわからない私には少し難しかったですが、逆に麻雀を打つシーンはあるものの麻雀のルールを知らなくても全く問題ない感じです。 詰まるところ、竜を囲う周囲の成り上がりたいヤクザ達の物語、と言っても過言ではない。 というかほとんど甲斐組の話ですが、京都の大親分なんかですら竜に魅了されちゃってるわけで… 竜は「ファブル」の"山岡"のような恐怖を知らないタイプの男かもしれません。 読後感はとても良く、新装版では全5巻っぽいので(1冊380Pとかあるけど)一気に読むのには最適ではないかと思われます。 麻雀打ちなら嗜みとしてマスト、そうでない人でも話のネタにはもってこいの作品でしょう。

新 男!日本海

読むとIQが下がると言われている超名作

新 男!日本海 玄太郎
名無し

読んでためになるマンガとためにならないマンガがあるとしたら間違いなく後者になる超名作「男!日本海」の新しい単行本がついに出ました。 この単行本が発売することは全く知らず何気なく新刊をチェックしてたらひときわ目立つ表紙で発見しました。 「令和」の時代にあえてこれを発売しようとすることを俺は断固支持をします。目次をみた感じだと今まで発売した全10巻以降の回を収録してあるようです。 そのためか全く説明がない状態でいつもの「男!日本海」のノリで話が進むため新規読者には理解できないと思いますが、1話を読めば全てが理解できるので問題はないです。「男!日本海」は単行本未収録回が多く全部単行本が出ていれば全30巻ぐらいにもなる長編になり、もしこれが3巻以降も発売されつ続け、20巻ほど発売した場合、昔の「男!日本海」と「新 男!日本海」で「男!日本海」の1992年から1998年までの連載時の内容を全て読むことができることになります。 これを「令和」の時代に読めることを奇跡と言わずしてなんというべきでしょうか?不寛容な社会と言われますがこのような内容のマンガを発売し続けることができる寛容な社会であって欲しいと願います。