しっそうにっき
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歪な面白さ

江口寿史という漫画家がいまして、彼は世間的にはマンガを放棄したひととして有名(マンガをやめてイラストレーターに転身した)なようなのですが、じっさいのところ、彼は自身が漫画家であることに、いまだ深い誇りと拘りとを持ち合わせてやまないようなのです。そして、ここにもひとり、吾妻ひでおという一度はマンガを放棄して戻ってきたひとがおります。 手塚治虫文化賞、日本漫画家協会賞、文化庁メディア芸術祭、星雲賞など、権威ある賞を総ナメにした吾妻ひでおの『失踪日記』ですが、ここに辿り着くまでには"失踪"の一言では片付けられない前途多難なエピソードがあるのです。タイトルそのまんま、自らの失踪からのホームレス、アル中などの体験を描いた『失踪日記』の内容ついては、たくさんの賞のお墨付きがあるので面白くないわけがない、ということで割愛させて頂き、このたびは、吾妻ひでおはどうして失踪しなければならなかったのか、というところについて触れていきたいと思います。 失踪日記の冒頭にもある通り、原稿を途中で投げ出して行方を眩ました後、失踪してしまった吾妻ひでおですが、同じように原稿を放棄した江口寿史とは似て非なるところがあります。それは一言でいうと、やりきったかやりきってないか、の違いだと思います。江口寿史は良い作品にしようと拘るあまり完成に間に合わず、どうせできないなら止めてしまえ、という立場をとりました。いってしまえば只の不真面目です。対して、吾妻ひでおは大真面目。失踪後の今でこそ、アウトローの代表格のようになっていますが、失踪前のキャリアはむしろ真逆で連載を掛け持ちしまくり月に100頁以上を描き上げる仕事ぶりでした。こういう書き方をすると、あまりの仕事量に音を上げて失踪したと思われそうですが、それもまた少し違います。さきほど、江口寿史に不真面目のレッテルを貼りましたが、彼にしても元々は漫画に対する真面目すぎる気持ちが仇となって、どうせ完成させられないならやらない、という不真面目に振り切る経緯があったわけですが、吾妻ひでおの場合は真面目に真面目を貫いた、つまり、締切や作風等の出版社や編集者の意向には従いつつも自らの誇りと拘りを発揮し続けたのです。対して、江口寿史のばあいは自らの誇りと拘りを守るために放棄したといえるかもしれません、そこにはもちろん週刊少年ジャンプというメジャー誌の王道で連載していた江口と、マイナー誌やエロ本等の辺境で活躍していた吾妻との土壌的な違いがあるのですが。 では、具体的には何に拘ったのか? 従来のギャグに(小説家の筒井康隆らから影響で)SFやナンセンスの要素を盛り込んだスタイルで人気を博した吾妻ひでお。当時その試みは新鮮で、大友克洋、いしかわじゅんと合わせてSFマンガのニューウェーブ御三家と呼ばれたりしていました。しかし、新しいものが古くなるのは自明の理、吾妻ひでおはブームが頂点に向かう最中、新たな試みをはじめます。彼はブームに乗っかって同じネタを繰り返すことはしなかったのです。彼が見据えたのはナンセンスのさらにその上、「表現の解体」というテーマでした。そもそも「ナンセンス」とは約束事や理論性をあえて無視することで生まれるユーモアの総称で、そこから吾妻ひでおが得意とするスラップスティック(ドタバタ)や不条理な笑いが引き出されてきたわけですが、彼はそれだけでは飽きたらず、自らが考え出したギャグの体系や方法論、さらには先人たちが創り上げてきた漫画表現そのものを壊していったのです。つまり、先人たち、そして自らが積み重ねてきた漫画表現という名の「建物」を文字通りひとつずつ解体していったのです。 実に様々な方法で「解体」を試みた吾妻ですが、その代表的な例に「ナハハ」というキャラクターの存在があります。この時期(奇想天外社から『不条理日記』等を発表)の吾妻漫画に頻繁に登場する「ナハハ」という名のキャラクターは喜怒哀楽の表情を持っていません。もっというと大人なのか子供なのか、男なのか女なのかも判別できない、つまり登場人物としての情報を全く持っていないのです。「ナハハ」の他にも、無口、無表情、無感情を徹底したキャラクターが当時の吾妻漫画にはいくつも登場します。表現豊かな漫画が描けるようになった時代に、あえて、その逆を突き進み「空虚」を描こうとしたのかもしれません。 そして、あらゆる漫画表現を解体し壊しきった先に吾妻が見たのは正に「空虚」そのものでした。当然のことながら、何もかも壊してしまった後には何も残りません。吾妻の周囲には先人たちや自らがかつて創った漫画表現の残骸が散らばっているだけで、目の前には只々広がる真っ白な闇、空虚があるだけだったでしょう。これを目の当たりにした吾妻は遂に何も描けなくなり、逃げ出し、酒に溺れることになります。ここらへんまでが『失踪日記』には描かれなかった前日譚になるかと思います。 表舞台から姿を消してから十数年……、心と体の健康を取り戻しつつあった吾妻は、かつて自らが壊した漫画表現のスクラップを広い集めて再構築をしはじめます。それが『失踪日記』であり、あるいは、そう、『失踪日記2~アル中病棟~』で吾妻が作っていた、ガラクタのネジや何か、どうでもいい金属片でできた、あのオブジェ作品のように。『失踪日記』の魅力は、正にあのオブジェと同じようなものなのでは、という気がします。つまりそれは、不完全の美学であり歪な面白さなのではと。思えば、ナンセンスにしても解体にしても、吾妻ひでおはいつだって歪さを追い求めて漫画を描いていたような気がします。これこそが吾妻の自己表現の形であり、誇りと拘りの種だったのではないでしょうか?

影絵が趣味
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タイトル
本文
失踪日記
失踪日記
吾妻ひでお
吾妻ひでお
あらすじ
「全部 実話です(笑)」(吾妻) 突然の失踪から自殺未遂・路上生活・肉体労働──『アル中病棟』に至るまで。著者自身が体験した波乱万丈の日々を、著者自身が綴った、今だから笑える赤裸々なノンフィクション。 ・第34回日本漫画家協会賞大賞・平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞・第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞・第37回日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門 数々の賞を受賞した名作が待望の電子書籍化! さらに、電子書籍限定特典として関連作品を収録! これはもう総てのアズマニア、だけでなく総ての現代人にとっての福音の書だと思いました。面白くて面白くて、泣く暇も震える暇もありません。[足の丸い四頭身で描かれた現代の新約聖書]て事でどうでしょうか。受難の煉獄とも言える全編を覆う、強烈な生命力が軽妙ですら有ります。──菊地成孔(ミュージシャン) ●単行本カバー裏 インタビュー『裏失踪日記』収録●【電子書籍限定特典】・『放浪日記』2006年・『失踪こぼれ話』2001年 【目次】夜を歩く/街を歩く/アル中病棟/巻末対談 吾妻ひでお×とり・みき/裏失踪日記/失踪日記 電子書籍限定特典
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