あうしぃ@カワイイマンガ
あうしぃ@カワイイマンガ
1年以上前
東京の城址を求めて街を彷徨う、女子高生のあゆりと美音。微かな歴史の痕跡から、古を空想して楽しむ東京散歩。あゆりと一緒に「え、城どこ?」って言いながら、画面を睨んで楽しもう! ----- 江戸城を始め、東京には沢山の城があったと伝えられているが、それらは建造物どころか、基礎の遺構すら殆ど残っていない。必然的に東京の城址巡りは、画面的にはただの公園や社寺、街歩きになってしまう。 漫画としては危機的なこの状況を、面白く救ってくれるのは、城址マニアの美音や教師の田辺に「何じゃそりゃ!」と突っ込む、素人のあゆりの存在。 私達はあゆりと一緒に、分からないなりに目を凝らして、微かな遺構を見出し、歴史上の人物に想いを馳せる。そして城址の知識を得、歴史の醍醐味に魅せられて、街を見る目が変わった時、私達はもう一度、二度と、この作品を見返したくなるのだ。 「あそこの城址って、どんなだっけ?」と。 街の風景に「歴史」という四次元軸を与えて、古くて新しい感性を吹き込むこの作品。考え方としては、『ちづかマップ』が「古地図」によって土地の時間軸を遡行していくのと相似している。 都市の地層を、城址のかつての姿が見えるまで、めくっていく。この作品は、そんな考古学的妄想の産物なのだ。 ハルタ印の美しい画面は、緻密に描き込まれつつ整理され、眺めていて気持ちいい。ちょっと荒んでいたあゆりの心が、優しそうでいて結構毒舌な美音との会話と新たな興味で、次第に落ち着いてゆく様子も、併せて見つめていたい。
名無し
1年以上前
作者・せきやてつじ先生がコミックス2巻の後書きに 「現代版「ルパン」を目指して描きました」 と書かれている。 「それが成功したか否かは、読者の皆さんの  判断にゆだねます」 とも。 ルパン三世といえば、泥棒稼業でありながら 魅力的なキャラのルパンとその仲間が繰り広げる 娯楽的なストーリーで、国民的に人気があり 広く支持されている漫画・アニメ作品だと思う。 ジャンゴも信頼できる凄腕の仲間達と 派手で豪快な強盗劇を繰り広げる。 峰不二子的な美女や、つきまとう警部などのキャラも 意識してルパン的な要素として盛り込まれたのだろう。 しかしルパンに比べて暴力的な流血や殺人まであり 痛快とか爽快、と、素直に感じるには難しい部分が多い。 更に言えば、第一話から仲間が結構凄惨な殺され方を するのに、間接的にではあるがその犯人に 仲間になるようにいわれ、半ば、そうなってしまう。 私としては、まず最初に、そして最期まで、 この部分が引っかかった。 「仲間を思う気持ちが強いはずなのに、  仲間を殺したヤツとほいほいと手を組むのかよ」 と。 仲間が何より大事、仲間とは信頼しあうもの、 と、そう考えるなら色々と矛盾しているだろジャンゴ? そう感じてしまった。 なので物語を読んでいる間、ジャンゴへの感情移入、 ジャンゴを応援する気持ちが少しダウンして しまった感じは否めない。 「もしかして作者は、そういう大事なところを  まったく気がついていないのではないか」 とも考えてしまっていた。 実はそこのところは作者はチャンと考えてストーリーを 進めていて、ラストまでにはキッチリと ジャンゴとしてそのことに関しての考え方、捉え方、 だからジャンゴはこう考えて行動して仲間を選ぶのだ、 そういった部分についてはシッカリと明らかに 説明をしてくれる。 明らかになったからといって、それについて万人が 納得するか、正しいと思うか、共感するか、 それらは作者のおっしゃるとおりで 「読者の判断にゆだねるしかない」 という内容であるとは感じた。 だが少なくとも、せきやてつじ先生は 犯罪であるとか生死に関することとかも含めて 自分はこう思うからこういう生き方しか出来ない、 そういう大胆不敵な男を描きたかった、 法は犯すが自分ルールを犯しては生きられない男、 そういう男としてジャンゴを描きたかった、 けして肝心な部分を気づかずに描いた漫画ではなかった、 ということは判った。
作者・せきやてつじ先生がコミックス2巻の後書きに
「現代版「ルパン」を目指して描きました」
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名無し
1年以上前
第4巻で終了(第一部・完とはなっているが)。 第4巻での平松先生のコメント 「残念ながら・・」は本音だろうな、と思う。 本気でご自身の集大成的な漫画にしようと 連載開始時には考えていたのだろうと思う。 もっとも漫画家の先生は皆さんが一作一作ごとに 最高傑作にしようと思って描き始めるだろうし、 そう思っていても結果が出ない漫画が多いのだろうから 「そういう一作品に終わった」ってことになるけれど。 自分はこの作品を読んで面白いと思ったので 4巻で終わってしまったのは残念だった。 作中に描かれていた平松先生の努力や苦悩や失敗、 それらはまさに実体験から生まれた迫力が 感じられると思ったので。 だが掲載雑誌での人気アンケートで不評で、 単行本の売れ行きも芳しくなかった、というのは 解る気もする。 あくまでも自伝「的」漫画であるとか フィクション混みで描いていると 平松先生自身が作中で明言したりしていたので、 読者としても、どうしても一歩引いて 見ざるを得なかった。 編集者が木刀を振り回す時点で読者だって 「あ、フィクションを入れてる」とは理解する。 けれど作者自身から作中で 「プロレス的だった」とか 「だいぶフィクションが入っている」とか 言われてしまっては、 読者としては話しにノレなくなってしまう。 「そしてボクは外道マンになる」だけれども、 平松先生自身の実体験を描きながらも そこにフィクションを加えるなら、せめて 「フィクションだけれど俺がそう感じたという 真実を描いているんだ」 と開き直って欲しかった。 そうであれば後半に登場した 「本来は存在しえない」外道マンも、 編集さんやアシスタントさんや奥さんの 内面的な判断や心情に関する 「ホントにそう思ったか確認しようがない」心理も、 「これは平松先生が感じた真実なのだ」 として素直に受け入れられたと思う。 具体例をあげれば第4巻での 権藤さんとの殴り合いのシーン。 権藤さんがどう思って殴り合っていたか、は 後に平松先生の推測としてかかれてはいるが、 ここでは触れていない。 このシーンは凄くいいと思う。 後に「推測で」権藤さんの気持ちを書いたことも。 だがここで編集・真髄の内心・感想を 描く必要はなかったと思う。 あえて描くのなら 「真髄のヤローは、こう思っていたに違いない」 と、自身の独断的感想として描いたほうが 読者もノレて読めたと思うのだ。 独断だから正しい保証はないが、 平松先生がそう感じたのは真実なんだな、と。 漫画ってのは、ありえないことをありえないと意識させずに 面白おかしく楽しく読者に読ませるものなのかもと思う。 ドーベルからブラックまではそれが上手く出来ていた、 だが皮肉なことに自伝漫画を描くことになったときに その辺で少し、先生と読者の間にあるズレが 顕著に表面化してしまったのかもしれない、と思う。
第4巻で終了(第一部・完とはなっているが)。
第4巻での平松先生のコメント
「残念ながら・...