兎来栄寿
兎来栄寿
9ヶ月前
新鋭・草原うみさんの初商業連載作品です。 路草で公開されていた珠玉の短編をまとめた『mothers 草原うみ短編集』も6月に発売となるようで、併せて推したいです。 本作の主人公は、5歳からコンサートに出演し10代前半からプロとして活躍しながらも局所性ジストニアという脳の病が発症したことをきっかけにピアノを弾けなくなってしまった越智奏(かなで)。 かつての仲間たちが華々しい活躍をしているのを尻目に、印刷工場のバイトをして日々を凌ぎながら誰とも話さず下を向いて耳を塞いで過ごす日々。 そんな彼を変えるきっかけになったのは、隣の部屋に引っ越してきた33歳のライターの横野絵里と、その6歳のピアノに憧れを持つ息子の陽向多の親子。7年ぶりに向き合ったピアノの音色と人との触れ合いが、奏の失ったものの大きさと大切さを気付かせていきます。 音楽という軸がまずあり、その上で人生で最も大切なものを失くしてしまった青年の再起の物語という軸も並存しています。夢も未来もすべてを無くしてしまい、無気力になり周囲に呪詛を撒き散らすことしかできなくなってしまっていた奏の姿は痛々しいですが、理解もできます。 草原うみさんは、短編からも本作からも痛みや悲しみを掬い取り、そうしたものを描いた上で前に進む普遍的で大事な人間の営みを描くのに長けている方であるという印象を受けます。どうしようもなく人生に訪れる不条理や不遇、他者からの心ない扱いを受ける瞬間。そういったものもありながら、勇気を出して前へ進んでいく人間の気高さや尊さを描ける方です。 この物語のもうひとりのキーパーソンは、かつて奏の音に心酔していて、今は「ネオピアニスト」として動画配信サイト経由で大きな人気を博すようになった真琴。彼との再会によって物語は動きを見せ始め、互いの存在が互いに大きな影響を与えていきます。 個人的には、横野親子との日々の交流シーンが好きです。現代では希薄になりがちな隣近所との関係ですが、そうした赤の他人との繋がりが大きな支えになることもあるというのも良いなと思います。 単行本の表紙絵も非常に良く、回収されるであろうタイトルを表すシーンへと辿り着く瞬間がとても楽しみです。
ひさぴよ
ひさぴよ
9ヶ月前
https://www.shogakukan-cr.co.jp/book/b110795.html 『漫画が語る戦争 焦土の鎮魂歌』(小学館クリエイティブ)で読んだ曽根富美子の短編「ヒロシマのおばちゃん」が衝撃的だったので、もう一度読みたいと思って電子書籍版を探してたら、この短編集に収録されていた。 「ヒロシマのおばちゃん」以外の短編は、戦争の話というよりちょっと昼ドラっぽい話が多いものの、それでも表題作を読むためだけに買っても損はないと思う。 作品の詳しい時期は分かってないのだが、状況からして1990年代頃の設定と思われる。広島での戦争体験を語り継ぐの”一人のおばちゃん”を通して、戦時中の自身の半生を振り返るところから物語は始まる。巧みな語り口と、曽根先生お得意の、不幸で陰湿な心理描写にグイグイと引き込まれてゆく。そしておばちゃんは不幸のドン底と同時に、原爆の日を迎えるのだが…。 変わり果てた広島の街を、怨念そのものとも言える鬼気迫るタッチで描き出し、一度目にしたら忘れられないような光景がこの漫画にはある。おばちゃんは最後に「あれは地獄だったよ」とだけ語る。と同時に、この出来事が教科書の中のたった数行に収まってほしくない、と願うのだった。 個人的には「はだしのゲン」と同じく、ぜひ読み継がれてほしい戦争漫画の一つだ。
兎来栄寿
兎来栄寿
9ヶ月前
「東京最低最悪最高!」の流れを色濃く受け継いで、現代を鋭利に刳り取ってみせる鳥トマトさんの新作が1・2巻同時発売となりました。同時発売の『アッコちゃんは世界一』とあわせて3冊同時発売ですが、全部オススメです。 主人公のジゲン(27)は売れないカメラマン。その姉・姫子は、新興宗教の教祖と仮面結婚をして莫大な財力を手に入れ、学生時代からの関係がある社長令嬢でビッチのアメリと恋仲。ジゲンが好きな5つ年上の男性・山田は、アメリと不倫する仲で奥さんとの離婚を画策中と1話目で提示される人間関係からドロドロの泥沼の様相を呈してきます。 そして、それだけでも成立しそうな人間ドラマにひとつまみ盛り込まれるファンタジーが、タイトルにもなっている「性欲を消すカメラ」の存在です。人間の根源を司る三大欲求のひとつを消し去ると、何が起こるのか。さまざまなシチュエーションの人間たちが、どこからどこまで性欲を原動力に駆動しているのかということを目の当たりにできるという意味でも非常に面白い作品です。 お金が無さすぎて資本主義の犬になるしかないジゲンは、生活のために姉や社会から多種多様なことを強いられます。マッチングアプリやブラック企業、メン地下や新興宗教、モラ男や家父長制など現代の象徴的なシーンを巡っていく中でさまざまな人間と関わっていきますが、「普通」とか「まとも」と呼ばれるような生き方をしている人がメインにはほぼ出てきません。 しかしながら、深い中身を見ようとしなければ、皆普通に生きているように見えるであろうという絶妙な状態の描き方が最高な作品です。あたかもカメラを通して切り取った一瞬が、現実よりも美しく見えるように。みんなみんな生きているんだ、友達ではないけれど。 ジゲンの恋愛に関するトラウマであったり、姫子やアメリの現在に至るまでの諸事情などが徐々に明かされていく構成、その上で描かれる主軸の人間ドラマも良いです。個人的には、1巻終盤のドライヴ感全開のセリフと展開が好きです。呪詛返しして強く生きていく力と魂を常に持っていきたいものです。 鳥トマトさんの絵柄とお話の相性も絶妙で、デフォルメが強いところとシリアス時のギャップがまた演出として強い効果を発揮しています。表情の描き方などもすごくいい瞬間があるんですよね。 唾棄したくなるような現実、人間、事象を描きながらも、読んでいると不思議とエネルギーをもらえる紛うことなき現代文学です。
兎来栄寿
兎来栄寿
9ヶ月前
『幻滅カメラ』の1,2巻と同時発売となった、鳥トマトさんの短編集です。 「アッコちゃんは世界一」 「三田君は大丈夫」 「マイお兄ちゃん」 の3つの短編が収録されています。 表題作の「アッコちゃんは世界一」から、とにもかくにも最高なので百聞は一見に如かずでまず読んでみて欲しいです。 https://x.com/tori_the_tomato/status/1788949089192923568?s=46&t=S5wm4E-TmT39NBg4BgQsPA 今この瞬間も、現実世界では元々とても素敵であったはずの人がさまざまな理由でその輝きを失わされるということが起きているのでしょう。そうなった時に、物語の中では救いの手が差し伸べられますが現実にはその手となるものは自分自身しかないのではないか。そんな感想を抱く人には、まさに3作品目の「マイお兄ちゃん」が刺さることでしょう。 解像度の高い、現代社会で人間を壊す力を持つストレスの元凶たち。そういったものたちから自分を守れるのは究極的に自分だけで、大切な自分を守ることを諦めたり忘れてしまったりしている人に力を与えてくれる物語となっています。 「三田君は大丈夫」は、東大生の本郷くんとKO生の三田くんがそれぞれ会長と副会長をこなす国際交流サークルのお話です。本郷くんにコンプレックスを持つ三田くんが、自尊心を保つために本郷くんにはできない女の子と遊びまくるという行為に直走っていきます。 言うまでもなく本郷は東大の、三田は慶應のキャンパスがある土地の名前で、ヒロインのキラキラした白金さんや芋な千駄木さんさんも土地のイメージから来ているのでしょう。 こちらも「東京最低最悪最高!」の鳥トマトさんだなぁというのを強く感じさせてくれる作品で、競争社会の歪みが生む空虚さや絶望感が何とも名状し難い読み味をもたらしてくれます。三田くんだけならまだしも、最後の方の千駄木さんのセリフが実にリアリスティックで無情感を呈しているところが好きです。 この作品の並びも絶妙で、「マイお兄ちゃん」で締められることによって全体的な読後感としては非常にスッキリしたものになっています。 いろんなものに負けずに大切なあなたの人生を生きて欲しいという祈りの込められた、素敵な短編集です。