スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました

絵が良いのでその時点で勝っている

スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました シバユウスケ 森田季節 紅緒
mampuku
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似たような作品で溢れた昨今においてはなんの捻りもなく没個性な作品ではありますが、表紙のイラストと右下に小さく印字された名前を見ると勝利が約束されていることがわかります。絵師ガチャの勝ち組です。「紅緒」さん、今かなり注目度の高い若手のイラストレーターさんで、'10年代後半を体現したような柔らかい曲線美と透明感のある繊細な色使いが印象的です。コミカライズ版のシバ先生の絵も原作の雰囲気にかなり近いです。これは売れないほうが不思議なくらいだと思いますw 一応ストーリーにも触れておくと、50連勤で過労死したOLが異世界に転生してスローライフを送る話です。50連勤というと自営業の感覚ではありがちな感じがしますが、勤め人としての50連勤はいろいろストレスがやばそうで絶対に経験したくないですね…… 前世の記憶を持ちながらいきなり17歳の少女として転生しますが、17歳以前の彼女が存在したのかどうか気になります(「仮」の意識が使い捨てられ、転生者の容れ物として……って感じのホラーありそうw) 先ほど「没個性」という言葉を使いましたが、これほど絵がよくて見せ方がよくてキャラクターがよければストーリーの個性なんてべつに要らないな、と本作品を楽しく読みながら思いました

天国大魔境

正統派のマンガ家とはパロディ作家だ!!

天国大魔境 石黒正数
影絵が趣味
影絵が趣味

手塚治虫にしても、藤子不二雄にしても、元をただせばパロディ作家なのである。そもそもスターシステム(同一の作家が同じ絵柄のキャラクターをあたかも俳優のように扱い、異なる作品中に様々な役柄で登場させるような表現スタイル)からして自作間におけるパロディであるし、一般に手塚が体系を整えたといわれる漫画的記号の数々にしても発明者本人に特許権のようなものは何ら存在しておらず、作家間を隔てる異空間を超えてあたりまえのことのように浸透している。あまりに広く、あまりに希薄に、浸透しているので、それがパロディだとも気づかぬほどだが、1970年代には吾妻ひでおが『不条理日記』等の作品で漫画的記号の使用を脱臼させてみせ、それがパロディ的要素を備えていることを如実に示してみせた。吾妻はその後、アルコール依存症に苦しみ、一時はマンガ界から姿を消すが、大ヒット復帰作となった『失踪日記』が『不条理日記』の頃からは考えられない"正統派"のマンガであったことは記憶に懐かしい。ちなみに手塚は自作内に吾妻のマンガキャラクターをパロディとして登場させるなどしていたが、手塚キャラをパロディギャグにして世に出てきた田中圭一が最近では『ペンと箸』や『うつヌケ』等の"正統派"のマンガで第二次ブームをむかえている。 そしてほかでもない石黒正数も、手塚治虫や藤子不二雄、それから吾妻ひでおや田中圭一らに連なる正統派のマンガ家であると思うのだ。正統派のマンガ家とは、マンガというものに広く希薄にも共有されて、そして受け継がれているものの使用に自覚的な作家にほかならない。それは当たり前にそこにあるものではなくあまりに貴重な共有財産である。パロディとは、それを使わせていただきます、という一種の照れのようなものである。だからこそ異端であるかのようなパロディ作家こそが正統足りえるのだ。 いっぽうで共有財産の使用を拒んだ真の異端としてのマンガ家が数人いる。彼らはマンガの革命者であり、マンガの可能性の限界を押し広めた者たちであった。大友克洋、高野文子らがそれにあたるだろうか。そして石黒正数のパロディは多岐に渡るが、作品間を超えて貫かれており、今作『天国大魔境』にも見られるのは大友や高野のパロディである。背景の白い建物の壁にひび割れや汚れが描かれるのは大友そのものであるし、ジーンズの描き方は高野から来ているものにちがいないだろう。さらに一巻目をさいごまで読んで驚いたのは、おねえちゃん、ストップひばりくんではないか! 江口寿史とは正統→異端に転じたひとであろう。異端である革命者はやはり偉大だが、わたしは正統派も同様に偉大であると思う。パロディとは一種の愛のようなものではないか。なぜって石黒正数のマンガのそこここから偉大なマンガの数々への愛が感じられるのだ。