長い道

すずさん、道さん

長い道 こうの史代
影絵が趣味
影絵が趣味

映画化大ヒットの『この世界の片隅に』や『夕凪の街・桜の国』などの広島を舞台にした連作で名高いこうの史代ですが、今回紹介するのはそんな彼女の初期の作品である『長い道』です。 舞台は戦時でも広島でもなく、業田良家の『自虐の詩』にも似たちょっとダメな感じの新婚夫婦を短編連作形式で描いているのですが、至る所に後の広島連作に通ずるモチーフやエッセンスが出てくる出てくる。『長い道』はこうの史代の原石の宝庫と言っても過言ではないかもしれません。 スターシステムを採用しているので『この世界の片隅に』のすずさんと、『長い道』の道さんは同じ顔なのですが、二人の共通点は顔だけでなく、それぞれの世界の捉え方、ここにもひとつあると思います。すずさんや道さんの目からはいったいどのように"この世界"がみえているのでしょうか。 なぜ、こうの史代がすずさんや道さんのような人物を主人公に選ぶのか、そこには彼女が座右の銘にしているというアンドレ・ジッドの言葉「私はいつも真の名誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」に深い関係がありそうです。こうの史代の世界にやられてしまった人はジッドの代表作のひとつ『田園交響楽』もおすすめです。

イエローバックス

火の作家、高浜寛

イエローバックス 高浜寛
影絵が趣味
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夜、わたしは住宅ひしめく町の、とあるアパートの一室に居て、部屋の電気をパチッと落とす。部屋はまっくら闇になる。それから蝋燭に火を灯してみる。周囲がぽわーんと仄かにあかるくなる。火の種は微かに揺れて、それに合わせるように周囲のあかるみも微かに揺れている。 高浜寛のマンガは、そんな揺れうごく火の種から、さながら幻影のように浮かび上がってくるかのようである。 わたしたちは日頃、何の疑問も持たずに、白い紙に黒い線で描かれたマンガなるものを読んでいるが、まず光の問題というものがある。目は、眼球というものは、光を通してでなければ対象をみることができないのだ。あるいは心の目にも似たようなことがいえるかもしれない、まず観照という光があり、それに照らされてはじめてイメージが浮かび上がる、照らされなければそこには闇が蠢いているばかりである。しかし、この闇というものからしてすでに光の生産物ではないか。光があればこそ、そこには闇があるということがみえる。光の前では、闇すらもそこらじゅうの対象と何ら変わりなく照らされるものでしかない。そうであれば、実は、光と闇は二項対立ではないのではないか。光と闇があるのではなく、まず、光がある。闇はその光により照らされてはじめて見られるものとなる。では、その光はどう見ればいいだろう、その光を照らす光はないのである。つまり光それ自体はどうしても見えない。光に照らされた対象をみることで、間接的に光を感ずるほかないのである。 マンガとは、ひとつにイメージの具現化である。イメージそれ自体と、描かれて具現化されたものとは当然異なってきてしまう。もっといえば、描かれたものと、読まれてイメージされたもの、これも当然異なるものになる。しかし、イメージしたものをありのままの姿で具現化したいというのが作家の本心ではないだろうか。そして高浜寛の場合は、その具現化したいイメージそれ自体に、まずイメージが光によって照らされて結ばれるまでの過程が含まれていたのではないか。高浜寛のあの特異性、黒い頁からコマが浮かび上がってくるかのようなマンガの描き方、なぜ高浜寛がほかに類を見ないこのような描き方をしているのかは、ひとえにまず光があるという問題から来ているのではないか。

GOOD WEATHER

手塚マンガ、大友マンガ

GOOD WEATHER 大友克洋
影絵が趣味
影絵が趣味

わたしには、はじめて外国文学を読んだとき、ちっとも読めなかったという経験があるのですが、みなさんはどうでしょうか。英語やフランス語やドイツ語やロシア語が読めなかったのではありません、あろうことか翻訳された日本語がちっとも読めなかったのです。読めないなりに読んでいるうちに、いつのまにか慣れてしまい読めるようになったのですが、あのはじめに感じた読めなさはいったい何だったんだろうと、いまでも時々思うことがあるのです。 そして大友克洋です。大友克洋をはじめて読んだときも、ちっとも読めなった。こういっては失礼というか語弊があるかもしれませんが、マンガなのにもかかわらず、ちっとも読めなかったのです。ただし、この読めなさには理由があって、すぐにそれに気が付くことができました。わたしは手塚治虫からマンガを読むようになった、これが大きな理由でした。周知のとおり手塚治虫はマンガの祖であり、マンガの描き方/読み方を体系化した人であります。つまり、わたしは、この手塚式のマンガに慣れ親しみすぎていたあまりに、手塚とはまるで異質のマンガ体系を持つ大友を読むことができなかったのです。手塚マンガは記号の集積であり、大友マンガはカメラのレンズであった、この体系の違いを察知してはじめて大友を読めるようになったというわけです。