(とりあえず)名無し
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1年以上前
笠辺哲をなんと評価すれば良いだろう。 なに気にキャリアのある人で、もう期待の俊才などと言うのも失礼だろう。 「ゼロ年代コミティア系の良心」? いや、別にコミティアに「悪心」が他にあるとも思っていないのだが。 SF的なテイストだと宮崎夏次系のほうがハードコアだが、笠辺哲には独自のつかみどころのない気持ちよさがあって、とにかくいつ読んでも絶妙に「宙ぶらりん」な読後感を味わわせてくれる。 絵柄も話も、少しユルいヌケたところがあって、それなのに描いている世界はちゃんと棘があり、読み重りがする。 かつての小説界であれば、「奇妙な味」というのが相応しいような、貴重な才能だ。 それはともかく。 なんでこの人は、このペンネームなんだろう。 どう考えても映画監督・俳優のジョン・カサヴェテスから取って付けていると思うのだが、その作品に、カサヴェテスっぽさは特にない。 この作品集が刊行された時のインタビューがネットで見つかったが、そこでは、自分から「(アイデアの)ベースになりやすいのが映画」と話題を振って、好きなのはタランティーノ『パルプ・フィクション』、黒澤作品、デビッド・リーン作品、キューブリック作品、『天井桟敷の人々』とズラズラ列挙するのに、カサヴェテスのことはまったく触れていない。 音の響きが面白いから借りた…くらいのことなのだろうか? 不思議。 (もちろんそれで全然構わないのだが。自分のように、カサヴェテスの名前に惹かれてコミックス買っちゃったヤツもいて、その辺もまたつかみどころがない感じがして、なかなか良いと思います)
(とりあえず)名無し
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1年以上前
正直、2000年代に入って以降、こんなに面白いと思った漫画は他にない…と断言したくなるような、とんでもない傑作である。 物語を味わうということ、SFを味わうということ、漫画を味わうということ、そして山田芳裕という無類の才能を味わうということの、他に比べるものが思い浮かばない陶酔を、連載を追いながら毎回噛みしめるように感じていた。 テセラックという存在の息をのむような異質感は、地球外生命体の表現として、世界のSF映画史を見渡しても白眉と呼びうるほどの、惚れ惚れする素晴らしさだ。 この真のモンスターであるテセラックに、人類代表の我らが度胸が挑む…なんと心躍る展開か! …もちろん、既に読んでいるかたはご存知の通り、その「戦い」が描かれることはなかった。 今作は未完なのだ。 この連載をしていた週刊ヤングサンデーは、当時、本当に充実していた。 新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』、山本英夫『殺し屋1』、松永豊和『バクネヤング』のような、超問題作がズラリと並び読む者を煽っていた。 (もちろん、遊人や『海猿』のようなヒット、喜国雅彦・西原理恵子・古屋兎丸などの切れのあるギャグもラインナップされた、恐るべき誌面だったのだ) だが、編集部はある時から、それらパワー溢れる意欲作群に、軒並み「打ち切り」という判断を下していった。 新井英樹が、山本英夫が、そして山田芳裕が、その異能を存分に発揮していたはずの「代表作」の終焉によって、雑誌を去って行った。 『度胸星』の最終回を読んだ時の感情は、今も鮮烈に記憶している。 それは、人生の喜びを奪われてしまった絶望感、としか表現のしようがない。 噂では、新しい編集長が「スポーツ物と恋愛物以外はいらない」と言ったと聞いたが、本当のところは分からない。 やがて、気の抜けたグラビア誌もどきのようになったヤンサンは、アッと言う間に凋落し廃刊となった。 ここでは、講談社から出た「新装版」にクチコミを寄せる。この新装版でも、特に物語の続きが描かれているわけではないのだが。 かつて連載に熱狂していた者としての感謝と、その最終回に感じた絶望の思い出として。 しかし、たとえ未完であるとしても、『度胸星』は今もその面白さを一切減じてはいない。 まるでトマス・コールの名画「青年期」のように、日本SF史に「永遠にたどり着けない幻の城」として屹立しているのだ。 ぜひ、一人でも多くのかたに読んで興奮していただき、自分と同じような重い「悔しさ」を感じていただきたい。 ちなみに、SF作家としての鬼才・山田芳裕は、連載中の『望郷太郎』で鮮やかにシーンに復帰している。 これだけ先が楽しみな漫画は今、他にそうはない。 慶賀に堪えない。
名無し
1年以上前
最強の男は誰か? 最強の格闘技は何か? 格闘技をする者がなりたいと思い、 見る者が見たいと思う、 「世界最強」 だが、現役格闘家は別として、 果たして、マニアが見たいのは本当に 最強の男、格闘技が決まる瞬間だろうか。 成績とか結果とか結論を知る瞬間だろうか。 そうでは無いと思う。 その結論に至るまでの過程が重要なのだ。 それが決まるまでの経過を、ドラマを見たいのだ。 極端に言えば、最強の戦士・格闘技が決定して、 勝者の手がレフリーに掴み挙げられる瞬間より、 最強候補がリングにあがって対峙してゴングがなる瞬間、 試合が決着するまでにいたる攻防、 それらを見て興奮して味わいたいのだ。 「修羅の門」はそれが判っている。 だから、神武館のオープントーナメントや ボクシングの統一戦、ブラジルでのバーリトゥード、 それらの開催に至るまでの過程や、 各試合が始まるまでのストーリーも入念に描いているし、 その話がとても面白い。 そしてそれゆえに本番の試合がまた盛り上がる。 「最強」を決定するのに必要なのは 虚飾を排除したリアルな展開かもしれないが、 それをしすぎて単なるデータの抽出提示の過程に なってしまったのでは 「世界最強」という男のロマンが無味で色あせてしまう。 だから主人公の陸奥九十九は 無謀な連戦もしたりする。 互いに万全な体調で戦いましょう、 公正明大にどちらが強いか確認しましょう、 とか必ずしもそうではない。 だから神武館のトーナメント戦でも キックボクシング、シュートボクシング、プロレス、古武道、 それぞれの最強戦士とあえて戦う立場を自ら選ぶ。 そして大会主催者も相手の選手もそれを了承する。 その流れはリアリティに徹するならありえない流れだが、 格闘リアリティと格闘ロマンの両方を損なわず増幅させてくれた。 このシーンが描かれたとき、 「あ、この漫画、絶対に面白くなる」 と思った。
(とりあえず)名無し
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1年以上前
夢枕獏の小説は、漫画化してもあまり売れない…と、昔、知り合いの漫画関係者から聞いたことがある。 いやいやいやいや、岡野玲子との『陰陽師』があるし、谷口ジローとの『神々の山嶺』は名作だし、板垣恵介との『餓狼伝』だって売れたでしょ!…と反論したのだが、先方は「そうなんだけどねえ…」と言葉を濁した。 (ちなみに、この会話は「それに比べると菊地秀行の漫画化は数字的にかなり手堅い」と続いた。その比較について考えるのはとても興味深いのだが、このクチコミと主旨がズレまくるので触れない) 実は彼とは、かつてボクシングについても同じようなやり取りをしたことがある。 ボクシング漫画って売れないんだよねえ…と言われ、いやいやいやいや、『あしたのジョー』や『がんばれ元気』や『はじめの一歩』とか、ド名作があるじゃない!…と反論したのだ。だが彼は「いや、それはそうなんだけどね。でも、漫画家は描きたがるんだけど、かなり実力がある人でも、あまり上手くいかないんだよ」と答えた。 「夢枕獏」や「ボクシング」は、多くの漫画家がそれに魅了され、漫画にしたいと願い、そして実際に挑戦するのだが、作品的にもセールス的にもなかなか送り手が期待するような結果にならない、と言うのだ。 そう考えると、確かに、夢枕の小説が持つ破天荒な面白さを、漫画というフィールドに結実し得た作品というのは、あまり思い浮かばない。 上記三作はそれぞれの漫画家の類い稀な個性によって「面白く」なったのだが、あくまで「例外」ということなのか。 そういう意味では、スティーブン・キングの映画化と近いかもしれない。 (ちなみに、ボクシングについても、「村上もとか『ヘヴィ』や細野不二彦『太郎』といった意欲作が彼らの豊かなキャリアの中でどんな位置か」とか、「明らかにボクシング漫画を指向していたにも関わらず森田まさのり『ろくでなしBLUES』はなぜそのジャンルとして失敗したのか」とか、「車田正美『リングにかけろ』が正統的ボクシング漫画であることを止めてから売れたのはなぜか」とかを考えるのはとても興味深いのだが、これもやはりこのクチコミと主旨がズレまくるので触れない) 前置きが長くなりすぎた。 とにかく、夢枕獏の漫画化は「難しい」のだ。 しかし多くの漫画家や編集者は、この魅力的で危険な「賭け」に、今も挑み続ける。 やまあき道屯『大江戸恐龍伝』は端倪すべからざる作品である。 原作の、江戸期のスター・キャラをズラリ並べて荒唐無稽・縦横無尽に突っ走る面白さに、漫画家は必死に喰らいついている。 構成は少しダイジェスト感があり、いかんせん詰め込みすぎではあるのだが、熱気と主張ある絵柄で美事なコミカライズとなっていると思う。 近年の収穫と呼ぶに相応しい力作だと信じる。